わいワイ がやガヤ 町コミ 「かわらばん」

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2014年2月7日E・ハンター (三)

明治14年(1881)現在の此花区西九条7丁目にハンターとあい夫妻は、「大阪鉄工所」を設立、西洋式船舶の製造を始めますが、大阪港工事や日清、日露の戦争で注文が殺到、従業員を大量に募集しびっくりするほどの給料をはずみました。
「大阪鉄工所に行こう。黄金の雨が降っとるぞ」
と、労働者たちは津波のように押し寄せ、昼も夜も働きます。西洋式能率給をとりいれたのです。工場は拡張をくり返しました。
ハンターはどのような会合にも、かならず妻あいをつれて出席します。新工場が完成した祝賀会にも、関西の政財界のお偉がたが集まる寄合いにも、軍部や政府が招待した宴席にも、夫妻は比翼(ひよく)の鳥のように並んで座りました。西洋では当然ですが、当時の日本にはこんな習慣はなく、みんな驚いて二人を眺めます。

ハンター父子

なにしろ口ひげをはやし、重厚なフロックコートに包まれた大兵肥満の外国人と、その肩にも届かぬ華奢(きゃしゃ=ほっそりして上品なこと)な和服で寄り添うこけし人形のようなあいですから、政府の高官までポカーンとあいた口がふさがりませんでした。
ハンターは事あるごとに、あいに相談します。新規事業を起こすときも細かい数字まであげ、意見を求めます。
「そんなこと、うちにはわかりません」
とあいがほほえんでも、
「いや、キミの同意がなによりも必要だ」
とむきになって説明をくり返しました。男の仕事に女は口出しするなといわれていた時代の話です。
明治40年(1907)ハンターは、神戸市生田区北野に自宅を新築します。豪華な洋館で今は王子動物園(灘区青谷)の隣に移築保存(重要文化財)されていますが、設計はあいがいかに便利で快適に暮らせるかにポイントを置き、隅々にまで心配りがみられます。
大正6年(1917)ハンターは74才で亡くなりました。あいは長い髪を切り棺の中の夫の手に握らせます。それからは社会福祉事業に尽力し、昭和14年(1939)89才の天寿を全うしました。
ハンター、あい夫妻には、3男3女の子宝が恵まれます。長男・竜太郎は父の名に漢字を当て範多家を起こし、ドイツのグラスゴウ大学で造船学を専攻、大阪鉄工所に新しい経営哲学をもちこみ、さらに発展させます。 (終わり)