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2014年2月18日春団治〔初代〕 (一)

今では伝説的な落語家となった初代春団治の、常識はずれな人生を紹介します。
彼は明治11年(1878)、高津(中央区)の革細工職人の子に生まれました。本名皮田藤吉、6人兄弟の末っ子です。
幼いころから人を笑わせるのが得意、かんざし屋や大工の親方に奉公しますが続かず、17才のとき桂文我の押しかけ弟子になり、桂我都の芸名で修業します。文我は芝居噺(ばなし)と手踊りで、人気がありました。
何年か経ったがいっこうに芽が出ません。ところがあるとき文我の師匠二代桂文団治が、
「こいつは好きなだけしゃべらさなあかん。わしに貸しなはれ」
とつれていき、芸を仕込んで有名な寄席「紅梅亭」に、桂春団治の名であげてやります。

若い頃の桂春団治

有名な金時計

けたはずれの個性派で目立つことはなんでもする。まだ前座のくせに真打でも赤面するような超派手な衣装をつける。楽屋入りは人力車、数人の車夫に桂春団治と染めぬいた法被(はっぴ)を着せ、威勢のいい掛声とともに大通りを走りますから、あれはなんやと野次馬がついてきます。高座へ上がると当時は政治家か実業家しか持たなかった金の懐中時計をとりだし、今何時やろとわざと客席にみせびらかせます。
演じる落語は、ガッチャン、ヒャー、ブーブーとやたらに擬音語が多い。静まると
「おっちゃんなあ、笑うてなあ…」
と、妙に甘ったるい声で笑いをねだります。先輩たちがお前のは邪道や、もっとまじめにやれと忠告しても平気の平左、しかも礼儀知らずで我が道をいきますから仲間に嫌われます。
「春めが上がると客は誰も浮けへんのに、わしやと浮きよるあほくさ、ほんまにけったいな男や」
と、落語界の長老桂文之助までぼやいています。「浮く」とは客が帰り仕度をすることです。
しかし春団治は人気のわりに、いつもピイピイでした。派手な目立ちたがりですから、金がかかってたまるはずはない。おまけに道楽者で経済感覚ゼロときますから、いつも借金取りに追い回されます。そのくせ取り巻きたちをひきつれ、お茶屋にのりこみ、大盤ぶるまいをする。
ある夜、コヤがはねたあと春団治は、若い者にかこまれて、とびきり上等なお茶屋に入りました。春やん、ゼニあるか…と心配すると、まかしときとすまして胸をたたきます。(続く)

春団治〔初代〕 (二)

チヤホヤされるとのぼせあがる若き日の春団治は、ある日取り巻き連中をひきつれて、無一文のくせにとびきり上等のお茶屋にくりこみました。
たらふく飲んで食べたあと、春団治は隣座敷との間のふすまを開けます。裕福そうな商家のだんなが、芸者衆にかこまれています。

若い頃の桂春団治

「だんなはん、お初で失礼ですが、ちと景気つけたいんで、いっしょにやりまへんか。わい、桂春団治でおます」
「ほう、あんさんが春団治はんか。さ、遠慮はいりまへん。こっちきなはれ」
となってみんな合流し、飲めや歌えの大騒ぎ、
「ほんまにええ気分や。だんなはんのおかげだす。お礼にステテコおどりやりまひょ」
と高座で演じるとっておきの芸を披露します。なにしろ手踊り名人の師匠桂文我譲りの秘芸です。だんなも芸者も笑いころげているうちにお開きになる。
春団治はおおげさに首をかしげ、
「さあてだんなはん。わりかんにしたいんやが、どない計算したらええかわからん。どないしまひょ」
と尋ねます。腹の皮がよじれるほど笑いころげた商人は、
「あほいわんとき。天下の春団治に勘定なんかさせまへん」
と会計を持ってくれたばかりか、祝儀袋まで渡します。ふすまの横で春団治はペロリと舌を出しました。
こんな無軌道な春団治の生活態度を心配した文我の師匠桂文団治は、
「アホなやつやが芸は天才や。まあ嫁はんでも持たせたら、ちっとはましになるやろ」
とあちこち探したあげく、明治40年(1907)京都の旅館の娘でしっかり者との評判の高い東松トミと結婚させます。ときに春団治29才、トミは18才でした。
「芸のためなら女房も泣かす」
とのちに歌われた女房とは、このトミのことです。彼女はけんめいに夫を支えました。
2階借りから長屋を転々とする暮らしですが、春団治の出演料は全部夫に使わせ、自分は寄席「紅梅亭」のお茶子(客の世話をやく案内係)になって生活費を稼ぎ、あんたは日本一の芸人になりなはれ…と励まします。
ところが極楽トンボの春団治は、トミに甘えていい気になって遊び回ったのです。(続く)

春団治〔初代〕 (三)

とにかく目立ちたがりの春団治は、落語界の常識にないパフォーマンスを次々にくり広げます。
ひいき客にそそのかされると冬の道頓堀川にとびこみ、出ばやしででずに客席をかきわけ、奇声をあげながら舞台に上がります。ねずみに喰われましてんと紋付きに大きなねずみの絵をはったり、母親を背負って女湯に入り親孝行やろとみえを切ります。
とにかく芸を磨くより話題づくりに夢中になる。赤塗り人力車に乗って座敷回りをした話も有名です。もっともこれは芝居の話で、ほんとは三代桂文三の逸話だといわれますが、他人のことでも取り入れてしまう素地は、十分にありました。

中年頃の桂春団治

大正3年(1914)真打ちになった春団治は、道修町の薬種問屋「岩井松商店」の女主人岩井うとの色恋大騒動をひきおこします。うは夫の死後気鬱(きうつ)状態でしたので親類筋が心配し、まあ落語でも聞かせたら気分が晴れるやろと寄席につれていったのが、2人の知り合うきっかけです。当時春団治は36才、9つも年上の志うはどうしたことか猛烈に熱をあげ、この人のためなら家産を失ってもかまわないと思い込みました。
春団治はひいき客にすぐ借金を申し込む癖があります。物好きな金持ち後家はんのパトロンやぐらいに考え、適当にあしらいながら、正月用の晴着がいるさかいちょっと貸してと頼むと、ポンと渡された金包みの重さにとびあがりました。なんと30倍もの金額が入っていたのです。春団治の目つきが変わりました。
それからは誰がなんといっても聞きません。師匠の桂文団治や妻のトミのことばも、馬の耳に念仏です。志うをつれて派手に遊び回ります。
「あんさん、独立しなはれ。2人でコヤを持ちましょ」
うの殺し文句に酔った春団治は3年後、あれほど献身的に尽くしてくれたトミに離縁状をたたきつけ、うの入りむこになり、戸籍名も岩井藤吉と改めます。
「あんた、春団治はゼニで買えたやろが、藤吉はそうはいきまへんで。きっと今にあんじょういかんようになります」
トミ志うが慰謝料やと差出す3百円の大金に見向きもせず、涙ながらにこういい放ち、ひとり娘ふみ子の手を引いて京の実家にもどっていきました。(続く)

春団治〔初代〕 (四)

大正6年(1917)長い間苦労をかけてきた妻トミをむりやりに離縁し、道修町の薬種問屋の女主人岩井志う入りむこになった春団治に、世間はあいた口がふさがりません。ときに春団治39才、志う48才です。
もちろん岩井家では志うの亡夫の親類筋が猛反対し、声を荒げて非をいさめますが、志う春団治に首ったけですからどうすることもできません。大もめのあげく志う6万円(異説35万円)の大金をもらい、薬種問屋とはいっさい無関係との条件で追い出されます。
翌7年、志う中央区内本町2丁目にあった「内本町文芸館」を買収し、改装して「浪花亭」と名づけ、春団治専用の常打ち演芸館としてオープンしました。

中年頃の桂春団治

「イヨー、後家殺しーィ」
客席からこう声がかかると春団治はますます得意になり、なんなら後家殺しの奥の手教えまひょとニヤリと笑いますから、爆笑、また爆笑の人気を呼びます。
とはいえ春団治は勉強もしました。前座が演じている間、下足番に化けて客席に入りこみ、冗談をいいます。おもろい下足番やと気づかぬ客はなんでも喋る、春団治の悪口までいう。客がなにを望んでいるかを頭に置いてトリの高座に上がった彼は、さっそく今仕込んだばかりの悪口をネタに取り入れますから、拍手かっさいとなる。誰ひとり先ほどの下足番が春団治だと気づいた客はいなかったといわれます。
大入りにのぼせた志う京町堀(西区)の京三倶楽部(くらぶ)や南地(中央区)の三友倶楽部も買収し、春団治専用コヤのチェーン店を増やします。しかしこの事業拡張が首を締めました。
「やっぱりトーシロ(素人)はんです。ゼニばなれがよすぎます」
ほかの興行師たちは、志うをこう批評しました。彼女はたしかに大店の薬種問屋の女主人でしたが、それは腕ききの番頭や手代がついていたからです。未知の芸能の世界では、いくらゼニがあっても奥様商法でした。
おまけに春団治は相変わらず経済観念ゼロです。たったの2年たらずで大正9年(1920)1月、浪花亭は倒産しました。志う手もとに残った金額は、13円だけだと伝えます。ぽっちゃりした色白の、とても50才には見えぬうのほおはげっそりと落ち、木から落ちた猿のような姿になります。春団治はやむなく、地方巡業に出ました。(続く)

春団治〔初代〕 (五)

大正10年(1921)借金地獄のどん底にいた春団治に、救いの手をさしのべたのが吉本興業の女社長吉本せいです。無軌道な極楽トンボの春団治が、大阪の伝説的な落語家として今も名を残しているのは、せいのおかげです。
せいは月給5百円という破格の待遇で、春団治と専属契約を結びます。東京帝大出身の学士様の月給が50円也の時代です。そのかわり、花月倶楽部(くらぶ)、松島花月、福島竜虎館、南地花月などの吉本系列のコヤに、1日4回も出演させ、徹底的にこき使います。1回なんぼのギャラが常識の当時の芸能界で、月給制とはまことに珍しいシステムです。

中年頃の桂春団治

こうして春団治は立ち直りますが、目立ちたがりはいっこうにおさまらない。座ぶとんをくっつけたような派手な着物、20円金貨をぶらさげた金ピカの羽織のひも、金の懐中時計をみせびらかせるお得意のしぐさは変わりません。
女性関係もでたらめ。北新地のなじみの芸妓に住吉で「春団治茶屋」を開かせ2号に、3号は親子ほども年の違う若い娘で旅館を経営させ、自分は高津に本宅を構え、ああいそがし、3軒回らなあかんねんとうそぶきます。本宅には自分のために財産のすべてを失った元・道修町の薬種問屋女主人志うを住まわせ、彼女の好きな酒と肴を充分に与えて大事にします。
落語レコードの流行も、彼の懐を豊かにします。全国の落語家のレコードの売りあげナンバーワンは春団治、調子にのって「ものいうせんべい」なる奇想天外なレコードも出しています。これはせんべいに小ばなしを吹きこみ竹針をそえたもので、落語を聴いたあと食べられるのがミソ、ただし二回かけるとミゾが壊れて食べねばならず、世間を騒がせただけでした。
非常識ぶりも相変わらず。あれほど世話になった吉本に無断でJOBK(NHK大阪放送局。当時はラジオ)に出演します。吉本の幹部が怒ると、うるさいなあ、吉本やめまっさときました。じゃあやめろ、ただし借金は返せと吉本は、本宅ばかりか2号の茶屋、3号の旅館まで差し押さえます。まだ8千円の借金が残っていたからです。さしもの春団治も参りましたが、今度は口に証紙をはって高座に上がりました。
「吉本にはられましてん。そやから今日はなんもしゃべれまへん…」。(続く)

春団治〔初代〕 (六)

大恩ある吉本興業に無断でJOBK(大阪中央放送局)に出演した春団治は、幹部たちともめ、やめるなら借金返せと本宅や2号の茶屋、3号の旅館(2号3号は愛人のこと。当時の言葉)まで差し押さえられます。
反抗した彼は口に証紙をはって高座に上がり、吉本に封印されましてんといってひとことも喋りません。客席は怒ってこらヨシモト、責任者出てこい、ゼニ返せと大騒ぎ、とうとう吉本が降参してうやむやで終わりました。のちに有名になる春団治ストとは、この事件のことです。
昭和9年(1934)胃の不調を訴えていた彼は、大阪赤十字病院に入院、精密検査の結果胃ガンだと診断されます。それからの世話は、最初の妻トミとその娘ふみ子がやきました。
「志う(現在の本妻)はんは、お酒がすぎてアル中気味でしたよて」
トミのいうとおり、トミを追い出して春団治を奪った志うは、全財産を失った寂しさをまぎらわせるため酒にふけり、今では2号、3号宅をたらい回しにされるありさまでした。

桂春団治碑(池田市)

「お父さんは私のいうことなら、なんでも素直に聞きました。幼いころ母と私をほうりだした父を、ずっと恨んでいましたが、このとき初めて親子の情を感じたものです」
のちにふみ子はこう語っています。
トミとふみ子は2号や3号が見舞いにきても、ぜったいに病室に入れず、花束や菓子箱も突き返しました。
3月に手術しますが手おくれ、7月回復の見込みがないと退院し、10月6日息を引き取ります。享年56。末期ガンの悲惨な苦痛にあえぎながら、
「これでやっとわいもイガン退職や」
といったとか、いや、あれは芝居の作り話で、だじゃれなんかいうゆとりがあるかいな、などといわれます。トミやふみ子には何ひとつ残されていませんでした。
彼の落語は強烈なくすぐりを速射砲のように連発し、客に笑いをねだる邪道や、伝統的芸能落語を汚したという人もいます。しかし現在保存されているSPレコードを聴くと、背骨がしっかりしていて、オーソドックスなけいこは充分に積んだと思われます。
ヤタケタ(無分別)、スカタン(失敗)の芸人の代名詞になっている桂春団治の記念碑が、受楽寺(池田市豊島南1丁目)にあります。三代 春団治らの建立です。(終わり)