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2016年6月22日わが町 人物誌 松下幸之助⑨

大正12年(1923)9月、関東大震災で東京が壊滅状態になったとき「松下電機器具製作所」の主人幸之助(29歳)は、開発した「角型新式電池ランプ」を被災者たちに、1万個も無料で配ります。その便利なこと精巧なこと。たちまち評判になると今度は1個1円25銭の超安値で販売、市場は全国的に広がり、翌年末までに47万個も売りつくす大ヒット商品になりました。

角型ランプのパンフレット

角型ランプのパンフレット

もちろん松下電器は順風満帆ばかりではありません。若いころの彼は蒲柳の質(虚弱体質のこと)で、よく病気にかかります。また大正8年(1919)には、商品を石油箱にいっぱいつめて自転車で得意先に届ける途中、江之子橋(西区)を渡ったあたりで突っ走ってきた自動車にはねとばされ、市電の線路上に転がります。市電が間一髪で急停車したためかすり傷で済むが、 「ようまあ無事で…」と集まった野次馬まで感嘆するありさまでした。昭和2年(1927)には、やっと生まれた待望の長男が二つで病死する不運にもみまわれています。
大正末期から昭和初期にかけての大不況は、社会的パニックに発展し、大企業の倒産や工場の閉鎖は数知れず、大量の解雇者が巷にあふれました。業績好調の松下電器も商品のストックが山と積まれ、拡張した工場建設の借金返済も重荷となって、大ピンチを迎えます。
「大将。もうあかん。こら人員削減よりほかに手ありまへんで」
むめのの弟の井植歳男(のちの三洋電機創業者)が、泣き声で言いました。二、三日考え込んでいた幸之助は、次の案を示します。①従業員を一人もクビにしてはならぬ。②従業員の給料は一銭も減らさぬ。③生産作業は当分中止。全員セールスに転じ、ストックの商品を売り尽くすこと。
びくびくしていた従業員たちは安堵し、必死になって販売にとびだしました。
幸之助の経営術は、どこよりも従業員を大切にしたことです。たがいの給料から会社の経営まで透明にし、「歩一会」という組織を作って福利・厚生に力を入れ、運命共同体のような職場にしています。経営者と従業員との信頼感・連帯感が、いわゆる松下イズムです。大都会大阪には血なまぐさい労働争議があふれ、煙突に登ってハンストする〝煙突男〟が現われ、農村では「娘売ります」の張り紙が出る始末。そんな動乱の世に幸之助と従業員たちは、スクラムを組んで立ち向かったのです。   (続く)