わいワイ がやガヤ 町コミ 「かわらばん」

みなトコ×みなとQ みなとQ編集室 06-6576-0505

2015年4月24日大阪市長物語(二)

明治31年(1898)10月、初めての大阪市長選挙が行われ、大阪一の豪商住友吉左衛門友純と、心斎橋の呉服商「丸亀屋」の主人田村太兵衛の争いとなりました。投票権のある者は市会議員59名だけという選挙です。誰もが吉左衛門の楽勝だと思っていたところ、投票箱をあけてみると、田村32票、住友27票となります。
「そんなあほな。まちがいないか調べ直せ」
血相変えた住友派議員の大声で管理委員が確かめると「注友」と書いた1票が混じっている。無効や無効やと田村派は喜びますが、某市会議員が立ちあがって、
「それ、わいが書いたんや。わいは吉左衛門はん入れたから、まちがいあらへん」
と、色をなします。

田村 太兵衛

田村 太兵衛

「あかんやないか。名乗りをあげたら。こら無記名投票やさかい、あんたは失格や。やっぱり無効やで」
と管理委員がなだめると、吉岡又三郎という議員が、
「ほら、以前わいの名前、吉岡又兵衛と書いたやつが、有効になったやないか」
と古い話をもちだし、すったもんだのあげく、この票は有効になったそうです。愉快な時代ですね。
大阪生え抜きの財力も人格も衆に優れた大富豪を破った太兵衛は、なんと丸亀屋を番頭・手代・丁稚までつけて、まるごと高島屋呉服店(現・百貨店高島屋)に譲ります。店は繁盛していたが、市長になったからには副業はいかんと自ら廃業したわけで、男・太兵衛の心意気があふれています。
当時の市役所は江之子島にあった大阪府庁(西区江之子島2丁目)内に、仮設の形で置かれていました。さっそく出勤した太兵衛は、助役・収入役に新人を起用。庶務・衛生・労務・土木・会計の5本柱をたて、いきなり学校教員の私宅教授禁止令をだします(当時の教員の大半は、自宅で私塾を営む)。続いて大阪築港付近の防波堤工事、江之子島青物市場の創設、市教育会の設置、川口居留地の廃止、上下水道の拡張工事、そして江之子島に新大阪市役所の建設と、大車輪に働きはじめます。
とはいえ、長い間呉服屋の主人だった太兵衛です。とにかく洋服を着るのが大嫌い。いつも着物に前垂れをつけて出勤します。また物腰が低い。市役所に文句をつけにきた人にまで、「へえー、いらっしゃい」と迎えました。(続く)