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2015年4月24日大阪市長物語 (一)

大阪市の発展に、タイプの異なるさまざまな市長さんが、行政手腕を発揮して貢献されました。私は生きている人をあげつらうのは大嫌いなので、戦前の市長さんから偉い人や、人柄もすばらしいと思っている方たちを選んで、今号からしばらくお話しします。
大阪市は明治22年(1889)に誕生しますが、市長は官選の府知事が兼務したため、選挙で選ばれたのは、同31年(1898)10月に就任した田村太兵衛が初代です。

田村 太兵衛

田村 太兵衛

市長は自前で決めるべきや、天下りでは地方自治はできまへん…こんな声が市民から起こって、この年選挙がおこなわれるが、選挙といっても投票権のある者は、59名の市会議員だけという時代でした。
ところが肝心の立候補者がいない。仕方がないので議員たちは相談し、大阪一の豪商で人望もある住友家の15代当主住友吉左衛門友純に、つれだって頼みにいきました。ところが吉左衛門は、
「あかん、商いが忙しいよて厭や」
と、そっぽを向きます。手をかえ品をかえ説得に手間どっているうちに、心斎橋筋2丁目(現・中央区)にあった呉服屋「丸亀屋」の主人田村太兵衛が、「わいがやったろう」と大声をあげます。
当時彼は49歳の働きざかり。学問や文芸を好み、市会議員の経験もあって、
「厭なもんをかつぐのはけしからん」
これが立候補のあいさつです。
驚いた市会の多数派は、
「大事な大阪を、呉服屋なんかに任せられるかい」
と、土下座までしてとうとう吉左衛門をくどき落とし、強引な選挙運動を展開します。
運動期間はたったの三日間ですが、物珍しさも手伝って世間は大騒ぎ。朝日新聞は先頭に立って、
「住友派28名、田村派25名、中間派6名が鍵をにぎる大接戦」
とはやしたてます。さあ、この6名の引抜き合戦が大変だ。酒席に招き物品を贈りあい、実弾もおおいに乱れとび、
「住友派の荒木英一、田村派に通じたり。参謀横田虎彦も田村が根城に泊まりたりとの噂たつ」
との怪情報まで流れます。田村の選挙事務所は大きな料亭でした。しかしネーム・バリューがちがう。誰もが吉左衛門の楽勝を信じて投票箱を開くが、とびあがります。(続く)

大阪市長物語(二)

明治31年(1898)10月、初めての大阪市長選挙が行われ、大阪一の豪商住友吉左衛門友純と、心斎橋の呉服商「丸亀屋」の主人田村太兵衛の争いとなりました。投票権のある者は市会議員59名だけという選挙です。誰もが吉左衛門の楽勝だと思っていたところ、投票箱をあけてみると、田村32票、住友27票となります。
「そんなあほな。まちがいないか調べ直せ」
血相変えた住友派議員の大声で管理委員が確かめると「注友」と書いた1票が混じっている。無効や無効やと田村派は喜びますが、某市会議員が立ちあがって、
「それ、わいが書いたんや。わいは吉左衛門はん入れたから、まちがいあらへん」
と、色をなします。

田村 太兵衛

田村 太兵衛

「あかんやないか。名乗りをあげたら。こら無記名投票やさかい、あんたは失格や。やっぱり無効やで」
と管理委員がなだめると、吉岡又三郎という議員が、
「ほら、以前わいの名前、吉岡又兵衛と書いたやつが、有効になったやないか」
と古い話をもちだし、すったもんだのあげく、この票は有効になったそうです。愉快な時代ですね。
大阪生え抜きの財力も人格も衆に優れた大富豪を破った太兵衛は、なんと丸亀屋を番頭・手代・丁稚までつけて、まるごと高島屋呉服店(現・百貨店高島屋)に譲ります。店は繁盛していたが、市長になったからには副業はいかんと自ら廃業したわけで、男・太兵衛の心意気があふれています。
当時の市役所は江之子島にあった大阪府庁(西区江之子島2丁目)内に、仮設の形で置かれていました。さっそく出勤した太兵衛は、助役・収入役に新人を起用。庶務・衛生・労務・土木・会計の5本柱をたて、いきなり学校教員の私宅教授禁止令をだします(当時の教員の大半は、自宅で私塾を営む)。続いて大阪築港付近の防波堤工事、江之子島青物市場の創設、市教育会の設置、川口居留地の廃止、上下水道の拡張工事、そして江之子島に新大阪市役所の建設と、大車輪に働きはじめます。
とはいえ、長い間呉服屋の主人だった太兵衛です。とにかく洋服を着るのが大嫌い。いつも着物に前垂れをつけて出勤します。また物腰が低い。市役所に文句をつけにきた人にまで、「へえー、いらっしゃい」と迎えました。(続く)

大阪市長物語 (三)

明治31年(1898)10月、初めての選挙で当選した初代大阪市長田村太兵衛は、前身が心斎橋の呉服店「丸亀屋」の主人だっただけに、和服に前垂れ姿で市役所に出勤。物腰も低く、文句をつけにきた人にまで
「へえー、いらっしゃい」と迎え、笑顔で言い分を聞いてやり、「まいどおおきに」と送り出しました。当時の大阪府知事たちはお殿様タイプが多かったので、誰もがびっくり。人柄も良く私欲も無かったので「前垂れ市長」とか「おおきに市長」とかのあだ名がついて人気は上々、市民に親しまれます。
しかし太兵衛は、6年の任期を全うすることができませんでした。同34年8月、突然辞表をだしたのです。

田村 太兵衛

田村 太兵衛

「いやあ、もうこりごりですわ。市長になってみなはれ。色々な人が勝手なことばかり言いよる。頼むあり、責めるあり、恨むあり、泣きつくものあり。風が吹いても火事になっても、市長が悪いからやと言いなはる。そのうるささには、ほとほと閉口しましたわ。相手は舌一枚動かせばええが、やってみなはれ、ゼニはいるし人手もいる。どないにしんどい仕事か、じきにわかりまっせ」
これが辞任の弁ですが、ひきがねは同年7月20日付の朝日新聞の「大阪市会の近況」と題した記事だと思います。これは大阪市会内部の腐敗・無能ぶりをきびしく批判したもので、
「市会刷新を行はんと欲せば、大英断を以て市長以下の更迭を行ひ、快刀乱麻を断つの挙に非ずんば、改新の実は到底望むべからず」
と結んで、市長の引責辞職を強く要求しています。
しかし本当のところは、西成・東成両郡の編入で、大阪市の人口が50万から70万人に急激にふくれあがった状況に、太兵衛では対応できなかったのが、真相のようです。つまり太兵衛にはカネを集める力がありませんでした。
2代市長には、東京帝国大学出身の関西鉄道株式会社社長・鶴原定吉が就任します。彼は日本銀行大阪支店長や政友会総務委員を歴任し、政・財界に太いパイプを持っています。政友会総裁伊藤博文の強い後押しです。
定吉は市長になるや得意の交通行政にとりくみ、商都大阪大発展の起爆剤になった第5回内国勧業博覧会を天王寺で開催、経済通の敏腕を存分に振るいます。彼を助けたのが、東大・日銀の後輩で助役の菅沼達吉です。そうです、俳優・森繁久彌のお父さんです。(続く)

大阪市長物語 (四)

明治34年(1901)8月、任期半ばで辞職した初代大阪市長田村太兵衛は、その後「大阪博物場」の場長に就任しています。
同場(中央区備後町3丁目)は「西町奉行所」の跡地に設立された大阪唯一の、美術・工芸を収集・陳列・公開した博物館です。江戸時代、大坂の司法・行政のすべては、東・西両奉行が支配しますが、明治維新後奉行所は大阪裁判所になり、明治7年(1874)江之子島(西区江之子島2丁目)に移って、しばらく空地になっていました。
そのころは美術・工芸品といえば、豪商たちが秘蔵していて、たまに知人らを集めて酒宴を開き、長々と講釈してからみせびらかして得意がるのが常でした。太兵衛は、
「かくすもんやない。いつでも誰でも自由に見られるようにせなあかん」
と主張し、八方奔走して頭を下げて寄託を乞い、書画・陶芸・染織服飾・金石に動植物標本など、よだれの出そうな文化遺産を集め、
「さあ、気楽におこしやす」
と門戸を開きました。ですから大阪博物場は、図書館・博物館・美術館・資料館を兼ねた文化・文明の大サロンとなります。
太兵衛は、あるとき、いつも博物場のあたりをうろついている菅藤太郎というまだ16歳の超貧乏画学生に、声をかけます。
「な、あんちゃん。絵描くには勉強せんとあかん。いつでもお入り。料金タダにしたるさかい…」
大喜びの藤太郎は、それから昼夜の別なく入りびたりになって勉学しますが、この少年がのちのあの有名な画人菅楯彦です。詳しくは本連載(257回~262回)をご参照ください。
こうして培われた書画・骨董の鑑識眼はたいしたもので、彼が書いた鑑定書は「太兵衛はんのお墨つき」と呼ばれて、好事家(風流を好む人)どころか、プロの美術商たちの間でも評判になります。茶人としても知られ、またカメラを好み、当時珍しかったカメラマンとしても一流です。
市長④
大正12年(1923)7月73歳没。墓は雲雷寺(中央区中寺1丁目)にありますが、今は知る人も少なくひっそりしています。
太兵衛ではあかん、カネ集めが下手やとなって登場した2代大阪市長・関西鉄道株式会社社長鶴原定吉は、東京帝国大学出身の元・日銀幹部だけに、財政赤字をものともせず、いきなり花園橋(現・西区九条1丁目)から大阪港まで市電を走らせ、市民を仰天させます。    (続く)

大阪市長物語 (五)

明治34年(1901)8月、任期半ばで辞職した初代大阪市長田村太兵衛に代わって登場した2代市長鶴原定吉は、市民たちが仰天するほど働きだします。
彼は安政3年(1856)生まれ。東京帝国大学卒業後外務省に入り、中国の天津や上海で領事を歴任、明治25年(1892)日本銀行に入社。
ヨーロッパに留学して経済・行政の実務を習得、帰国後は伊藤博文(大日本帝国初代首相)の懇望で、彼が党首を務める立憲政友会の総務委員になった超エリートの実業家です。
市長⑤
定吉は万事どんぶり勘定型の前市長が背負っていた莫大な借金を徹底的に洗い直し、赤字財政再建を錦の御旗とします。西洋で学んだ合理的な経済観に立って、まずとれるところからは容赦なく税をとりたて、「追剥市長」のあだ名がつくほど恐れられ、嫌われました。その代表が「大阪瓦斯騒動」です。
大阪瓦斯は明治29年の設立ですが経営が破綻、当時は倒産同然でした。企業家浅野総一郎は、ガスは大阪活性化のエネルギーになると考え、官財界で圧倒的な人気のあった日本銀行大阪支店長の片岡直輝に頭を下げて社長に迎え、再建を計ります。直輝はニューヨークの大資本家A・プレディに出資を頼み、当時ようやく経営を軌道にのせたばかりでした。
定吉は社長室にのりこみ直輝に、
「貴社は大阪市が設置監督する道路を勝手に借用し、ガス管等を埋没しておる。これは無銭飲食と同じだ。さっそく使用料を払え」
と大金をふっかけます。驚いたのは直輝だ。定吉が日銀に勤めていたころ、二人は無二の親友で、ツーカーの間柄でした。
「なにを言う。ガスは公共事業だ。大阪市の発展にどれほど役立っているか、市長が知らぬはずはあるまい。無茶ないいがかりだ」
直輝はこう反論するが、定吉はいっこうにひるまない。音をあげた直輝は、これまた親友だった朝日新聞社長村山龍平に助っ人を頼みます。龍平はさっそく大阪市は、公権力を笠に着た横暴な略奪者だとキャンペーンを始めるが、今度は朝日と犬猿の仲だった毎日新聞が反発。朝日は広告料欲しさに私企業の走狗(手先)になったと攻撃したからさあ大変、有名な朝日・毎日大戦争が始まり、世論も二派に分かれて沸騰します。
結局大阪財界の巨頭藤田伝三郎の仲介で直輝が折れ、大阪瓦斯は50年間利益の5%を大阪市に納入する約束で決着しました。  (続く)

大阪市長物語 (六)

「追剥市長」とあだ名のついた2代大阪市長鶴原定吉は、周囲の猛反対を押し切って、明治36年(1903)9月、花園橋(現・西区九条1丁目)から大阪港まで、初めて市電を走らせています(詳細は本連載48・49回)。
「大阪市の繁栄策は物流にある。大阪港から積荷を運ぶ乗り物が必要じゃ」
これが持論の定吉は、4・9キロのコースを26分で走る市電を敷設しますが、肝心の当時築港と呼ばれた大阪港がまだ工事中。いや、資金につまって中断同然のありさまです。物珍しさも手伝って満員だった乗客も減り、そのうちに築港桟橋付近は絶好の釣り場だとの風評がたって、竿をかついだ太公望や、浴衣がけの利用者ばかり。悪口大好きの各新聞はここぞとばかりに「追剥市長、大金はたいて魚釣り電車をこしらえる」とたたきました。
それでも定吉はへこまない。大阪港工事資金調達のため、日本最初の地方自治体が海外に外債を売り出す企画を発案します。総額1700万余の公債が国内ではさばききれず、300万余をロンドンのサミュエル商会にひきうけさせることに成功、これが工事再開の大きな起爆剤になります。
市長⑥
第5回内国勧業博覧会を天王寺で開催し大成功をおさめ、電気事業の公営化に成功するなど、大阪市の近代化に大きく貢献した定吉は、明治38年(1905)市長職を辞任します。後盾になっていた伊藤博文(初代首相)はこの年大使を命じられ、難題山積みの韓国に赴任しますが、参謀役にどうしても定吉が必要だとむりやりにくどいたからです。
翌39年博文は韓国統監府を開いて統監に、定吉は総務長官になり、日韓併合政策を進めます。今ふりかえると韓国の人たちに申しわけないような政策ですが、この協約締結にはたした定吉の力は大きいです。
同45年帰国。衆議院議員に選出され、立憲政友会相談役を務め中央政治に参加。また実業畑でも関西鉄道会社社長、大日本肥料会社社長、蓬莱生命会社社長、中央新聞社社長等を歴任しています。まさに三面六臂の活躍だ。
人柄はどの資料にも「剛毅清廉」と記されています。伊藤博文から、
「お前さんは綺麗すぎるのが、玉に疵じゃ。泥水もすすらにゃ」
とからかわれたそうです。読書を好み私利私欲のまったくない人でした。大正3年(1914)58歳没。愛妻の誠はあの野村望東尼(歌人・勤皇家)の子孫です。   (続く)

大阪市長物語 (七)

大阪市が今も地方自治体のトップに君臨する礎を築いたのは、申すまでもなく6代池上四郎と7代関一のお二人です。まさに歴史に残る名市長です。
市長⑧

6代市長池上四郎は、安政4年(1857)会津若松(福島県)に生まれました。父は会津藩士池上武輔、その4男です。会津城が官軍の攻撃を受けたおり、有名な白虎隊に入ろうとしますが、隊員は16歳以上との規約があり、当時12歳の彼は追いだされ、涙を飲んで隊を離れます。しかし多感な少年四郎は隊員全員の自刃と落城に号泣し、自分だけが生き残った罪悪感に絶望、故郷を捨てて放浪生活を続け、下北半島の荒地に流れついて貧しい開拓農民になりました。

食うや食わずやの生活を続けますが、会津藩の生き残りの武士たちが新政府に加わり、日本再建をめざしているのを知り、明治10年(1877)青雲の志をいだいて東京に出て独学、難しかった巡査の採用試験に合格します。生来頭脳明晰、何度も優秀警官として表彰を受け、エリート集団の警備局に選抜されてからは順調に昇進。富山、京都、長崎、ふたたび東京の各地で警察署長を務め、明治33年(1900)初めて大阪に来て大阪府警本部長に就任しました。
明治の末から大正の初めにかけての大阪市は、疑獄事件があいつぎ、汚職、贈収賄がはびこって市会議員や大物政治家たちが次々に逮捕される市政混乱期で、もう市民たちはあきれ顔でした。これは大企業の実業家たちが市会議員の大半を兼ねたからで、たがいに利権を漁ろうと電車の新路線問題や、新規事業の電気・ガス等に群がったからです。
「市長はいっそ大阪に関係のない人がいい」、

こう考えた人々は、中央から大物の海軍中将で男爵(特権を伴う華族の位のひとつ)肝付兼行を、第5代市長に招きます。市会の大反対を押しきって、市民たちが強行した人事です。ところが彼は大阪のことはなにも知らない。市政方針の見識もない。たしかに清廉潔白ですが鷹揚(おおらか)で殿様気取り。「万事、よきにはからえ」といった調子で、たちまち総スカンを食い、たった1年7ヵ月で病気療養と称して退職しました。
このままでは大阪市は沈没してしまう…政・財界の人たちは目の色変えて適任者を探しまわり、やっと2人の候補者をみつけます。ひとりは朝日新聞社社長村山龍平、もうひとりが府警本部長池上四郎でした。(続く)

大阪市長物語 (八)

大正2年(1913)市政の混乱を収拾できず辞任した5代大阪市長肝付兼行の後任を、政・財界の人たちは血眼になって探しまわり、やっと二人の候補者をみつけます。朝日新聞社社長村山龍平と、大阪府警本部長池上四郎です。
当時の大阪市政は腐敗堕落し、汚職・贈収賄が横行していました。正義感の強い龍平は新聞紙上できびしく批判、また四郎は不正粛清の親玉ですから、誰もが納得します。さあ言論の雄か正義の士かと世論は大騒ぎしますが、結局龍平は固辞しました。ペンと舌は鋭いが、実行となると気おくれしたのでしょう。

市長⑧
同年10月6代市長に就任した四郎は、物凄い赤字財政に目を回します。これは大阪市の人口が爆発的に増加したのと、日露戦争の戦費赤字のシワ寄せが原因だが、親方日の丸をよいことに放漫財政を続けた市会にも責任はあります。
「こら話にならん。なんとかせにゃ大阪は潰れるが、わしは法律しかわからん。餅は餅屋というぞ。ここは餅屋にたのも」
こう考えた四郎は著作を読んで感心し、かねがね目をつけていた東京高等商業学校(現・一橋大学)の若い気鋭の教授・経済学者関一を三顧の礼(礼をつくすこと。中国の故事)でくどき落とし、助役に迎えます。
それからの池上・関コンビの活躍は、のちに7代市長関一の項で詳しくお話しますが、まず徹底した緊縮政策をとり、周囲の猛反対に聞く耳もたず、事業の中断、市職員の増員禁止、特別賞与廃止に賃金カットという思いきった手段を強行。ひたすら耐乏市政を続けて体力の回復をはかりました。
新聞はここぞとばかりにたたきます。

「カネは使わんと儲からん」「節約ばかりじゃミイラになる」「やっぱり四郎人市長はあかん」…

ごうごうたる非難のなかで、耐えに耐えたコンビは石の上にも三年、今度は一転して積極市政に転じる。全国初の療養所を豊中の刀根山におき、福島・天王寺に公設市場を開き、託児所・市営住宅・公営浴場・職業紹介所・方面委員(現・民生委員)制度など、いずれも関助役の知恵ですが、四郎はブルドーザーのような勢いで、福祉行政の道を突っ走りました。これらは日本中が荒れた米騒動事件を教訓にした政策ですが、その進歩性には感心します。続いて大阪市のアキレス腱だといわれた築港・鉄道・ガスの三大難題に、敢然として立ち向かいました。(続く)

大阪市長物語 (九) 

第6代大阪市長池上四郎は、(七)で述べたように、会津落城のおりまだ11歳の少年だったので、白虎隊から追いだされて絶望し、開拓農民になって僻地で極貧の生活を過ごした体験をもっています。
それだけに幸せの薄い人たちにはことのほか同情し、職業紹介所・児童相談所・託児所・市営住宅・共同浴場などの福祉政策に力を入れました。とりわけ刀根山(豊中市)に設立した療養所は、日本最初の公立結核療養所で、病患に苦しむ多くの人たちの生命を救い、感謝されています。
人使いのうまさも格別で、経済学者理論派の関一助役を支えるため、有田邦敬・木南正宣らたたきあげた実務型助役も起用し、均衡を保ちます。部・課長にいたるまで目を光らせ、公僕精神の欠ける者はいかに能力があっても使わない。現場の苦労をよく理解し、優秀な人物を適材適所に配置して、存分に腕を振るわせました。
「お前たちの任務はなにか。市民の皆さんに奉仕することだ。よいか、奉仕だぞ」
四郎は何度もこう訓示していますが、今とは違って虎の威を借る狐の時代です。お役人様とふんぞり返っている時代だから、たいした見識です。 社会保健施設・教育産業施設等の充実、図書館・動物園から柴島浄水場の設置に尽力、また大正7年(1918)の全国的に波及した米騒動(米価の暴騰で生活難に苦しんだ大衆が米屋や富商を襲った事件)のおりは、率先して廉米放出の指揮をとるなど、大車輪の働きをみせた四郎は、大正12年(1923)11月、突然市長職を辞します。
「なんでも独占してたらアカが積もる」
これが辞任の弁で、後継者に関助役を指名しました。さあ、かねての念願だった庭いじりと魚釣りができる…と喜んだのも束の間、昭和3年(1928)総理大臣田中義一は手を合わせるようにして四郎をくどき落とし、朝鮮総督府の政務総監に任命します。しかし過労がたたってわずか在任1年、翌4年4月72歳で他界しました。
市長⑨
天王寺公園(天王寺区茶臼山町)に、四郎の銅像が建っています。立派な口ひげ、背中に回した手に帽子が握られた得意のポーズで、生き写しといわれる見事なできばえです。同17年供出され、現在のは同34年市政70周年記念の再建。また墓は四天王寺北墓地の北西、幼稚園の手前にあります。        (続く)

大阪市長物語 (十) 

大阪ナンバーワンの名市長といえば、誰もが7代市長関一をあげると思います。彼については多くの研究書があり、本格的に書くとなると、軽く分厚い辞書なみの書物になるので、ここではとくに私の胸を熱くしたいくつかの事柄のみを、紹介しておきます。本当に尊敬できる人物です。
市長⑪
関は明治6年(1873)東京に生まれました。東京高等商業学校(現・一橋大学)を卒業後教職を選び、同30年には24歳の若さで新潟商業学校長に就任します。翌年母校に呼びもどされ教授になり、ベルギー・ドイツに留学して法学博士号を取得、帰国後は福田徳三・佐野善作と並んで、「東京高商名物三教授」に数えられました。専門は都市経済学・都市交通政策学で、西洋の学問をとりいれた進歩的な理論と豊富な知識が、強く学生たちをひきつけます。
大正2年(1913)10月、大阪市の汚職と超赤字財政を立て直すため、6代市長に大阪府警本部長池上四郎が選ばれるが彼は、
「わしは法律は分かるが経済は暗い。ここは専門家に頼まにゃ」
と、かねて目をつけていた関に白羽の矢を立て、助役になって助けてほしいと何度も懇願します。学者の道を歩いていた関には迷惑な話ですが、
「広い日本中どこを探し回ってもこれほどの男はおるまい」
とまでほれこんだ四郎についにくどき落とされ、翌3年関は見知らぬ大阪の地にやって来ます。抱きついた四郎は、
「なんでもええ。好きなようにやってくれ」
と、こぼれるような笑顔で迎えました。
四郎と関は徹底的な緊縮財政策をとります。公共事業は中断、職員採用は中止、特別賞与は凍結ときますから、満身に悪口雑言を浴びます。しかし耐えに耐えて破綻していた財政が小康状態になると、一転して積極的な事業に転じました。療養所の建設、公設市場の設置、市営住宅・共同住宅・簡易宿泊所・職業紹介所・市民会館・市営質屋等々、今まで誰もがやらなかった福祉施設の充実を計ったのです。これらは経済効果に乏しい、地味だ、怠け者を増やすだけだと、二の足を踏まれたものばかりでした。
「市民の生活が豊かになると市税が潤う。ボクの言うとおりやりたまえ」
役人たちがあわてて袖を引っぱると、関は胸をたたいてきっぱりとこう命じました。      (続く)

大阪市長物語 (十一) 

大正12年(1923)、在職期間が長いとアカがたまるとの名言を吐いて、6代市長池上四郎は退職します。いつも市政に口うるさく文句ばかりつけていた朝日新聞でさえ、「後任には関しかいない」と叫び、市民たちのセキ、セキとの大合唱に、さすがの彼も重い腰をあげざるを得なくなり、7代市長に関一が就任します。
市長⑪
ところが関は助役時代とは異って、今度は猛烈に専門の都市交通政策に力を入れはじめました。地下鉄の建設です。なにしろ地上の建物はそのままにして、梅田から心斎橋まで穴を掘り、もぐらのように電車を走らせるという企画ですから、当時の人々には子供の空想としか思えませんでした。しかも1キロあたりの建設費が5百万円也と聞くや、市会議員たちは卒倒せんばかりに驚き、誰もがハンタイ、ハンターイと絶叫します。池上市長以来、節約に節約を重ねてせっせとためこんできた市の財産が、全部吹っとぶどころか莫大な借金を背負わねばならないからです。
「あなたがたはもぐらの乗物だと言うが、大都市になればなるほど高速の交通機関が必要なのだ。ロンドンやベルリンを見給え。都市の機能は交通にある。頼む。ぜひこの議案を通してください。必ず子孫の人たちに感謝される日がくるから」
は答弁席でこう語り、深々と頭をさげました。しかし議場はますます騒然となる。
「だ、だまれ!西洋かぶれの坊ちゃん市長」
「ここは学校やない。学者センセはさっさと学校に帰れ!」
こんなひどい野次がとびかい、関は孤立無援のありさまでした。
それでも関は粘りに粘る。総費用の25%は受益者負担として市と沿線居住市民でまかない、75%は国の起債に頼るから大丈夫だと市会を説得。再三上京し大蔵・内務・鉄道・通信各大臣や有力官僚を訪問、ひゃあ、また関が来たと彼らが裏口から逃げ出すほど執拗な陳情をくりかえします。
当時の浜口雄幸内閣は、長年の赤字財政と外国への侵入政策がたたり、おまけに昭和4年(1929)にウォール街(ニューヨークの金融市場)から世界に広がった大パニックをもろにかぶって、勤倹節約・貯蓄奨励が錦の御旗です。当然不景気で失業者は街にあふれています。そのころの大学生は全国民の3%ほどのエリートだが就職できず、「大学は出たけれど」という歌が流行したほどでした。       (続く)

2015年4月23日大阪市長物語 (十二)

昭和4年(1929)7代大阪市長関一は、世界的な大不況のなかで梅田から心斎橋まで地下鉄を走らせる計画を立て、「もぐらの乗物大反対!」「坊ちゃん市長は学校に戻れ」と、満身に雨霰のような非難の集中砲火を浴びます。
それでも屈せず、敷設費用の75%を国の起債に頼れば実現可能だと、上京して政府高官や高級官僚たちに夜討ち朝駆けを執拗にかけ、超不況を逆手にとってこう迫りました。
「地下鉄工事に従事する労務者は、すべて失業者を当てる。つまり工事は失業対策であり、救済・福祉事業だ。困窮している国民たちを援助するのは、行政の責任・義務ではないか」。
すったもんだのあげく、翌5年1月29日から地下鉄1号線の建設工事がスタートします。工法はオープンカットといって、今とは違って原始的、地面に穴を掘り完成すればコンクリートで固め、埋めもどすやりかたです。それだけに、
①地盤・土質が軟弱なところは、3mも掘ると地下水が湧いてくる。
②地上の路線にあたる所の用地買収・家屋移転等の交渉と費用が大変。
③ガス・水道管をどうするか。
などの難問が山積みでした。

地下鉄工事

地下鉄工事

工事はまず地面をU字型に掘るため、両面の土砂が落ちないように鉄板を20mほど打ちこまねばならぬが、その音のやかましいこと。周辺の建物も振動で壁や瓦が落ちた、ひびが入って軒先が傾いた、井戸水が涸れて出なくなった…などの苦情が殺到し、市当局は頭をかかえてしまいます。
次に掘った土砂の処理です。トロッコで淀屋橋の南詰にあった船着き場まで運び、川舟に移して木津川尻へ、そこから陸地にあげて「大正飛行場」の埋立てに使う予定でした。ところがいつの時代でも政府は杓子定規です。トロッコはいかん、モッコで運べと言うのです。
理由をきいては絶句する。失業者救済事業だから、モッコのほうが大勢の労務者を採用できると偉いお役人様がおっしゃる。1回運ぶと5銭、屈強な若者でも1日20回がやっとでした。草履に着流しの労務者たちが、ゾロゾロと蟻のように行列を作って運ぶ非能率さに、誰もがあきれてしまいました。有名なせんべい訴訟事件も起こります。今のガスビル付近にあったせんべい屋の老舗が、振動で炭火が崩れうまく焼けぬと、裁判所に訴えたのです。  (続く)

大阪市長物語 (十三)

昭和5年(1930)1月、7代大阪市長関一が、猛反対を押しきって強行した梅田─心斎橋間の地下鉄工事は、市民たちから総スカンを食いました。
工事の振動と騒音のひどさは、言葉にならないほど。梅田新道の商店街は損害補償期成同盟を結成し、多額の賠償を要求、
「賠償だけやないぞ。こない被害を受けた沿線住民に、受益者負担やから工事費の一部を負担せえとは、なんたる根性や。盗人に追銭とはこのことやないか」
と、毎日どなりこんできます。市の幹部連中もすっかり参ってしまい、何度も市長室に逃げてきて、
「地下鉄の評判悪いでっせ」
と愚痴をこぼします。
「住民の皆さんの言うとおりです。補償は目いっぱいしてください」
と言ったきり黙りこんで文句たらたらをじっと聞いていたは、幹部たちの帰りぎわにポツンとこうつぶやきました。
「できあがったら皆さん、かならず喜んでくれます」。

大正時代の御堂筋

大正時代の御堂筋

ところがそんな彼は翌6年4月8日の深夜、痛烈なアッパーカットを受けました。淀屋橋北詰の土佐堀川底工事で、突然猛烈な濁流が噴出し、遮断していた鉄板数十枚が吹っとび、水道管は破壊されて水勢は津波となってあたりを襲い、今の市役所付近一帯が海のように沈んだのです。
幸い死者は出なかったが世間は仰天し、マスコミや市会はここぞとばかり関の無謀ぶりを攻撃します。原因の徹底的な究明を迫られ、「工事審査会」が生まれたものの、通りいっぺんの説明では地元が容易には納得しない。工法のミスとなればの責任は追及され、続行が中断されるのは必定です。
この苦境を救ったのが、土木工学の神様といわれた京都帝国大学名誉教授田辺朔郎でした。京都府知事北垣国道の懇望で、夢見る坊やの寝言だと冷笑されながら悪戦苦闘、ついに琵琶湖の水を京都市内に運んでくる運河「琵琶湖疎水」を、明治18年(1885)完成させた学者技師です。三条蹴上に落差を設け水力発電所を開き、大津・京都間の舟運は無論、京都市内の飲料水や灌漑に利用された琵琶湖疎水は、東京遷都で疲弊荒廃していた京都の再興をはたした最大の恩人です。
朔郎は現場をひと目見ただけで、ここは市長の苦境を救わねばと決心しました。        (続く)

大阪市長物語 (十四)

昭和6年(1931)4月、淀屋橋北詰の土佐堀川底地下鉄工事で、突然猛烈な濁流が吹きだし、あたりを海底のようにした前代未聞の大事故で、責任者の7代大阪市長・関一はマスコミは無論、工事反対派の住民たちから非難の総攻撃を受け、窮地に陥ります。その彼を救ったのが、京都帝国大学名誉教授田辺朔郎です。朔郎は原因を究明する「工務審査会」の記者会見で、
「突然地盤からニュウが出た。これは予測不可能な現象だが、これだけ出てしまえばもう大丈夫だ。私が保証する」
と、断言します。
ニュウとは何だ?とくいさがる記者団に、水分を多量に含んだ異常な泥の帯だ、心配は要らぬ、工事は続けてよろしいとうなづいてみせます。なにしろ土木工事の神様といわれた第一人者の説明ですから、まあ予測不可能なら仕方あるまいと関市長の責任問題は、うやむやで終わりました。ニュウとは朔郎がとっさに思いついた言葉で、のちに地下からいきなりにゅーっと出てきたからニュウだと大笑いしたそうです。嘘も方便というが、呑気な時代ですね。
6月5日には高麗橋近くの工事現場に荷馬車が転落して2人死亡。また賃金格差に怒った鉄筋工たちがストライキに入るなど、次々にトラブルが続出。そのたびごとに、
「坊ちゃん学者市長が、大金はたいて墓穴を掘っとる」
と悪態をつかれました。

地下鉄工事

地下鉄工事

とても書ききれないほどの苦労を重ね、ついに同8年5月20日、梅田―心斎橋間大阪初の地下鉄が開通します。試乗した人たちは豪華な設備とスピードに驚嘆し、あれほど攻撃したマスコミも口をぬぐって、
「夏は涼しく冬暖かい。走る便利な温泉電車」
ともちあげたころ、は関係者を地下道に招待し、ビールをついで回っていました。
御堂筋もの英断です。大阪市のメインストリート御堂筋は、大正15年(1926)から12年かけて彼が心血を注いで切り開いた市の中心地キタとミナミをつなぐ大動脈です。助役のころから大阪駅を起点とする幹線道路の必要性を痛感していたは、市長になるやそれまで「淀屋橋筋」といわれていた細い商店街筋を取り壊し、全長4.4km、道幅43・2m、コンクリートとアスファルトの用地44万7千余㎡もの巨大道路建設を企画します。   (続く)

大阪市長物語 (十五)

大正15年(1926)7代大阪市長関一は、淀屋橋筋と呼ばれていた細い商店街を大拡張し、大阪の中心地キタとミナミをつなぐ大動脈の幹線道路建設を企画します。 「路面に電車は走らせるな。高速車道・緩速車道・グリーンベルト・歩道の4線に区画する。街路樹を多くして、照明で美観を添えること」

関一

関一

これが基本方針ですが、総工費3千4百万円也と見積もられて、誰もが目を回しました。 「学者センセ市長、大阪のド真中に飛行場を作りよる」 と各新聞社まで揶揄(からかう)します。 最大の難問は用地買収です。今とは違って所有者の意向などに聞く耳持たず、 「お国のためや。どいておくんなはれ」 の一点ばりです。価格も市が一方的に査定し、代替用地が要るなら世話しまっせと申込み用紙を突きつけるから、これではスムーズにはこぶわけがない。とりわけ難渋したのは道が船場を貫通することです。この地域には昔から先祖伝来の土地と暖簾を守り続ける老舗の商家が多かったから抵抗も激しく、 「ここはな、天皇様が大阪に行幸されるとき、お通りになる大事な道や。あんた、なにわっ子が不忠やと笑われてええのんか」 と役人に言われて、ご先祖さまに申し分けないと、土蔵で首を吊る人まで出る大騒ぎとなりました。 「公共事業は大勢の個人の犠牲の上に成り立っていることを忘れてはならない。個人を不幸にして社会は幸せを享受する。なんたる自家撞着(言動が矛盾すること)だ」 いつもこう嘆いていたは、商都大阪の発展のため強行した地下鉄と御堂筋の二大工事で、マスコミから悪魔のような冷血漢だとたたかれます。 ここで話題を変えて、その御堂筋の名物銀杏並木にふれておきます。文化勲章受章者大仏次郎(小説家=代表作「鞍馬天狗」)が書いた「風船」に、 「(御堂筋の街路樹に)銀杏を植えたのは誰だろう。いずれ名もなき小役人が決めたのであろうが…」 とある部分にカチンときたからです。アイデアを出したのは大阪市計画部調査係長伊東俊雄です。彼は東京帝国大学出身の若手官史で、市長に招かれて大阪へやってきました。計画部では連日会議を重ね、街路樹を何にするかで、口角泡をとばしています。(続く)

大阪市長物語 (十六)

大阪市都市計画部では、御堂筋の街路樹を何にするかで連日会議が開かれていました。桜、柳、プラタナスなどいろいろな案が出ますが、係長伊東俊雄は頑くなに銀杏を主張します。
①銀杏は東洋の名木だから日本にふさわしい。
②落葉樹で冬は日差しを妨げず、あたたかだ。
③大木になるが、御堂筋は電線を地下に埋めるから困らぬ。
④四季こもごもに変化し、やがて白亜のビル街になる御堂筋と色彩的に調和する。
俊雄は提案理由をこう述べています。ひょっとすると難関の母校東京帝国大学に合格した日に、東大名物校庭の銀杏が笑顔で迎えてくれた感動が、今も胸奥に熱く残っていたのかも知れません。俊雄が、将来御堂筋には高層ビルが並ぶと言っても、誰も信用しない時代でした。
結局坂出計画部長らのプラタナス派と、俊雄を後押しした椎原公園課長らの銀杏派が対立し、何度会議を重ねても決着しません。仕方なく足して2で割り、梅田から淀屋橋まではプラタナス、淀屋橋からミナミにかけては銀杏との妥協案でまとまります。
俊雄の銀杏にかけた執念は物凄い。埼玉県から名木といわれた銀杏の苗929本を取り寄せ、大阪の土壌に慣れさせるため豊里苗園(現・旭区太子橋公園)を設けて、育苗してから御堂筋に移植する苦労を重ねています。前号で触れた文化勲章の大仏次郎さん、「(御堂筋の街路樹に)銀杏を植えたのは誰だろう。いずれ名もなき小役人が決めたのであろうが…」なんて、気安く言わないでください。小役人で悪かったですね。
御堂筋は昭和12年(1937)5月、完成しました。総工費3千4百万円のうち、用地買収と補償費が3千万円、銀杏並木は3万4千円かかっています。

関一の筆墨

関一の筆墨

しかしは御堂筋を歩くことはできなかった。2年前の同10年、大阪市史上最大といわれた室戸台風の襲来で、徹底的に破壊された市街の復旧に、寝食を忘れて取り組んだ彼は、過労がたたり、あっという間に世を去りました。享年62歳。
「なあ伊東クン、御堂筋できたら弁当さげて一緒に散歩に行こうな」
俊雄の労をねぎらってこう言っています。ほんまに黄金の小鳥のような銀杏の葉が、沈陽を浴びて舞い落ちてゆく晩秋の日暮れ、お二人をアベックの後姿で歩かせたかったです。          (続く)

 

2015年4月22日大阪市長物語 (十七)

7代大阪市長関一は、清貧に甘んじた市長としても有名です。宴会嫌いの接待下手。公私の別がやかましく、役人たちが公費で処理しようとすると、雷を落としました。そのくせ中央政府との折衝で上京したおり、成功して思わぬ補助金をとりつけると、大喜びで同行した部下たちをつれ、赤坂のとびきり上等の料亭で慰労会を開きます。
思いきり楽しく遊んだあと、手渡された請求書を見て秘書がとびあがりました。金185円也と書かれていたのです。

関 一

関 一

「市長、交際費で落としてよいでしょうか」
恐る恐る秘書がお伺いをたてると、
「なにを言う。これはボクのみんなの働きに対する感謝の気持ちだ」
と、さっさと用意しておいた自分の財布で支払いました。は死亡したとき、莫大な借金を残していますが、そのほとんどはこうした費用に当てたからです。少しでもごまかして自分らの飲み食いに使おうと画策する今のお役人たちに、彼の爪のアカでも飲ませてやりたいものです。
ある日、公用車が関の出勤を迎えに行くと、子供が高熱をだしていました。途中に病院があります、ご一緒にと同行を勧める運転手に、
「いや、子供は市政とは関係が無い」
と即座に断っています。堅物もここまでくると困りますね。
彼の自宅は上本町8丁目(天王寺区)にありましたが、もちろん借家。蔵書の他は家具も乏しく、来客用の粗末なソファーと柳の木の椅子があるだけでした。
あるとき、前回紹介した御堂筋工事の片腕、都市計画係長の伊東俊雄が、緊急の用件が生じ日曜日に市長宅を訪問、話が長くなりました。
「まあ昼食でも済まし給え」
と奥さんに出させたメニューが、なんと素うどんと麦飯だけ。それをうまそうに食べておかわりする市長に、俊雄はなんとも言えぬ気持ちになったと、のちに語っています。香の物も無かったそうです。
三女光子さんの婚礼はすこぶる簡素で、披露宴も無く、親族数名が同席しただけであった。光子さんのお荷物は、近所の手車を借りてきて軽く運んだだけで、これが大大阪の市長令嬢の嫁入り道具とは、とても思えなかった。さすがの関さんも涙をいっぱいためながら、右手を着物の帯にさしこんだまま、無言でうつむかれていた(金子金次郎『関市長小伝』から)。          (続く)

大阪市長物語 (十八)

7代大阪市長関一は東京高商(現・一橋大学)教授の出身だけに、もの凄い勉強家で、市会議員などが持ち込む細々とした案件はすべて助役に任せ、いつも外国の文献に目を通していました。
外出のさいも英語や独語の分厚い辞書をかかえ、車の中でも暇ができると原書を読み漁ります。ひんぱんに役人たちにも宿題を出し提案を求めますが、こっそり外国の都市行政の書籍などから解答を借用すると、
「キミ、これはアメリカの大都市の話だろ。狭い大阪では無理だ。どうせカンニングするなら、ベルギーやオランダのこれこれの書物を参考にし給え」
と即座に指摘され、顔色を失った部長も多くいたといわれます。
超多忙な職務にありながら、在職11年間にまとめた論文は2百余、単行本12冊、それに有名な『関一日記』を残すなど、誰にも真似のできることではありません。
都市緑化にも人一倍力をいれました。
「市長の都市計画は無駄な空地が多すぎる。大阪の土地は狭いし価格も高い。もっと効率のよい利用計画を工夫しろ」
市会で詰問されたは、こう答えています。
「自由空間は猫の尻尾ではないのです。市民が快適な生活を営める条件は、空間と緑にあります」
今なら当たり前かも知れないが、当時をふり返るとその先見性に感心するばかりです。
やがて彼の存在は全国的に知られるようになり、百人一首の蝉丸の歌をもじって、
これやこの都市行政の権威者は知るも知らぬも大阪の関
とはやされるほどになりました。

関一墓 (阿倍野区・阿倍野墓地)

関一墓
(阿倍野区・阿倍野墓地)

 

昭和9年(1934)9月20日、のちに室戸台風と呼ばれる猛烈な台風が、大阪を急襲します。午前8時30分、測候所の風力計は60メートルを指したところで吹っ飛び、雨量は300ミリ、大阪湾の高潮は築港大桟橋をもぎとり、四天王寺五重塔は倒壊、死者1771人、負傷者22061人、家屋23000余がペシャンコになる大惨事です。
は復旧の陣頭指揮をとり、不眠不休でこの大阪市最大の自然災害に立ち向かいますが、過労がたたり、その4ヵ月後の翌10年1月、あっという間に62歳で世を去りました。大阪市は功労金35万円を贈るがほとんどは、借金の清算で消えています。公費接待大嫌いの彼が、私費で部下たちを慰労したための借金です。   (続く)

大阪市長物語 (十九)

昭和10年(1934)1月、前年9月に襲われた大阪市最大の自然災害室戸台風の惨禍から立直ろうと、寝食忘れて働いた7代大阪市長関一は、過労がたたり62歳で急死しました。
惜しむ声は市中にあふれ、今でも阿倍野墓地(阿倍野区阿倍野筋4丁目)にある簡素な彼の墓は、香華の絶えるときはありません。もうひとつ、東洋陶磁器美術館(北区中之島1丁目)の側に、「関一像」が建てられています。これは武蔵野美術大学教授清水多嘉示氏の傑作で、本物そっくりと言われる写実性に加えて、彼の人柄をよく表わしている重厚な芸術性にも富んでいます。散歩のついでにぜひお立ち寄りください。
関を継いだ8代大阪市長が加賀美武夫です。彼は明治23年(1890)山形県生まれ。京都帝国大学卒業後警視庁に入り、保安課長や各都市の警察署長を務めたあと、に人物を見込まれ、14年間助役として犬馬の労をとりました。なにしろ側近中の側近ですから、の行政や手法を熟知しており、名市長の後継者は他におらぬと説得され、ようやく重い腰をあげます。

加賀美 武夫

加賀美 武夫

ところが就任早々、
「前市長時代のマンネリ化した市政を一新する」
と宣言。助役に岐阜市長坂間棟治を引抜き、秘書に若者中馬馨を抜擢、あれよあれよと驚く間もなく市役所の人事を完全に刷新しました。坂間中馬ものちに名市長といわれる方だが年功序列の時代、思いきったやりかたです。
「市政は市民のサービスに尽きる」
これが彼の信念でした。官僚風を吹かしたお役人様のころの話だから、大した男です。
武夫は夢多き少年が、そのまま大人になったような、ロマンチックでナイーブなところがありました。
「大阪がいつまでも煙の都であったら困る。昔から言われた水の都にしないと、浪華の地名に申しわけがたたんよ」
こう考えていた彼は、ある日片腕のに、
「なあ中馬クン、なにかいいアイデアはないかね」
と尋ねます。しばらく考えていたは、
「市長さん、船を浮かべませんか。たまに海や川から街を眺める。今まで気づかなかった大阪が、発見できるかも知れません」
と知恵をひねりだしました。(続く)

大阪市長物語 (二十)

水の都大阪の復活を夢見た8代大阪市長加賀美武夫は、片腕と頼む若き秘書中馬馨「市内の河川に観光船を走らせたら」との提案に大賛成。二人は少年時代に戻って勤務の余暇に顔つきあわせ、大阪最初の観光船の図面作りに熱中します。 ようやく完成した第1号は、全長15メートル、31・6トン、定員53名という小型ながら今までにない宇宙船のようなスタイルでした。船体の色を決めるときともに譲らず、大げんかになったと伝えます。市民から船名を募集すると26700点も集まるが武夫は、3位だった「水都」でなければ厭だとだだをこねています。総工費は5万円也です。

中馬 馨

中馬 馨

「なあ中馬クン、水都の試乗運航には一緒に乗ろうな」 「もちろんですよ。水都から市街を見上げたら、きっといい市政の着想が浮かびます」 と握手した二人だが、昭和14年(1939)5月25日、試乗運航の直前、武夫は持病の心臓が悪化して、中之島にあった阪大病院に入院させられました。 「水都は堂島川を通るね。病室の窓からも見えるね」 「はい、大丈夫です。北側の病棟ならぜったい見えます。私は赤いハンカチを振ります」 こう言いながらはそっと目頭を押さえました。 当日午後1時、助役坂間棟治に馨、それに大阪の朝野の名士40数名を乗せた水都は、堂島川に入ってきます。阪大病院が見えるとは、スピードを落とせと命じました。 病室から半身を乗りだし大声でなにかを叫びながら、これまた赤いハンカチを振っている市長の姿が、はっきりのまぶたに焼きつきます。 しかしこの4カ月後、武夫はわずか46歳で帰らぬ人となりました。市長就任が同年1月ですから在任はたったの9カ月、歴代大阪市長のなかで最も短命、ご存知の方が少ないのも当然です。 時移り世は流れ、武夫の夢は大阪水上バス「アクアライナー」となって走り回っています「超薄型のウオータージェットが、歴史とロマンの旅に案内します」とのキャッチフレーズを、天国のお二人はどう思っておられるでしょうか。 市長物語はこれでおしまいです。百年後にどなたかが書きたくなるような市長さん、どんどん出てきてくださいね。     (終わり)