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2015年4月22日大阪市長物語 (十八)

7代大阪市長関一は東京高商(現・一橋大学)教授の出身だけに、もの凄い勉強家で、市会議員などが持ち込む細々とした案件はすべて助役に任せ、いつも外国の文献に目を通していました。
外出のさいも英語や独語の分厚い辞書をかかえ、車の中でも暇ができると原書を読み漁ります。ひんぱんに役人たちにも宿題を出し提案を求めますが、こっそり外国の都市行政の書籍などから解答を借用すると、
「キミ、これはアメリカの大都市の話だろ。狭い大阪では無理だ。どうせカンニングするなら、ベルギーやオランダのこれこれの書物を参考にし給え」
と即座に指摘され、顔色を失った部長も多くいたといわれます。
超多忙な職務にありながら、在職11年間にまとめた論文は2百余、単行本12冊、それに有名な『関一日記』を残すなど、誰にも真似のできることではありません。
都市緑化にも人一倍力をいれました。
「市長の都市計画は無駄な空地が多すぎる。大阪の土地は狭いし価格も高い。もっと効率のよい利用計画を工夫しろ」
市会で詰問されたは、こう答えています。
「自由空間は猫の尻尾ではないのです。市民が快適な生活を営める条件は、空間と緑にあります」
今なら当たり前かも知れないが、当時をふり返るとその先見性に感心するばかりです。
やがて彼の存在は全国的に知られるようになり、百人一首の蝉丸の歌をもじって、
これやこの都市行政の権威者は知るも知らぬも大阪の関
とはやされるほどになりました。

関一墓 (阿倍野区・阿倍野墓地)

関一墓
(阿倍野区・阿倍野墓地)

 

昭和9年(1934)9月20日、のちに室戸台風と呼ばれる猛烈な台風が、大阪を急襲します。午前8時30分、測候所の風力計は60メートルを指したところで吹っ飛び、雨量は300ミリ、大阪湾の高潮は築港大桟橋をもぎとり、四天王寺五重塔は倒壊、死者1771人、負傷者22061人、家屋23000余がペシャンコになる大惨事です。
は復旧の陣頭指揮をとり、不眠不休でこの大阪市最大の自然災害に立ち向かいますが、過労がたたり、その4ヵ月後の翌10年1月、あっという間に62歳で世を去りました。大阪市は功労金35万円を贈るがほとんどは、借金の清算で消えています。公費接待大嫌いの彼が、私費で部下たちを慰労したための借金です。   (続く)