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2014年2月7日ボードウィン (一)

大阪が全国に自慢できる医学のメッカ大阪大学医学部は、オランダ人医師A・F・ボードウィンのおかげで誕生した「浪華仮(かり)病院」をルーツとします。
明治元年(1868)大阪を訪れた明治天皇は、歓迎の人たちに眼帯をつけた姿が多くまじっているのに気がつかれ、府知事後藤象二郎に、
「わずかだが、これを資金の一部にして、公立の病院を建てたらどうか」
と、お見舞金を下賜(かし)されました。当時大阪では、トラホームがはやっていたのです。
さっそく象二郎は有名な緒方洪庵の次男、緒方惟準(これもり)を呼んで、
「蘭医学(オランダの医学)で治療する公立病院を作りたい。長崎の養生所(シーボルトのいたオランダ商館の医院。近代西洋医学発祥の地)に負けないものにしたい」
ともちかけ、協力を頼みました。

ボードウィン

惟準は養生所で修業したとき世話になり、今は上海(しゃんはい)にいる恩師ボードウィンに、ぜひ大阪においでくださいと懇願します。
ボードウィンは1822年、オランダのドルトレヒトに生まれ、優秀な成績でグローニング医科大学を卒業、ユトレヒト陸軍軍医学校教官になります。この学校には、ヨーロッパでも指折りの眼科専門医ドンデルス教授がおり、ボードウィンは彼にかわいがられ、眼科手術の秘伝を授けられました。
文久2年(1862)、養生所の医師ポンペが任期満了で帰国します。幕府は必死になってオランダ商館に後任を探してくれと頼みますが、幸い商館にボードウィンの弟が勤めていました。こういった事情から陸軍一等軍医ボードウィン大先生が、おひげをひねりながら日本に来てくれたのです。惟準は養生所で気に入られ、オランダ留学の便宜もはかってくれた彼を、心から尊敬しておりました。
養生所時代のボードウィンに、こんなエピソードがあります。日本の医療器具と薬品の貧弱さにびっくりした彼は、遠い母国に3度も取りにもどっています。とくに3度目はものすごい量の器具をかかえてきますが、全部産婦人科のものばかりです。
お産は女のつとめだといわれ、産医学は貧弱そのものでした。多くの女性がどれほどお産で死亡したか…眼科得意のボードウィンの人柄が、とてもよくわかりますね。(続く)

ボードウィン (二)

明治元年(1868)上海(しゃんはい)を旅行中だったオランダ人医師ボードウィンは、緒方惟準(これもり・洪庵の次男)から
「天皇さまのお声がかりで、日本のセカンド首都大阪に、近代的な蘭医学の公立病院が誕生します。知事も大賛成で理想的な病院になると思います。病院の指導者は先生以外におられません。なにとぞ国家医療のため、もう一度お力をお貸しください」
と懇願されます。長崎の養生所に勤めていたころ、もっとも気に入った愛弟子の頼みです。それに天皇さまのひとことでその気になります。オランダは日本と同じ皇室のある国家で、国民たちは皇室を深く尊敬しております。
医学者としてもっとも充実していた40才のボードウィンは、喜び勇んで再来日するのですが、事情は大きく変わっていました。全面的に協力するといった府知事後藤象二郎が、東京へ転勤したのです。あとはおきまりの財政難、明治新政府も発足したばかりで幕府崩壊後の社会状勢は大混乱、蘭医学病院どころではありません。

下宿した法性寺

病院はどこかねと尋ねるボードウィンに、ひらあやまりにあやまった惟準は、父洪庵がいつも西洋の医学書を取り寄せていた書店山田正助の紹介で、大福寺(天王寺区上本町4丁目)の境内を借りて「浪華仮(かり)病院」を開きます「仮」とは予算がついて本格的な病院を建設するまでの「仮」という意味です。  次に薩摩屋半兵衛に、ボードウィンの身の回りの世話を頼みます。半兵衛は江戸堀(西区)にあった薩摩藩蔵屋敷に勤めた商人で、洪庵の「適塾」の門下生、カタコトのオランダ語の会話ぐらいはできました。
彼は熱心な日蓮宗の信者です。さっそく法性寺(中央区中寺1丁目)の住職日定(にちじょう)に、オランダの先生を下宿させてくださいと頼み、ボードウィンに、
「先生、なんでもいいつけておくんなはれ。ただし食事は日本式でっせ。文句は聞きまへんで」
と何度も念を押しました。
ボードウィンは法性寺を気に入りましたが、みそ汁につけものが続くと大男だけに腹ペコ、いきなり境内で豚を飼い、トンカツにしてペロリと平らげます。
「せ、先生、お寺で殺生はあきまへん」
半兵衛はあわてて手をふりました。(続く)

ボードウィン (三)

緒方惟準(これもり・洪庵の次男)と、蘭医ボードウィンが開いた大阪最初の医学校兼治療所「浪華仮(かり)病院(天王寺区上本町4丁目・大福寺境内)」には、全国からとびきりの秀才、40名の若者が集まります。
当時の時間割は次のとおりです。
「午前6時~8時 講義緒方惟準 8時~10時 講義ボードウィン 10時~12時 入院患者診察 午後0時~5時 外来患者診察 6時~8時 講義緒方惟準 8時以後 各自予習復習」
ものすごいスパルタ教育ですね。休憩や食事の時間はとってはいませんから、各人あいたときにあわてて済ませたようです。
「まごまごしておると食う物にありつけぬ。よって汁かけ飯大繁盛」
と記されています。いつ寝たのかもわかりません。

浪華仮病院跡碑

もうひとつ驚いたのは前回書いたように、ボードウィンはヨーロッパでは5本の指に入る眼科の権威ドンデルス博士の愛弟子です。ところが浪華仮病院での講義内容は、すべて性病の治療と感染を防ぐやりかたばかりでした。明治2年(1869)講義はまとめられ『日講記聞』訳・緒方惟準)と題して刊行されていますが、それを読むとどんなに当時の日本人が性病に無知であったか、またどれほど蔓延(まんえん=広がること)していたか、あきれるばかりだといわれます。
もちろん本職の眼病治療も卓越(たくえつ=ずばぬける)していました。浪華仮病院の設立は、当時大阪で流行していたトラホームを心配して、明治天皇が公立病院を設立したらと府知事に話したのが起こりですから、多くの眼病患者が押しかけます。
「大福寺へ行こ。異人さんが魔法で目をあけてくれるで」
といった噂が広がります。
ボードウィンの繁忙さは、ことばではいえないほどでした。そんなに働いて給料は、たったの月額75円です。この時代、多くの西洋人が来日して新しい文化や科学技術を教えましたが、誰もが給料と労働時間にきびしい条件をつけます。1日6時間勤務、月5回の休日、土曜日は午前中のみ、月給200円以上…これが最低条件です。今ならあたり前ですが、西洋人は利己的だ、わがまま、勝手すぎると嫌われた理由のほとんどがこれです。
ところがボードウィンは、薄給も超過勤務も、ひとことも文句をいいませんでした。(続く)

ボードウィン (四)

大阪最初の公立医学校兼治療所「浪華仮(かり)病院」の指導者蘭医ボードウィンは、明治初年に来日した西洋の学者・技術者には珍しいほどの月給75円という薄給で、超過勤務も休日返上もいとわず学生の教授や、患者の診療にあたります。
偉い人ですが、偉いのはボードウィンを支えた緒方惟準(これもり・洪庵の次男)も同様です。大阪府が惟準に渡した人件費は、たったの150円ですから、恩師のボードウィンに半分渡したことになります。助手や下働きをする人たちがかなりいますから、残り半分をわけ与えると、惟準はタダ、いやおそらく私費を持ち出したと思われます。
ボードウィンの日本びいきも特筆にあたいします。商人薩摩屋半兵衛の世話で日蓮宗の寺院法性寺(中央区中寺1丁目)に下宿しますが、半兵衛は熱心な信者でいつもお題目を唱えて拝んでいます。ふしぎそうに眺めていたボードウィンは、いつの間にか半兵衛に感化され、バイブルをはなして窮屈そうにひざを折り、半兵衛と並んで本尊の前でうちわだいこをたたきだしたそうです。愉快な人物ですね。

緒方 推準

明治2年(1878)浪華仮病院は大福寺(天王寺区上本町4丁目)から、鈴木代官所跡(国立大阪病院のある場所)に移り、学生も100名に増えます。
翌3年任期満了で母国オランダへ帰ることになりますが、横浜医学東校では主任のドイツ人医師の着任がおくれ、明治政府は2ヶ月間だけ代理してくれと頼みます。
「自分は医学書や医療器具は、すでに全部船便で出した。それにドイツ人のつなぎとは、プライドが許さない」
とさすがの彼もむくれますが、惟準に説得され手ぶらで赴任。ドイツ人医師の担当予定だった神経・消化生理学を、なんの資料もノートも見ずに講義します。この内容はのちに『日講記聞』のタイトルで刊行され、テキストになりますがそのすばらしいこと。
「聴者は総て其の精該(せいがい)に服す」
と、当時の書物に記されています。
政府は彼の医学界への貢献に感謝し、帰国時に功労金2千円を贈りました。オランダでは本職の軍医にもどり、一等軍医正(しょう)に昇進、1885年63才で亡くなります。生涯独身でした。浪華仮病院は明治6年さらに北御堂に移り「大阪府立医学校」と改称されますが、これが大阪大学医学部の先祖です。(終わり)