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2016年6月24日松下幸之助⑦

大正6年(1917)6月、幸之助(21歳)は新婚の妻むめのむめのの弟で小学校を出たばかりの少年井植歳男(のちのサンヨー電気創業者)の3人で、猪飼野(東成区玉津2丁目)でたった二間の民家を借り、改良ソケットの製造を始めます。
ところがさっぱり売れない。貯金を使いはたしむめのに心中話をもちかけ、うち、あんたと死ぬためにお嫁に来たんとちゃうで。しっかりしいと叱られるありさまでした。
ところが年末に「川北電気商会」から、扇風機の碍盤(電線を絶縁して固定する器具)の注文がきて、翌年にも「あんたとこのは調子ええ。なんぼでもひきうけるさかい、よその店に内緒でどんどん作ってや」と川北電気商会の主人に頭を下げられ、不眠不休で働き、なんとか大ピンチをのりこえます。

大ヒットした  ふたまたソケット

大ヒットした ふたまたソケット

「世間さまは厳しくもあるし、また あったかいもんや。こないしたろ思ても、なかなか思惑どおりにはいきまへん。そやが辛抱して真剣にとりくんでいたら、かならず助ける神がおって、思いもよらぬ道が開けます。順境もよし、逆境もまたよし。その日その日を、せいいっぱい生きることでんな」
晩年、幸之助翁はこう語っています。
大正7年(1918)3月、福島区大開1丁目に、工場兼住宅を家賃16円50銭で借ります。2階建で2階2間1階3間、前庭6坪があり、1階を全部作業場にして、「松下電機器具会社」の看板をあげました。
初めて4人の工員を雇った幸之助は、「改良アタッチメントプラグ」(略称アタチン)の製造を始めます。古電球の口金を応用したものですが、モダンなデザインが喜ばれ、しかも市価の3割も安かったから注文が殺到する。続いて今では神話になった「二燈用差しこみプラグ(俗称ふたまたソケット)」を開発します。二燈用はすでに東京と京都で作られていたが、そこはマネシタです。工夫して改良してさらに便利な器具にし、実用新案をとったのも成功、羽が生えたように売れに売れ、世に広がっていきました。
事業は軌道にのり、同11年(1922)には従業員50人余、月産額1万5千円余の本格的な町工場主人になります。幸之助は従業員をかわいがりました。どんな新米にも製作の秘法を丁寧親切に教え、失敗しても慰め、なによりも新旧の序列を作らないのが方針でした。10歳で丁稚小僧になり、さんざん泣かされた体験があったからだと思います。                                   (続く)