とにかく目立ちたがりの春団治は、落語界の常識にないパフォーマンスを次々にくり広げます。
ひいき客にそそのかされると冬の道頓堀川にとびこみ、出ばやしででずに客席をかきわけ、奇声をあげながら舞台に上がります。ねずみに喰われましてんと紋付きに大きなねずみの絵をはったり、母親を背負って女湯に入り親孝行やろとみえを切ります。
とにかく芸を磨くより話題づくりに夢中になる。赤塗り人力車に乗って座敷回りをした話も有名です。もっともこれは芝居の話で、ほんとは三代桂文三の逸話だといわれますが、他人のことでも取り入れてしまう素地は、十分にありました。
大正3年(1914)真打ちになった春団治は、道修町の薬種問屋「岩井松商店」の女主人岩井志うとの色恋大騒動をひきおこします。志うは夫の死後気鬱(きうつ)状態でしたので親類筋が心配し、まあ落語でも聞かせたら気分が晴れるやろと寄席につれていったのが、2人の知り合うきっかけです。当時春団治は36才、9つも年上の志うはどうしたことか猛烈に熱をあげ、この人のためなら家産を失ってもかまわないと思い込みました。
春団治はひいき客にすぐ借金を申し込む癖があります。物好きな金持ち後家はんのパトロンやぐらいに考え、適当にあしらいながら、正月用の晴着がいるさかいちょっと貸してと頼むと、ポンと渡された金包みの重さにとびあがりました。なんと30倍もの金額が入っていたのです。春団治の目つきが変わりました。
それからは誰がなんといっても聞きません。師匠の桂文団治や妻のトミのことばも、馬の耳に念仏です。志うをつれて派手に遊び回ります。
「あんさん、独立しなはれ。2人でコヤを持ちましょ」
志うの殺し文句に酔った春団治は3年後、あれほど献身的に尽くしてくれたトミに離縁状をたたきつけ、志うの入りむこになり、戸籍名も岩井藤吉と改めます。
「あんた、春団治はゼニで買えたやろが、藤吉はそうはいきまへんで。きっと今にあんじょういかんようになります」
トミは志うが慰謝料やと差出す3百円の大金に見向きもせず、涙ながらにこういい放ち、ひとり娘のふみ子の手を引いて京の実家にもどっていきました。(続く)