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2014年2月18日伊藤喜十郎(一)

伊藤喜十郎は文具業界に革命をもたらしたイトーキの創業者です。人は彼を発明王と呼びますが、無名の発明家を探しだし、企業化に成功した人物だといったほうが正確でしょう。
彼は安政2年(1855)高麗橋2丁目(現中央区)の質屋小野十右衛門の6男に生まれました。
明治9年(1876)三井銀行に入社し、ごく平凡なサラリーマンでしたが、同23年(1890)東京の上野で開かれた第3回国内博覧会の見物に出かけ、「特許品、専売品展示部門」の陳列品を見て、目をむきました。知らなかった実に便利な品物や、奇抜なアイデアが並んでいたのです。

伊藤喜十郎

「なんでこんなええもんが市場に出ないんやろ」
ふしぎに思った喜十郎は、日本で初めて金庫を製作し博覧会に出していた竹内善次郎という男を訪ねます。
善次郎は変人です。発明は大好きですが、それで商いをする気は全くありません。
「わしはな、どうしたら持主にはあけやすく、他人にはあけにくい入れ物ができるか、それを考えるだけが生きがいや。まあ世間さまとの知恵くらべじゃ」
と、木で鼻をくくったような返事をします。
「そやがあんた、発明は多くの人たちに利用されて、はじめて値うちがでるんやないか」
喜十郎がこうくいさがると、プイと横を向いてものをいいません。ははあ、発明家とはこういう連中か、そんならわしが商品化したろ…喜十郎は銀行をやめ、退職金で東京の木挽(こびき)町に小さな事務所を開き、各地に散在していた無名の発明家たちに声をかけます。
「あんたのアイデアを商品にさせてください。いや、金もうけやない。世の中に役立つ発明、人さまに喜ばれる仕事、これをしたいだけです」
彼はこのようにかきくどきましたが、発明といっても多種多様、しかもおしなべて偏屈な人ばかり。容易に軌道にのりません。アイデアの販売業など前代未聞、珍商売の時代でした。
それでも東奔西走するうちに、金庫(竹内善次郎)人造膀胱(ぼうこう・大河内善行)蝶々襟止(えりどめ・鈴木金太郎)謄写版(とうしゃばん・堀井新次郎)安全剃刀(かみそり・石田仁蔵・音三郎)らが参加します。(続く)

伊藤喜十郎(二)

世の中に役立つ仕事をしたい、人さまを喜ばせたい…と考えた喜十郎は、大阪に特許品専門販売店「伊藤喜商店」を開業します。
しかし容易には軌道にのらず失敗の連続でした。まちがいなくヒット商品になると信じた竹内善次郎発明の金庫が、町の鉄工場に部品を頼んだところ、どうしてもうまく合うものができません。
「わし専用の金属工場が必要じゃ」
経費など頭の片隅にもない奇人の善次郎にこういわれ、そろばんをはじいて費用を計算した喜十郎は腰をぬかします。善次郎は、
「金がかかるのはあたり前じゃ。工場作らんなら、わしは抜ける」
と、東京へ戻ろうとしますからあわてて袖をつかみ、無理算段して多額の借金をして彼の専属工場を設け、好きなようにやらせたところ、ついに明治41年(1908)見事な善次郎式金庫が完成します。

ゼニアイキ

はじめはあまり売れませんでしたが、たまたま類焼した商家が、この金庫を使用していたため、お金が無事だったことを新聞が大きく報道したので、あちこちから注文が殺到します。
善次郎の成功を横目でにらんでいた、やはり喜十郎が招いた無名の発明家石田仁蔵・音三郎の親子が、金庫をヒントに「ゼニアイキ」なる商品を開発、これが大ヒットしてたちまち伊藤喜商店の名を全国的に広めます。
ゼニアイキとは「銭勘定の合う器械」との意味、つまり金銭出納器のことです。今のスーパーなどにあるレジスター(略称レジ)の先祖です。
それまでの出納器は西洋から輸入したものばかりで、数千円もしたうえに故障すると部品を取り寄せねばならず、気の遠くなるほど時間がかかりました。ところがゼニアイキは30%も安く、しかも正確無比で故障知らずときますから、売れに売れるのはあたり前です。金庫とゼニアイキで喜十郎は、山ほどかかえていた借金を、いっぺんに吹っとばします。
発明家はプライドが高い。仁蔵・音三郎親子に抱きついて喜ぶ喜十郎を眺めていた善次郎が、奮起します。大正3年(1914)に今度は「継ぎ目なし 一寸厚板 ペント式金庫」なるものを製造したのです。
喜十郎は「ゼニアイキの中味はこれで安全」とのキャッチフレーズで、セット販売しましたから、購入を申しこんでも1年待ちというほどのブームになりました。(続く)

伊藤喜十郎(三)

大正3年(1914)無名の発明家竹内善次郎の「ベント式金庫」と、石田仁蔵・音三郎親子の考案した「ゼニアイキ」レジスターの先祖)をセットで売りだした大阪の「伊藤喜商店」社長 伊藤喜十郎は、利益のすべてをさらに新しい商品開発に投入しました。
(1)山本竹次郎の強力水揚機。(2)堀井新治郎の謄写版(とうしゃばん=ロウびきの原紙に鉄筆で字や絵を書き、印刷インクで刷る道具)。
(3)田沼のかつおぶし箱型けずり器。(4)石田親子の万年筆と文具箱。
等が販売され、世間はそのたびごとにあっと声をあげ、アイデアに感心します。

伊藤喜商店

海外のヒット商品の輸入も積極的にとりくみます。アメリカのB・ホッチギスが作った書類どめを「ホッチキス」の名で売りだし、これは現在も使用されています。ドイツのイゾラ商店が発明したジャー (保温装置つき容器) を、魔法ビンと名づけたのも喜十郎が最初です。
「なに?このビンに入れたらさめへん?そんなあほな」
という客に彼は魔法ビンにかん酒を入れて、5時間たったら飲んでみな…と貸し与えます。
「ほんまや。ほんまに熱い」
客は手品師にあったような顔で喜十郎を見つめました。変わったところでは岐阜県出身の尾関治七に知恵を授け、独特の提灯(ちょうちん)を作らせます。これが名高い「岐阜提灯」です。
もちろん成功ばかりではありません。たとえば「コンニャク製水枕」これは氷で冷やせば長時間持続して病人の頭を冷やすというふれこみでしたが、氷を入れたゴムの水枕のほうが役立つとあまり利用されませんでした。しかし今の「アイスノン」のはしりだといってもよいアイデアで、携帯にも便利、着眼点は大したものだと思います。
「ランプホヤ掃除器」も失敗でした。ホヤはランプの灯火をおおうガラス製の筒のことですが、すぐススで汚れてしまい掃除が大変です。それで簡単便利だと売りだしたのですが、すぐにランプは電燈にとって代わられ、無用の長物になってしまいます。
「卵を百産んで三つかえったら大成功や」
これが彼の信念でした。ですから大金と時間をかけ、結局泡のように消えてしまったアイデアも、数えきれないほどあります。成功と失敗は1枚の紙の表と裏でした。(続く)

伊藤喜十郎(四)

大阪の特許品専門販売店「伊藤喜商店」の社長伊藤喜十郎は、無名の発明家たちに投資して新商品の開発に資金を投入しましたが、たいていは失敗に終わりました。
努力は徒労に帰し、金銭は行方知れずとなりますが、彼は一度も愚痴をこぼしたことはありません。まして人を責めることはぜったいにしない。頭をかかえてわびる発明家たちに、つぎはがんばってな…とやさしく声をかけ、よし、社長のためにやったろと奮起させる手腕は、大したものでした。
帝国発明協会等から生涯50数回にわたって表彰や受賞を得ていますが、この人柄があったればこそでしょう。

渋沢栄一筆

昭和4年(1929)これまた発明大好きといわれた昭和天皇が大阪に来られたとき、喜十郎にお会いになり、
「偉い人だそうね」
と、お声をかけられました。喜十郎は今までの苦労が報われたと大喜び、会社にもどるやいなや「ゼニアイキ」彼が売りだした金銭出納器〔今のレジ〕)を献上したのです。
「おそれ多くも天皇陛下にゼニ勘定の道具をさしあげるとは、なにごとじゃ。身のほどわきまえぬふらちな男め!」
と、宮内省の役人たちは青筋立てて怒りましたが、昭和天皇はさっそく金銭を取り寄せ、何度もためされて、
「ほう、正確に記録されるのう」
と、感心しておそばに置かれたと伝えます。
日本債権会社も設立、事業家としての才能も発揮した喜十郎は、天皇のおことばにすっかり満足して翌昭和5年(1930)75歳で他界しました。中央区平野町2丁目に「イトーキ史料館」があり、彼の偉大な生涯と数数の発明品を知ることができます。
「イトーキの商品は、百年という歴史の厚みのなかで、一人ひとりの汗と涙の結晶が、美しい心と営々と続けられた努力が、花開いたものであります。私たちは文明の進歩によって、こういったすばらしい過去を忘れてしまうのが気がかりです」
との内容が記された史料館設立の趣意に同感します。
私たちは多くの先人たちの遺産を相続して暮らしていることを、決して忘却してはなりません。
ゼムピン・アイデアルなどの紙ばさみ、金額印刷機、穴あけパンチ、自動番号機、シールプレス、すべて喜十郎のおかげです。(終わり)