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2015年4月23日大阪市長物語 (十三)

昭和5年(1930)1月、7代大阪市長関一が、猛反対を押しきって強行した梅田─心斎橋間の地下鉄工事は、市民たちから総スカンを食いました。
工事の振動と騒音のひどさは、言葉にならないほど。梅田新道の商店街は損害補償期成同盟を結成し、多額の賠償を要求、
「賠償だけやないぞ。こない被害を受けた沿線住民に、受益者負担やから工事費の一部を負担せえとは、なんたる根性や。盗人に追銭とはこのことやないか」
と、毎日どなりこんできます。市の幹部連中もすっかり参ってしまい、何度も市長室に逃げてきて、
「地下鉄の評判悪いでっせ」
と愚痴をこぼします。
「住民の皆さんの言うとおりです。補償は目いっぱいしてください」
と言ったきり黙りこんで文句たらたらをじっと聞いていたは、幹部たちの帰りぎわにポツンとこうつぶやきました。
「できあがったら皆さん、かならず喜んでくれます」。

大正時代の御堂筋

大正時代の御堂筋

ところがそんな彼は翌6年4月8日の深夜、痛烈なアッパーカットを受けました。淀屋橋北詰の土佐堀川底工事で、突然猛烈な濁流が噴出し、遮断していた鉄板数十枚が吹っとび、水道管は破壊されて水勢は津波となってあたりを襲い、今の市役所付近一帯が海のように沈んだのです。
幸い死者は出なかったが世間は仰天し、マスコミや市会はここぞとばかり関の無謀ぶりを攻撃します。原因の徹底的な究明を迫られ、「工事審査会」が生まれたものの、通りいっぺんの説明では地元が容易には納得しない。工法のミスとなればの責任は追及され、続行が中断されるのは必定です。
この苦境を救ったのが、土木工学の神様といわれた京都帝国大学名誉教授田辺朔郎でした。京都府知事北垣国道の懇望で、夢見る坊やの寝言だと冷笑されながら悪戦苦闘、ついに琵琶湖の水を京都市内に運んでくる運河「琵琶湖疎水」を、明治18年(1885)完成させた学者技師です。三条蹴上に落差を設け水力発電所を開き、大津・京都間の舟運は無論、京都市内の飲料水や灌漑に利用された琵琶湖疎水は、東京遷都で疲弊荒廃していた京都の再興をはたした最大の恩人です。
朔郎は現場をひと目見ただけで、ここは市長の苦境を救わねばと決心しました。        (続く)