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2014年2月7日E・ハンター (一)

海運国ニッポンに大きく貢献した日立造船は、英国人エドワード・ハンターが此花区に設立した「大阪鉄工所」がルーツです。
ハンターは1843年、イギリスの首都ロンドンに生まれ、慶応3年(1867)来日し、当時外国の人たちが集まって事業を始めていた川口居留地(西区川口1丁目)にあった貿易商キルビー商会の腕きき営業マンに着任しました。
明治1年(1868)のある日、今の西区江之子島2丁目にあった得意先の薬種問屋「平野屋常助商店」を訪れて、とびあがります。ひそかに思いを寄せていた同店のいとはんあいが、霧雨に打たれながら寝ていたのです。

ハンターの妻・あい

あいはこのとき18才、おなかをこわして高熱が続き、薬屋ですからあらゆる薬を飲ませたもののなんの効果もなく、とうと 近所の医者もさじを投げ、
「もうあきまへん。せめていとはんの好きなようにさせなはれ」
と見放しました。母親は泣きながら、あんた、なにがしたいとたずねますと、あいは苦しい息の下から
「どうせ死ぬなら、庭を眺めながら死にたい」
といったので、縁がわに横たわっていたのです。高熱でほてった体に霧雨が快かったのでしょう。ハンターを見てここ気持ちいいのとほおえみました。
まっかになって怒ったハンターは、おろおろする両親を叱りつけ、すごい力でふとんもろとも抱きあげ、奥の部屋に運んで夜具も寝巻きもみんなとりかえさせます。そして自分はキルビー商会にひき返し、西洋の高貴薬をいっぱい集めてもどり、かたはしから服用させました。
ハンターに医薬の知識があったかどうかはわかりません。しかし薬よりも彼のまごころが通じたのでしょう。毎日やってきては人目もあきれるほど介抱を続け、ついにあいは全快します。
これが縁で2人は結婚するのですが、なんといっても老舗(しにせ)のいとはんと、日本語もあやしい青い目の大男との国際結婚です。平野屋は両親は無論、親類たちも猛反対します。
「娘の命を救ったあんさんには感謝しています。そやが結婚だけはこらえてくだされ」
と父親の常助はひれ伏してこういいましたから、ハンターも泣きべそをかきました。(続く)