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2014年2月25日鉄道唱歌の人たち(八)

大ヒットした「鉄道唱歌」の作詞者大和田建樹は、詩人・歌人としては無論、東京高等師範学校(現・筑波大学)教授も務め、数々の業績をあげた国文学者でもあります。ただし彼は学歴が無く独学です。そのため学閥で結ばれた学者仲間から嫌われます。国民的人気が高いだけに、大衆に迎合する軽薄な男だと白い眼で見られ、あら探しする連中も多い。

当時の大阪駅(交通科学博物館)

当時の大阪駅(交通科学博物館)

建樹も反抗的で、「俺は偉いやつと官吏が大嫌いじゃ」と広言し、学内でもしばしば同僚と衝突をくり返す。文部省との折り合いも悪く、いつもにらまれている。おまけに無類の酒好き、金銭感覚ゼロとくる。売れっ子だから収入は多かったはずですが、どこでどう使ったのか家計はいつも火の車。しかも有名な医者嫌い。健康管理がまったくできず、家族を泣かせて明治43年(1910)10月、53歳で急死しました。
死の直前まで筆を放さず、「日本海海戦」など7編の軍歌を書き残しています。さすがに文壇の大御所尾崎紅葉から、「あいつはタイプライターだ。たたけばいくらでもことばがとびだしてくる」と、感嘆されただけの筆力の持ち主ですね。こんな短歌もあります。
「なんとなく嬉しきものは水色に晴れて明けゆく年の初空 建樹」
その建樹をひっぱりだ「鉄道唱歌」を企画して初版を出した西区阿波座通りの小出版社「市田昇文館」の主人市田元蔵は、商才に欠けた夢追いびとで、何度もふれたように失敗しては唐物町、松屋町などを転々としたあげく、今の北区梅田1丁目にあった俗称「でんでん長屋」と呼ばれるうらぶれた長屋暮らしになりました。
近くの大阪駅からは、「鉄道唱歌」の軽快なメロディが流れてきます。
「これでええんや。大和田先生や、作曲でお世話になった多梅稚さんに恩は返した。わいの目に狂いはなかった。あのお二人やさかいに、当たりに当たったんやぞ」とわずかな知り合いに言いふらすのが、せめてもの慰めでした。
大正7年(1918)、あの恐ろしい「スペイン風邪」が大阪を襲います。世界中が震えあがった伝染力・死亡率抜群の悪性インフルエンザです。知人が倒れたことを聞いた元蔵は、見舞いにとんでいくが感染し、高熱を発してあっという間に死亡します。
ときに43歳、妻と2人の子供を残しての無念の他界でした。  (続く)