わいワイ がやガヤ 町コミ 「かわらばん」

みなトコ×みなとQ みなとQ編集室 06-6576-0505

2015年4月24日大阪市長物語 (四)

明治34年(1901)8月、任期半ばで辞職した初代大阪市長田村太兵衛は、その後「大阪博物場」の場長に就任しています。
同場(中央区備後町3丁目)は「西町奉行所」の跡地に設立された大阪唯一の、美術・工芸を収集・陳列・公開した博物館です。江戸時代、大坂の司法・行政のすべては、東・西両奉行が支配しますが、明治維新後奉行所は大阪裁判所になり、明治7年(1874)江之子島(西区江之子島2丁目)に移って、しばらく空地になっていました。
そのころは美術・工芸品といえば、豪商たちが秘蔵していて、たまに知人らを集めて酒宴を開き、長々と講釈してからみせびらかして得意がるのが常でした。太兵衛は、
「かくすもんやない。いつでも誰でも自由に見られるようにせなあかん」
と主張し、八方奔走して頭を下げて寄託を乞い、書画・陶芸・染織服飾・金石に動植物標本など、よだれの出そうな文化遺産を集め、
「さあ、気楽におこしやす」
と門戸を開きました。ですから大阪博物場は、図書館・博物館・美術館・資料館を兼ねた文化・文明の大サロンとなります。
太兵衛は、あるとき、いつも博物場のあたりをうろついている菅藤太郎というまだ16歳の超貧乏画学生に、声をかけます。
「な、あんちゃん。絵描くには勉強せんとあかん。いつでもお入り。料金タダにしたるさかい…」
大喜びの藤太郎は、それから昼夜の別なく入りびたりになって勉学しますが、この少年がのちのあの有名な画人菅楯彦です。詳しくは本連載(257回~262回)をご参照ください。
こうして培われた書画・骨董の鑑識眼はたいしたもので、彼が書いた鑑定書は「太兵衛はんのお墨つき」と呼ばれて、好事家(風流を好む人)どころか、プロの美術商たちの間でも評判になります。茶人としても知られ、またカメラを好み、当時珍しかったカメラマンとしても一流です。
市長④
大正12年(1923)7月73歳没。墓は雲雷寺(中央区中寺1丁目)にありますが、今は知る人も少なくひっそりしています。
太兵衛ではあかん、カネ集めが下手やとなって登場した2代大阪市長・関西鉄道株式会社社長鶴原定吉は、東京帝国大学出身の元・日銀幹部だけに、財政赤字をものともせず、いきなり花園橋(現・西区九条1丁目)から大阪港まで市電を走らせ、市民を仰天させます。    (続く)