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2014年2月7日ボードウィン (四)

大阪最初の公立医学校兼治療所「浪華仮(かり)病院」の指導者蘭医ボードウィンは、明治初年に来日した西洋の学者・技術者には珍しいほどの月給75円という薄給で、超過勤務も休日返上もいとわず学生の教授や、患者の診療にあたります。
偉い人ですが、偉いのはボードウィンを支えた緒方惟準(これもり・洪庵の次男)も同様です。大阪府が惟準に渡した人件費は、たったの150円ですから、恩師のボードウィンに半分渡したことになります。助手や下働きをする人たちがかなりいますから、残り半分をわけ与えると、惟準はタダ、いやおそらく私費を持ち出したと思われます。
ボードウィンの日本びいきも特筆にあたいします。商人薩摩屋半兵衛の世話で日蓮宗の寺院法性寺(中央区中寺1丁目)に下宿しますが、半兵衛は熱心な信者でいつもお題目を唱えて拝んでいます。ふしぎそうに眺めていたボードウィンは、いつの間にか半兵衛に感化され、バイブルをはなして窮屈そうにひざを折り、半兵衛と並んで本尊の前でうちわだいこをたたきだしたそうです。愉快な人物ですね。

緒方 推準

明治2年(1878)浪華仮病院は大福寺(天王寺区上本町4丁目)から、鈴木代官所跡(国立大阪病院のある場所)に移り、学生も100名に増えます。
翌3年任期満了で母国オランダへ帰ることになりますが、横浜医学東校では主任のドイツ人医師の着任がおくれ、明治政府は2ヶ月間だけ代理してくれと頼みます。
「自分は医学書や医療器具は、すでに全部船便で出した。それにドイツ人のつなぎとは、プライドが許さない」
とさすがの彼もむくれますが、惟準に説得され手ぶらで赴任。ドイツ人医師の担当予定だった神経・消化生理学を、なんの資料もノートも見ずに講義します。この内容はのちに『日講記聞』のタイトルで刊行され、テキストになりますがそのすばらしいこと。
「聴者は総て其の精該(せいがい)に服す」
と、当時の書物に記されています。
政府は彼の医学界への貢献に感謝し、帰国時に功労金2千円を贈りました。オランダでは本職の軍医にもどり、一等軍医正(しょう)に昇進、1885年63才で亡くなります。生涯独身でした。浪華仮病院は明治6年さらに北御堂に移り「大阪府立医学校」と改称されますが、これが大阪大学医学部の先祖です。(終わり)