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2015年4月22日大阪市長物語 (十九)

昭和10年(1934)1月、前年9月に襲われた大阪市最大の自然災害室戸台風の惨禍から立直ろうと、寝食忘れて働いた7代大阪市長関一は、過労がたたり62歳で急死しました。
惜しむ声は市中にあふれ、今でも阿倍野墓地(阿倍野区阿倍野筋4丁目)にある簡素な彼の墓は、香華の絶えるときはありません。もうひとつ、東洋陶磁器美術館(北区中之島1丁目)の側に、「関一像」が建てられています。これは武蔵野美術大学教授清水多嘉示氏の傑作で、本物そっくりと言われる写実性に加えて、彼の人柄をよく表わしている重厚な芸術性にも富んでいます。散歩のついでにぜひお立ち寄りください。
関を継いだ8代大阪市長が加賀美武夫です。彼は明治23年(1890)山形県生まれ。京都帝国大学卒業後警視庁に入り、保安課長や各都市の警察署長を務めたあと、に人物を見込まれ、14年間助役として犬馬の労をとりました。なにしろ側近中の側近ですから、の行政や手法を熟知しており、名市長の後継者は他におらぬと説得され、ようやく重い腰をあげます。

加賀美 武夫

加賀美 武夫

ところが就任早々、
「前市長時代のマンネリ化した市政を一新する」
と宣言。助役に岐阜市長坂間棟治を引抜き、秘書に若者中馬馨を抜擢、あれよあれよと驚く間もなく市役所の人事を完全に刷新しました。坂間中馬ものちに名市長といわれる方だが年功序列の時代、思いきったやりかたです。
「市政は市民のサービスに尽きる」
これが彼の信念でした。官僚風を吹かしたお役人様のころの話だから、大した男です。
武夫は夢多き少年が、そのまま大人になったような、ロマンチックでナイーブなところがありました。
「大阪がいつまでも煙の都であったら困る。昔から言われた水の都にしないと、浪華の地名に申しわけがたたんよ」
こう考えていた彼は、ある日片腕のに、
「なあ中馬クン、なにかいいアイデアはないかね」
と尋ねます。しばらく考えていたは、
「市長さん、船を浮かべませんか。たまに海や川から街を眺める。今まで気づかなかった大阪が、発見できるかも知れません」
と知恵をひねりだしました。(続く)