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2015年4月24日大阪市長物語 (九) 

第6代大阪市長池上四郎は、(七)で述べたように、会津落城のおりまだ11歳の少年だったので、白虎隊から追いだされて絶望し、開拓農民になって僻地で極貧の生活を過ごした体験をもっています。
それだけに幸せの薄い人たちにはことのほか同情し、職業紹介所・児童相談所・託児所・市営住宅・共同浴場などの福祉政策に力を入れました。とりわけ刀根山(豊中市)に設立した療養所は、日本最初の公立結核療養所で、病患に苦しむ多くの人たちの生命を救い、感謝されています。
人使いのうまさも格別で、経済学者理論派の関一助役を支えるため、有田邦敬・木南正宣らたたきあげた実務型助役も起用し、均衡を保ちます。部・課長にいたるまで目を光らせ、公僕精神の欠ける者はいかに能力があっても使わない。現場の苦労をよく理解し、優秀な人物を適材適所に配置して、存分に腕を振るわせました。
「お前たちの任務はなにか。市民の皆さんに奉仕することだ。よいか、奉仕だぞ」
四郎は何度もこう訓示していますが、今とは違って虎の威を借る狐の時代です。お役人様とふんぞり返っている時代だから、たいした見識です。 社会保健施設・教育産業施設等の充実、図書館・動物園から柴島浄水場の設置に尽力、また大正7年(1918)の全国的に波及した米騒動(米価の暴騰で生活難に苦しんだ大衆が米屋や富商を襲った事件)のおりは、率先して廉米放出の指揮をとるなど、大車輪の働きをみせた四郎は、大正12年(1923)11月、突然市長職を辞します。
「なんでも独占してたらアカが積もる」
これが辞任の弁で、後継者に関助役を指名しました。さあ、かねての念願だった庭いじりと魚釣りができる…と喜んだのも束の間、昭和3年(1928)総理大臣田中義一は手を合わせるようにして四郎をくどき落とし、朝鮮総督府の政務総監に任命します。しかし過労がたたってわずか在任1年、翌4年4月72歳で他界しました。
市長⑨
天王寺公園(天王寺区茶臼山町)に、四郎の銅像が建っています。立派な口ひげ、背中に回した手に帽子が握られた得意のポーズで、生き写しといわれる見事なできばえです。同17年供出され、現在のは同34年市政70周年記念の再建。また墓は四天王寺北墓地の北西、幼稚園の手前にあります。        (続く)