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2015年4月24日大阪市長物語 (十一) 

大正12年(1923)、在職期間が長いとアカがたまるとの名言を吐いて、6代市長池上四郎は退職します。いつも市政に口うるさく文句ばかりつけていた朝日新聞でさえ、「後任には関しかいない」と叫び、市民たちのセキ、セキとの大合唱に、さすがの彼も重い腰をあげざるを得なくなり、7代市長に関一が就任します。
市長⑪
ところが関は助役時代とは異って、今度は猛烈に専門の都市交通政策に力を入れはじめました。地下鉄の建設です。なにしろ地上の建物はそのままにして、梅田から心斎橋まで穴を掘り、もぐらのように電車を走らせるという企画ですから、当時の人々には子供の空想としか思えませんでした。しかも1キロあたりの建設費が5百万円也と聞くや、市会議員たちは卒倒せんばかりに驚き、誰もがハンタイ、ハンターイと絶叫します。池上市長以来、節約に節約を重ねてせっせとためこんできた市の財産が、全部吹っとぶどころか莫大な借金を背負わねばならないからです。
「あなたがたはもぐらの乗物だと言うが、大都市になればなるほど高速の交通機関が必要なのだ。ロンドンやベルリンを見給え。都市の機能は交通にある。頼む。ぜひこの議案を通してください。必ず子孫の人たちに感謝される日がくるから」
は答弁席でこう語り、深々と頭をさげました。しかし議場はますます騒然となる。
「だ、だまれ!西洋かぶれの坊ちゃん市長」
「ここは学校やない。学者センセはさっさと学校に帰れ!」
こんなひどい野次がとびかい、関は孤立無援のありさまでした。
それでも関は粘りに粘る。総費用の25%は受益者負担として市と沿線居住市民でまかない、75%は国の起債に頼るから大丈夫だと市会を説得。再三上京し大蔵・内務・鉄道・通信各大臣や有力官僚を訪問、ひゃあ、また関が来たと彼らが裏口から逃げ出すほど執拗な陳情をくりかえします。
当時の浜口雄幸内閣は、長年の赤字財政と外国への侵入政策がたたり、おまけに昭和4年(1929)にウォール街(ニューヨークの金融市場)から世界に広がった大パニックをもろにかぶって、勤倹節約・貯蓄奨励が錦の御旗です。当然不景気で失業者は街にあふれています。そのころの大学生は全国民の3%ほどのエリートだが就職できず、「大学は出たけれど」という歌が流行したほどでした。       (続く)