大恩ある吉本興業に無断でJOBK(大阪中央放送局)に出演した春団治は、幹部たちともめ、やめるなら借金返せと本宅や2号の茶屋、3号の旅館(2号3号は愛人のこと。当時の言葉)まで差し押さえられます。
反抗した彼は口に証紙をはって高座に上がり、吉本に封印されましてんといってひとことも喋りません。客席は怒ってこらヨシモト、責任者出てこい、ゼニ返せと大騒ぎ、とうとう吉本が降参してうやむやで終わりました。のちに有名になる春団治ストとは、この事件のことです。
昭和9年(1934)胃の不調を訴えていた彼は、大阪赤十字病院に入院、精密検査の結果胃ガンだと診断されます。それからの世話は、最初の妻トミとその娘ふみ子がやきました。
「志う(現在の本妻)はんは、お酒がすぎてアル中気味でしたよて」
トミのいうとおり、トミを追い出して春団治を奪った志うは、全財産を失った寂しさをまぎらわせるため酒にふけり、今では2号、3号宅をたらい回しにされるありさまでした。
「お父さんは私のいうことなら、なんでも素直に聞きました。幼いころ母と私をほうりだした父を、ずっと恨んでいましたが、このとき初めて親子の情を感じたものです」
のちにふみ子はこう語っています。
トミとふみ子は2号や3号が見舞いにきても、ぜったいに病室に入れず、花束や菓子箱も突き返しました。
3月に手術しますが手おくれ、7月回復の見込みがないと退院し、10月6日息を引き取ります。享年56。末期ガンの悲惨な苦痛にあえぎながら、
「これでやっとわいもイガン退職や」
といったとか、いや、あれは芝居の作り話で、だじゃれなんかいうゆとりがあるかいな、などといわれます。トミやふみ子には何ひとつ残されていませんでした。
彼の落語は強烈なくすぐりを速射砲のように連発し、客に笑いをねだる邪道や、伝統的芸能落語を汚したという人もいます。しかし現在保存されているSPレコードを聴くと、背骨がしっかりしていて、オーソドックスなけいこは充分に積んだと思われます。
ヤタケタ(無分別)、スカタン(失敗)の芸人の代名詞になっている桂春団治の記念碑が、受楽寺(池田市豊島南1丁目)にあります。三代 春団治らの建立です。(終わり)