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2015年4月24日大阪市長物語 (六)

「追剥市長」とあだ名のついた2代大阪市長鶴原定吉は、周囲の猛反対を押し切って、明治36年(1903)9月、花園橋(現・西区九条1丁目)から大阪港まで、初めて市電を走らせています(詳細は本連載48・49回)。
「大阪市の繁栄策は物流にある。大阪港から積荷を運ぶ乗り物が必要じゃ」
これが持論の定吉は、4・9キロのコースを26分で走る市電を敷設しますが、肝心の当時築港と呼ばれた大阪港がまだ工事中。いや、資金につまって中断同然のありさまです。物珍しさも手伝って満員だった乗客も減り、そのうちに築港桟橋付近は絶好の釣り場だとの風評がたって、竿をかついだ太公望や、浴衣がけの利用者ばかり。悪口大好きの各新聞はここぞとばかりに「追剥市長、大金はたいて魚釣り電車をこしらえる」とたたきました。
それでも定吉はへこまない。大阪港工事資金調達のため、日本最初の地方自治体が海外に外債を売り出す企画を発案します。総額1700万余の公債が国内ではさばききれず、300万余をロンドンのサミュエル商会にひきうけさせることに成功、これが工事再開の大きな起爆剤になります。
市長⑥
第5回内国勧業博覧会を天王寺で開催し大成功をおさめ、電気事業の公営化に成功するなど、大阪市の近代化に大きく貢献した定吉は、明治38年(1905)市長職を辞任します。後盾になっていた伊藤博文(初代首相)はこの年大使を命じられ、難題山積みの韓国に赴任しますが、参謀役にどうしても定吉が必要だとむりやりにくどいたからです。
翌39年博文は韓国統監府を開いて統監に、定吉は総務長官になり、日韓併合政策を進めます。今ふりかえると韓国の人たちに申しわけないような政策ですが、この協約締結にはたした定吉の力は大きいです。
同45年帰国。衆議院議員に選出され、立憲政友会相談役を務め中央政治に参加。また実業畑でも関西鉄道会社社長、大日本肥料会社社長、蓬莱生命会社社長、中央新聞社社長等を歴任しています。まさに三面六臂の活躍だ。
人柄はどの資料にも「剛毅清廉」と記されています。伊藤博文から、
「お前さんは綺麗すぎるのが、玉に疵じゃ。泥水もすすらにゃ」
とからかわれたそうです。読書を好み私利私欲のまったくない人でした。大正3年(1914)58歳没。愛妻の誠はあの野村望東尼(歌人・勤皇家)の子孫です。   (続く)