わいワイ がやガヤ 町コミ 「かわらばん」

みなトコ×みなとQ みなとQ編集室 06-6576-0505

2016年6月25日わが町人物誌 松下 幸之助⑥

大正6年(1917)6月、幸之助(23歳)は、妻のむめのと、むめのの弟で小学校を出たばかりの少年井植歳男(のちの三洋電機創業者)との3人で、猪飼野(東成区玉津2丁目)の二間しかない小さな民家を借りて、ソケットの製作を始めます。(現在同地「宝塔寺」に、「松下幸之助起業の地」碑が立つ)。しかしソケット製造には、資金も知識・技術もたりませんでした。

井植 歳男

井植 歳男

「石炭酸とホルマリンをアルカリと混ぜて加熱し、充填剤として木粉、アスベスト、クラフト紙、それに着色剤を入れる…フムフム」
と本を見ながらうなずいても、肝心の混合率がわからない。仕方なく大阪電燈会社に勤めていたころ知りあった練り物工場を訪ねるが、「おととい来い」と追い出される。電燈会社の検査技師幸之助だから、チヤホヤしてくれたのです。木から落ちた猿では、誰も相手にしてくれません。彼は自分の甘さをいやというほど痛感します。それでも足を棒にして廻るうち、ある町工場の親切な老職工がそっと教えてくれたのをヒントに、なんとかベークライトの製法のコツをつかみ、幸之助式改良ソケットを作ります。さっそく歳男と二人で自転車に積みセールスに出かけますが、売れたのは10日間でたったの100個、原料の支払いにも不足しました。
この年の12月、資金を使いはたし、食費もむめのが嫁入りのとき持ってきた着物を質入れしてまかなうありさまに、すっかり弱気になった幸之助は、もうあかん、いっしょに首を吊ろうかと、本気とも冗談ともつかぬ口調で話しかけます。むめのは明るく笑って、
「あんた。しっかりしい。うち、心中するためにあんたとこ来たんとちがうで」
と言います。このひとことが、へばりついていた死神を追い払う。もしシクシク泣かれていたら、大ナショナルは生まれなかったでしょう。
ありがたいことにその直後「川北電気商会」から、扇風機の碍盤(電線を絶縁して固定する器具。当時は陶磁器)を、お宅のベークライトででけへんかとの注文がくる。むめのが釜をたき、幸之助が金型で抜き、歳男が磨きをかける。不眠不休で働き、暮れもおしせまったころかろうじて納品に成功し、80円もの純益をあげた三人は、これで正月ができると抱き合ってとびあがります。翌年も新年早々、あんたとこの碍盤調子ええ。あと2千枚追加や、と注文がきました。                        (続く)