大正6年(1917)長い間苦労をかけてきた妻トミをむりやりに離縁し、道修町の薬種問屋の女主人岩井志うの入りむこになった春団治に、世間はあいた口がふさがりません。ときに春団治39才、志うは48才です。
もちろん岩井家では志うの亡夫の親類筋が猛反対し、声を荒げて非をいさめますが、志うが春団治に首ったけですからどうすることもできません。大もめのあげく志うは6万円(異説35万円)の大金をもらい、薬種問屋とはいっさい無関係との条件で追い出されます。
翌7年、志うは中央区内本町2丁目にあった「内本町文芸館」を買収し、改装して「浪花亭」と名づけ、春団治専用の常打ち演芸館としてオープンしました。
「イヨー、後家殺しーィ」
客席からこう声がかかると春団治はますます得意になり、なんなら後家殺しの奥の手教えまひょとニヤリと笑いますから、爆笑、また爆笑の人気を呼びます。
とはいえ春団治は勉強もしました。前座が演じている間、下足番に化けて客席に入りこみ、冗談をいいます。おもろい下足番やと気づかぬ客はなんでも喋る、春団治の悪口までいう。客がなにを望んでいるかを頭に置いてトリの高座に上がった彼は、さっそく今仕込んだばかりの悪口をネタに取り入れますから、拍手かっさいとなる。誰ひとり先ほどの下足番が春団治だと気づいた客はいなかったといわれます。
大入りにのぼせた志うは京町堀(西区)の京三倶楽部(くらぶ)や南地(中央区)の三友倶楽部も買収し、春団治専用コヤのチェーン店を増やします。しかしこの事業拡張が首を締めました。
「やっぱりトーシロ(素人)はんです。ゼニばなれがよすぎます」
ほかの興行師たちは、志うをこう批評しました。彼女はたしかに大店の薬種問屋の女主人でしたが、それは腕ききの番頭や手代がついていたからです。未知の芸能の世界では、いくらゼニがあっても奥様商法でした。
おまけに春団治は相変わらず経済観念ゼロです。たったの2年たらずで大正9年(1920)1月、浪花亭は倒産しました。志うの手もとに残った金額は、13円だけだと伝えます。ぽっちゃりした色白の、とても50才には見えぬ志うのほおはげっそりと落ち、木から落ちた猿のような姿になります。春団治はやむなく、地方巡業に出ました。(続く)