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2016年6月30日松下幸之助②

明治37年(1909)秋、船場の淡路町(中央区)の自転車販売店(当時自転車は超高級乗り物)「五代商店」に丁稚奉公した
まだ10歳の少年幸之助は、主人の五代音吉から「幸吉、コーキチ」と呼ばれてかわいがられ、こまねずみのように働きます。
「幸吉、タバコ買うてこい」
と自転車の修理を待つ常連客が10銭銀貨をだすと、
「へえー、毎度おおきに…」
と前垂れの袋から「朝日」の箱とおつりの4銭をとりだし渡します。
「お前、タバコ屋もやっとんのか」
と客が目を丸くすると、
「いちいち手洗ってタバコ買いに行ってたら、時間とられて商いになりまへん」
とすまして答えます。主人音吉は関心するが、実は朝日は20箱まとめて買うと1箱まけてくれるのです。
6銭のもうけが幸吉の目当てでした。

五代商店に奉公した幸之助

五代商店に奉公した幸之助


どこの店でも丁稚小僧の修行時代は大変だ。朝晩の掃除洗濯から主人や客の使い走り、一日のほとんどをこき使われたあと、やっと先輩から修理技術を教わる。
殴られ蹴られてもごきげんをとり、盆・正月に木綿の着物一着と給金20銭。食事は朝はつけもの、昼は野菜煮物一椀、
夜はまたつけもの、1日と15日だけ魚(たいていはイワシ)が夕食につく…というのが大阪のしきたりでした。
それでも幸之助には楽しくてたまらない。次々に新しい技術を修得し、自分なりの工夫をこらせる職場だからです。
当時は国産の自転車はまだ1台も無い。英国・米国製ばかりだから、小柄な日本人にはサイズがほとんどあいません。
店では叱られるから届けた注文先でこっそり改良してやり、客に喜ばれます。
「お宅、ええぼんさんもっとるな。わいとこにくれへんか」
得意先からこんな冗談を聞いたでと音吉に言われると、なによりも嬉しくなります。
2年後に父政楠が病死するころから、幸之助はひそかに独立の機会をうかがい、いっそう働きました。
たまたまある日、本町2丁目(中央区)の「鉄川」という蚊帳問屋から、自転車1台見せてんかと注文の電話が入ります。
番頭が外出していたので電話に出た幸之助が大急ぎで持参し、懸命に性能を説明してセールスにかかると、
商売上手の鉄川の主人は、
「なかなか熱心なぼんや。よし、買うたろ。現金やさかい一割引きでええな」
とほめながら購入してくれます。得意になって帰ってきた彼は、番頭にどなられました。               (続く)