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2016年6月28日わが町人物誌  松下 幸之助④

明治43年(1910)10月、16歳の少年幸之助は「大阪電燈会社(現・関西電力)」に、配線工見習いとして入社します。なにしろ小学校4年生で中退して大阪に移り、丁稚小僧になった彼だ。なにひとつ正式な学問はしたことがない。先輩から配線技術のイロハを習いながら、わずかな給料のすべてをつぎこんで、電気に関する書物を購入、むさぼるように独学を重ねます。しかし幸之助は本のとおりには絶対にやらない。ちょっとした工夫で新しい方法を開発する。この点に関して彼の才能は、天才的でした。後年大成功し同業者からやっかまれ、
「あいつはマツシタやない。マネシタや。マネシタコウウンノスケやぞ」
とかげぐちたたかれたのはここです。90%模倣したあと10%を変えただけで、誰も気づかなかった独自の製品が誕生し、人々は舌を巻きました。
18歳のころになると彼は十数人の弟子をつれて、さっそうと修理現場にかけつけ、人々が難儀しているのを手品のように簡単に直します。電気知識の無い時代です。たかがヒューズがとんだ程度の事故でもわからず、幸之助のあざやかな技術に感嘆し、彼を名指ししてチップをはずむ客も増えます。しかし幸之助は仲間のように酒や花街にくりこむことはせず、1銭のチップでもたくわえ、独立事業を起こすことを夢見て、しみったれな生活を続けました。
浜寺の海水浴場の点滅イルミネーション、新世界の通天閣の電装工事、アシベ劇場の配線なども、彼が主担した仕事です。お茶屋「富田屋」の停電修理で、天井裏にもぐりこんでほこりだらけになっていたとき、大阪一の名妓八千代に、まあ、お気の毒ねと茶菓子をだされ、まっかになったとも語っています。(本連載257~262回参照)

妻 むめの

妻 むめの

大正4年(1915)彼は姉婿の亀山武雄(のちのナショナルの重鎮)から、お見合いを勧められます。
「井植むめのという子や。お前よりふたつ年下で、なかなかの働きもんやで」
としつこく言われてお見合いしますが、むめのは八千代座(西区千代崎にあった芝居小屋)の前で絵看板を眺めているから、お前はうしろからそっとのぞいてこい…という程度のものです。
当日、初めて羽織を着せられた幸之助は、武雄に背中を押されて八千代座前の人ごみの中を行ったり来たりして待ちます。(続く)