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2014年2月6日山川 吉太郎 (一)

火薬や飲料水で問題をおこしたユニバーサルスタジオ・ジャパンも盛況で、斜陽気味だった映画文化が見直され、大阪の経済効果も期待できるのは嬉しいことです。
今号からお話しする山川吉太郎は、まだ映画に音も声もなかった無声時代に、空前のヒット作といわれる「籠の鳥」を製作した大阪映画界の先駆者です。
明治45年(1912)後に「ミナミの大火」と呼ばれる大火事で、大阪の歓楽街千日前は焼け野原となりました。ミナミがすたれると商都大阪は壊滅する、なんとかしたいと復興運動にのりだした南海電鉄社長大塚惟明(これあき)は、焼け跡に近代的な興行場を作り人寄せの目玉にしたらと考え、山川吉太郎に頭を下げます。吉太郎は明治9年(1876)生まれ。当時は活動写真館「三友倶楽部(くらぶ)」を経営し、天然色活動写真会社(略称・天活)の大阪支社長をかねていました。アイドル役者山崎長之輔を育てた敏腕の興行主です。

山川 吉太郎氏

「な、ミナミのためや。一肌ぬいでくれ」
と、かきくどく惟明に、
「あんたとこの電車の乗客集めたいからやろ」
と冗談をいいながら、
「カネは出せよ」
と念を押してひきうけます。
彼の計画は遊ぶことならなんでもできるレジャーの綜合施設を作ることでした。火災の跡地で土地がバカ安だったのも幸いし、大正2年(1913)1月、大阪の興行史に残る「楽天地」がオープンします。1300坪の土地に地下1階地上3階の円形ドーム型の巨大な建物で、イルミネーションが輝き「不夜城」と呼ばれます。遊園地ですが大劇場1小劇場2をもち、大劇場では外国映画、小劇場「朝陽殿」はお笑いで、ウグイスチャップリンや花菱アチャコらの出演で男性向き「月宮殿」は少女琵琶劇で若い娘さん好み、大正時代のクレイジーキャッツと今ではいわれる巴家(ともえや)寅子一座の悲恋劇に、オイオイ声をあげて泣きました。この中のとびきりかわいい少女が人気を集めますが、彼女が後の名優田中絹代です。
地下には水族館・ローラースケート場からパチンコなどの遊戯施設まであり、一日中老若男女を楽しませます。ミナミの被災者たちが何を求めていたのか…吉太郎はそれを熟知しての企画でした。(続く)