今では伝説的な落語家となった初代春団治の、常識はずれな人生を紹介します。
彼は明治11年(1878)、高津(中央区)の革細工職人の子に生まれました。本名皮田藤吉、6人兄弟の末っ子です。
幼いころから人を笑わせるのが得意、かんざし屋や大工の親方に奉公しますが続かず、17才のとき桂文我の押しかけ弟子になり、桂我都の芸名で修業します。文我は芝居噺(ばなし)と手踊りで、人気がありました。
何年か経ったがいっこうに芽が出ません。ところがあるとき文我の師匠二代桂文団治が、
「こいつは好きなだけしゃべらさなあかん。わしに貸しなはれ」
とつれていき、芸を仕込んで有名な寄席「紅梅亭」に、桂春団治の名であげてやります。
けたはずれの個性派で目立つことはなんでもする。まだ前座のくせに真打でも赤面するような超派手な衣装をつける。楽屋入りは人力車、数人の車夫に桂春団治と染めぬいた法被(はっぴ)を着せ、威勢のいい掛声とともに大通りを走りますから、あれはなんやと野次馬がついてきます。高座へ上がると当時は政治家か実業家しか持たなかった金の懐中時計をとりだし、今何時やろとわざと客席にみせびらかせます。
演じる落語は、ガッチャン、ヒャー、ブーブーとやたらに擬音語が多い。静まると
「おっちゃんなあ、笑うてなあ…」
と、妙に甘ったるい声で笑いをねだります。先輩たちがお前のは邪道や、もっとまじめにやれと忠告しても平気の平左、しかも礼儀知らずで我が道をいきますから仲間に嫌われます。
「春めが上がると客は誰も浮けへんのに、わしやと浮きよるあほくさ、ほんまにけったいな男や」
と、落語界の長老桂文之助までぼやいています。「浮く」とは客が帰り仕度をすることです。
しかし春団治は人気のわりに、いつもピイピイでした。派手な目立ちたがりですから、金がかかってたまるはずはない。おまけに道楽者で経済感覚ゼロときますから、いつも借金取りに追い回されます。そのくせ取り巻きたちをひきつれ、お茶屋にのりこみ、大盤ぶるまいをする。
ある夜、コヤがはねたあと春団治は、若い者にかこまれて、とびきり上等なお茶屋に入りました。春やん、ゼニあるか…と心配すると、まかしときとすまして胸をたたきます。(続く)