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2015年4月24日大阪市長物語 (十) 

大阪ナンバーワンの名市長といえば、誰もが7代市長関一をあげると思います。彼については多くの研究書があり、本格的に書くとなると、軽く分厚い辞書なみの書物になるので、ここではとくに私の胸を熱くしたいくつかの事柄のみを、紹介しておきます。本当に尊敬できる人物です。
市長⑪
関は明治6年(1873)東京に生まれました。東京高等商業学校(現・一橋大学)を卒業後教職を選び、同30年には24歳の若さで新潟商業学校長に就任します。翌年母校に呼びもどされ教授になり、ベルギー・ドイツに留学して法学博士号を取得、帰国後は福田徳三・佐野善作と並んで、「東京高商名物三教授」に数えられました。専門は都市経済学・都市交通政策学で、西洋の学問をとりいれた進歩的な理論と豊富な知識が、強く学生たちをひきつけます。
大正2年(1913)10月、大阪市の汚職と超赤字財政を立て直すため、6代市長に大阪府警本部長池上四郎が選ばれるが彼は、
「わしは法律は分かるが経済は暗い。ここは専門家に頼まにゃ」
と、かねて目をつけていた関に白羽の矢を立て、助役になって助けてほしいと何度も懇願します。学者の道を歩いていた関には迷惑な話ですが、
「広い日本中どこを探し回ってもこれほどの男はおるまい」
とまでほれこんだ四郎についにくどき落とされ、翌3年関は見知らぬ大阪の地にやって来ます。抱きついた四郎は、
「なんでもええ。好きなようにやってくれ」
と、こぼれるような笑顔で迎えました。
四郎と関は徹底的な緊縮財政策をとります。公共事業は中断、職員採用は中止、特別賞与は凍結ときますから、満身に悪口雑言を浴びます。しかし耐えに耐えて破綻していた財政が小康状態になると、一転して積極的な事業に転じました。療養所の建設、公設市場の設置、市営住宅・共同住宅・簡易宿泊所・職業紹介所・市民会館・市営質屋等々、今まで誰もがやらなかった福祉施設の充実を計ったのです。これらは経済効果に乏しい、地味だ、怠け者を増やすだけだと、二の足を踏まれたものばかりでした。
「市民の生活が豊かになると市税が潤う。ボクの言うとおりやりたまえ」
役人たちがあわてて袖を引っぱると、関は胸をたたいてきっぱりとこう命じました。      (続く)