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2016年6月30日松下幸之助①

みなとQから継続の「わが町人物誌」。 みなトコ創刊号から松下幸之助の連載が スタートします。お楽しみください。

みなとQから継続の「わが町人物誌」。
みなトコ創刊号から松下幸之助の連載が
スタートします。お楽しみください。


学歴は小学校中退、丁稚小僧から一代で「ナショナル(現・パナソニック)」を築いた松下幸之助は、大阪の企業家の神様としてカリスマ的尊敬の念を集めています。彼についての資料はヤマほどあるので、今回からはその人生の若いころにしぼって、私の心に熱く残っている事がらのみをお話しします。
幸之助は明治27年(1894)和歌山県海草郡和佐村に生まれました。父政楠、母とく枝の三男で、8人兄弟の末っ子です。生家は旧家で父は地主、村の名誉職も務め信望もありましたが、幸之助の誕生の前年、和歌山に米穀取引所ができたのが人生を、大きく狂わせます。
村のためを思って手をだした米相場が、日清戦争によるパニックをもろにかぶって失敗また失敗。先祖伝来の土地・家屋を手放し、和歌山市内に移って小さな下駄屋を始めます。しかし慣れない殿様商法で、これまた失敗。無一物になった父政楠は、大阪に来て知人の五代五兵衛(盲目の社会福祉事業家)を頼り、五兵衛の経営する盲唖学院(当時のことば)で働きます。しかし不幸は不幸を招き、幸之助の長兄、長姉、次兄の3人も、インフルエンザで死亡しました。
幸之助の生家(復元)

幸之助の生家(復元)


そんなある日、政楠は宮田という火鉢屋から、「小僧がほしい。いい子はおらへんか」
と頼まれ、そんならうちの末っ子を使ってくれと答え、幸之助にすぐ大阪へ来いと命じます。そのころの小学校は4年課程で、あと数ヵ月で卒業という明治37年(1904)の11月、まだ10歳の子ども幸之助は退学して手さげ袋ひとつで来阪、宮田家の子守り兼丁稚小僧になります。給料はたったの10銭でした。
おもな仕事は赤ん坊をおんぶして、やすりととくさで金属火鉢を磨くこと。手は傷だらけになるし、いっこうに面白くない。かしこい幸之助は父に、奉公するなら技術を身につけたいとしつこく訴え、父も賛成し3ヵ月で退職、五兵衛の弟の五代音吉が船場の淡路町(中央区)で経営している自転車屋「五代商店」に移ります。そのころの自転車はハイカラな乗り物で庶民には高嶺の花、輸入品ばかりでサラリーマンの月給が10円時代に、2百円以上はする高額商品でした。
店主の音吉は、「幸之助は若さまみたいな偉そうな名であかん。丁稚やから幸吉にせえ」
と命じ、幸吉、幸吉と呼んでかわいがります。幸吉もこまねずみのように働きました。 (続く)