わいワイ がやガヤ 町コミ 「かわらばん」

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2014年2月21日吉本 せい(一)

大阪に笑いの王国「吉本興業」を築いた吉本せい、敬服すべきすばらしい女性です。さまざまな資料があり、とうてい書ききれないので、今回は私の心に強く残ったもののみ紹介しておきます。山崎豊子『花のれん』も、彼女を知るうえでの好著です。

せいは明治21年(1888)兵庫県明石の太物商(ふとものしょう=綿や麻の織物商)林豊次郎・ちよ夫婦の娘に生まれました。男6人女6人、合わせて12兄弟の次女です。

両親はせいがまだ幼いころ大阪に移り、米屋を開き繁盛します。なんといっても愛くるしい店番の彼女の力が大きい。少女ながら升で量った米に、「これ、おまけね」と小さい手でちょっぴり米をつかんで入れたから、おかみさんたちも大喜び「おおきに。また買いにくるで」と、ニコニコ顔で帰っていきます。

抜群の成績で小学校を卒業したせいは、北浜で「金づくりの名人」と言われた米穀仲買人の島徳蔵方に、女中奉公します。大阪の商家の娘さんたちは、行儀見習いと称して奉公し、花嫁修業するのが常識でした。
愛嬌ものでなんといっても利発で機転がきく。徳蔵にかわいがられて炊事・洗濯・裁縫から、おけいこごとまでやらせてもらう特別待遇。ねたんだ女中仲間にいじわるされますが、柳に風と受け流します。感心した徳蔵「この子は商いができる」と、得意の商法のコツを教え込みました。のちにせい「花月」の経営で大成功したのは、徳蔵商法のコツが肥料になったからです。

明治43年(1910)せいは両親の勧めた縁談を承知し、本町(中央区)の荒物(あらもの=家庭用の雑貨)問屋「箸吉」の5代目主人吉本吉兵衛(本名泰三)と結婚します。時に泰三26歳、せいは22歳でした。
「箸吉は評判の老舗(しにせ)や。泰三も真面目な働きもんやそうや」
と父に言われて嫁いだのですが、聞くと見るとでは大違い。泰三は典型的な船場のぼんぼんで芸事が大好き。ひいきの芸人に入れあげて金を浪費し、自分でも芝居や剣舞に凝り、商売をほったらかしにして舞台に上がる。地方巡業にまで加わって家をあけることもたびたびで、「私の初仕事は借金取りへのいいわけです」と、せいはのちに語っています。
どんなに家業に精をだすよう口をすっぱくして頼んでも、夫の耳には馬の念仏。夫婦げんかも日常茶飯事の新婚生活が始まりました。(続く)

吉本 せい(二)

家業の荒物(あらもの)問屋の経営を怠けて芝居や剣舞に凝り、借金地獄にあえいでいた夫吉本泰三との夫婦げんかに疲れはてたせいは、ある日請求書の束をかかえながら、
「あんさん。そないに芸事がお好きやったら、ふたりでコヤ(興行する建物)を持ちまへんか」
と、涙声で言いました。

明治45年(1912=せい24歳、泰三30歳)せいは、天満(北区。現在繁昌亭のあるあたり)に文芸館と名づけたコヤを開き、吉本興業のスタートをきります。ここにあった寄席第二文芸館が経営不振で倒れたのを、せいが吉本家の全財産を処分し、あちこち奔走してかき集めた金2百円也で買収、改修したコヤです。

当時大阪の演芸は、落語が王様でした。その落語界は、法善寺の金沢亭を本拠にする桂派と、同じく紅梅亭を根城とする三友派の二派に分かれ、落語家たちは所属する派の系列のコヤにしか出演せず、ライバルどころかたがいに敵意をむきだしにしてにらみあい、戦争状態にありました。

ですから文芸館に出演してくれる名のある落語家は、ひとりもおりません。ましてせいは芸能界では素人だ。仕方なく彼女は泰三のつきあっていた芸人仲間のコネを頼り、物真似、音曲、剣舞、曲芸、軽口(かるくち=役者の声色を使った笑芸)、怪力、琵琶、義太夫と、これまで大道芸だった無名の人たちに声をかけ、文芸館の舞台にあげたのです。
しかも出演料にランクをつけない。年齢・性別・芸歴などはいっさい無関係。給料はすべて平等。これにどれだけ客席をわかせたかでイロをつけ上乗せします。今まで道ばたや寺社の境内の隅っこで演じていた芸人たちは、コヤでやらせてもらえるだけで感激し、汗水たらして大熱演します。入場料はたったの5銭、これは他のコヤの3割程度です。
「こらおもろい。あんな芸、初めて見た」
と評判になって文芸館は連日大入り満員でした。これらの無名の芸人たちから、百面相の右楽、軽口の団七・団鶴、落語の花団治・小南光ら、のちに全国的に活躍する芸人が育っていきます。
文芸館は開演が午後5時、閉演は11時という夜型興行です。さあ、せいは働きます。めちゃくちゃ働きます。自らお茶子(コヤのサービス係)になって開演2時間前から座ぶとんを運び、2百人定員の1割増しも敷きました。(続く)

吉本 せい(三)

明治45年(1912)4月、大阪天満宮の裏に「第二文芸館」というコヤを開いたせいは、猛烈に働きだしました。お茶子(サービス係)はむろん、はねたあとの掃除で落ちているミカンの皮を拾って乾かし、漢方薬店に売りにいきます。雨の日は下駄箱の番をして、下駄についた泥をきれいに落としてやる「お客様は神様です」と言ったのは、三波春夫ですが、最初に言ったのはせいでしょう。サービス第一、笑いころげた客がキングやクイーンになった気分で帰ってもらえるのが、彼女の商法でした。

もちろんせいだけじゃない。夫の泰三も、あんなに借金まみれの荒物問屋「箸吉」のぐうたら主人だったのが、嘘のように働きます。働くとかならずカネがたまる。たまるとますます働きたくなるのが人情です。

せいの弟林正之助もよく姉を助け、3人とも自分でも気づかなかった商才を発揮。福島に第二会館、新世界に一号館、松島に広沢館、キタに永楽館と、今でいうチェーン店のコヤを増やしていきます。いずれも場末にあって経営に失敗し、つぶれかかっていたコヤですが、泰三・せい夫婦は手品師のように、次々と再生させていったのです。
せいはこれらのコヤを、格安で手に入れています。交渉係にかわいい愛嬌のある若い芸人の娘さんたちをあてたからです。どこの国でもいつの時代でも、男どもはこういった娘さんには弱い。コヤの経営者たちは気っぷのいいのが自慢で、そんならそれで手を打とうと、せいの商法に落ちてくれます。わずか数年で夫婦は5軒のコヤを持ちました。

興行の常識をくつがえすような経営を続けたせいは、大正7年(1918)芸能人なら誰もがあこがれる法善寺(中央区)あたりに、吉本興業の本拠となるコヤを創設する計画をたてます。泰三は手をふって、
「あかんあかん。あっこは紅梅亭と金沢亭があるやないか」
とあわてて制止します。紅梅亭は三友派の、金沢亭は桂派の根城で、落語界はこの二派が牛耳っています。
「そやけど金沢亭の客足は遠のいてるで。あのコヤを買うて本丸にせえへんか。ヨシモトのハクがつくやんか」
せいは、こともなげに言い返します。たしかに三友派は七代桂文治や三代桂文団治らの人気者で満員ですが、金沢亭は出演者の老齢化で5百人の客席が半分ほど空席でした。(続く)

吉本 せい(四)

大正7年(1918)せいは、法善寺(中央区)にあった大阪の演芸興行を代表するコヤ「金沢亭」の買収にのりだします。
シブチンして7年がかりでためた2万円を懐に、所有者の金沢利助宅に押しかけ直接談判、仲介者をたてるのが常識の時代にです。

客足が遠のき赤字に悩んでいた利助ですが、市会議員も務めた大物の 実力者。大道芸なみの無名の新人を集めてのしあがってきたせいを嫌い、
「あきまへん。ぜったいに売りまへん」
と首を横にふります。しかしせいはあきらめず、何度も訪ねてはかきくどきます。

「あんさん。そんならお尋ねしますが、法善寺横丁がさびれてもよろしますか。水掛不動はんが泣いてまっせ。大阪ミナミの顔がやで」
法善寺横丁を誰よりも愛していた利助の胸に、グサリときたところでせいは、ポンと2万円の現金を投げだしました。
買収に成功したせいは、その足で八卦見(はっけみ=易者)に新事業が成功するかどうかを占ってもらいます。彼は長い間算木や筮竹(ぜいちく)を並べていましたが、やがて難しい顔をして、
「花と咲くか月と欠けるかお前さん、命を賭けた大勝負やとの卦(け)がでたぞ」
と言います。せいは手を打って、
「おおきに。コヤの名前がきまった。花月にしましょ」
と叫びます。これが吉本興業の有名な「南地花月」の始まりです。ときにせいは30歳、夫の泰三は34歳の若夫婦でした。

せいは花月に次々に新しいアイデアを注ぎます。表に紅白の幔幕(まんまく=横幕を張りめぐらせ、紅白の縦縞を入れたもの)を掛け、「扇風機あり」と大看板をあげます。大阪電燈会社にあんたとこも宣伝になるで…と6月から9月まで1台2円で11台借りてきたものですが、当時扇風機のある家庭はまずない。これだけでも噂になります。
高座の前には15センチほどの溝を作って電燈を入れ、芸人たちの顔がうかびあがる仕掛けも工夫する。いわゆるフットライトですね。もうひとつ有名なのが、コヤの前に掛けたのれんです。1月は紅梅、2月は白梅、3月は枝垂桜(しだれざくら)…というふうに、一年中季節にあった造花でのれんを飾ります。せいの生涯を小説化した山崎豊子の名作『花のれん』の題名は、ここからとったものです。たちまちミナミの名物になりました。(続く)

吉本 せい(五)

大正7年(1918)せい・泰三夫婦が法善寺(中央区)に設立したコヤ「花月」の最大の売り物は、お茶子(客席のサービス係)です。資料によれば、黒繻子(じゅす=光沢のある織物)の襟に八反掛(八丈島特産の絹の綾織物)の帯、赤い前垂(まえだれ=エプロン)の制服姿。髪はミセスが丸髷(まるまげ)、ミスは新蝶々(蝶が翅を広げたような形)で、とびきり粒揃いの美人揃い。にっこり笑いながら席の案内や茶菓子の接待をして、客を王様気分にさせます。ミナミの高級料亭のべっぴんさんに負けへんで…が、せいの口ぐせでした。
演目は桂派の協力もあって桂枝雀らの人気落語家がメインですが、吉本興業の特色である百面相の右楽や尺八の扇遊、軽口(かるくち=声色や身ぶりの真似芸)の団七といった色物もまぜて入場料がたったの10銭。

この低料金と大衆性も受けて、花月は法善寺の名物になっていきます。
驚いたのはミナミを仕切っていたコヤ紅梅亭です。こちらは落語ばかりで25銭。
「素人のオナゴはんが無茶しよる。上方の芸能を投げ売りするつもりかいな。そんならこっちはほんまもんの芸、見せたろやないか」
三遊亭円馬桂文団治など大物の真打ちをずらりと並べ、入場料を60銭に値上げ。さらに色町の粋筋(いきすじ)の旦那たちに「女づれでおこしやす」と声をかけます。60銭も払えば芸者衆に大きな顔ができる。さあ花月が勝つか紅梅か…と町雀たちは煽りたてました。

せいは切り札をだします。芸人たちの月給制です。興行界の常識は、客の払った入場料をコヤの所有者と出演者たちが山分けするのが慣習で、不入りのときは収入減になります。ところがせいはハナから、あんたはなんぼ、あんたならこんだけと決めておき、客足にかかわらず契約した給料を毎月払う仕組みにしたのです。
こらおもろいと、三遊亭円遊桂小文枝笑福亭松鶴ら有名な落語家たちも、花月の舞台にあがってくれます。さらにせいはめだちたがりで嫌われ者の桂春団治(本連載214回~219回参照)や、個性派の浪曲師広沢虎造・伊丹秀子らも、ウチとこおいでと誘いました。
芸歴・年齢・性別・師匠筋などを、重視した芸能界の古いしきたりにもこだわらない。漫才から手品、曲芸から剣舞、安来節までなんでも舞台にのせて客層を広げます。 (続く)

吉本 せい(六)

法善寺横丁の名物コヤ「花月」の実質オーナーになっても、せいは初めて天満に文芸館を開いたときと同様に、お茶子(客席のサービス係)になってまぎれこみ、芸人たちに、
「あんた、今日、手抜いたやろ。お客はん、ぼやいてたで」
「なにが真打ちや。あいつ、芸投げよった。あかんたれめ。もう使うてやらへん」

と、キツーイ批評をします。
芸人を発掘する才能も、たいしたものでした。

「カネかかる芸人がウマイとはかぎらん。どんな場末にもいい子がおるで。
ボヤッとしとらんと、はよ探してこい」
と、実弟で片腕の林正之助の尻をたたきます。この方針は現在の吉本興業にも受け継がれていますね。

「朝寝、朝酒、朝風呂大好き。こんな連中はあかんで」
が口ぐせのせいは人情味に厚く、病気や多くの家族をかかえて困っている芸人たちには、とりわけ親切でした。火事や水害がおこると、「ヨシモトが来ましたで」と若いもんたちを被災地に送り、男は力仕事、女は炊きだしを手伝わせます。今ならボランテイア活動です。芸能界で一番これに力を入れたのは、ヨシモトでした。

大正12年(1923)9月、関東大震災で東京が壊滅状態になったとき、せいはいちはやく正之助「毛布千枚送れ」と命じます。毛布会社の倉庫も空っぽで、やっとかき集めたのが130枚「姉ちゃんあかん。トラックが走られへん」と泣きごとを言う弟に、「フネ、船で送りなはれ」と指図しています。
ところがその5カ月後、つまり大正13年2月に、夫の吉本泰三が心臓マヒで急逝したのです。しかも場所が悪い。愛人宅での死亡でした。泰三39歳、せい35歳のときです。
「ウチが悪い。商売ばっかりして、あの人のことかまわんなんだからや」
健気にこう語ったせいは、船場のしきたりどおり、まっ白の喪服で葬儀をとりしきりました。白の喪服は一生再婚はしないとの女の決意の表れです。ウチの人お世話になったね、と葬儀が終わると浮気相手に、たっぷり入った金包みを渡したと言われます。せいの気っぷのよさをほめる声は多いのですが、こんなに尽くしても女の立場は悲しい時代でした。
さすがのせいも、すっかり落ちこんでしまいます。そんな姉を支えたのが正之助です。(続く)

吉本 せい(七)

大正13年(1924)2月、せいの夫吉本泰三は39歳で急死します。働きもんせいも落ちこんで気力を失うが、これを助けたのがせいの実弟林正之助です。

すでに吉本興業は大阪に18、京都5、名古屋・横浜に各1の合計25ものコヤを経営しており、大阪どころか上方芸能を代表する会社になっていましたが、さらに発展させるため正之助は漫才に目をつけます。

林正之助と吉本せい

コンビの千歳家(ちとせや)今男を失って困っていた花菱アチャコと、インテリを鼻にかけプライド高く仲間から嫌われていた横山エンタツを再会させ、エンタツ・アチャコを舞台にあげて爆発的な人気を集めます。詳しくは本連載132~38回をご覧ください。漫才が落語と並んで上方を代表する芸能になったのは、正之助の手腕です。

昭和に入ってせいは立ち直り、会社の経営にも才能を発揮しますが、それ以上に力を入れたのは慈善事業です。また報恩の気持ちも強く、数々の逸話を残しています。全部は無理なので、有名な話を二つだけ紹介しておきます。

昭和7年(1932)東宮学問所総裁東郷平八郎が療養生活に入ったのを知ったせいは、5万円のお見舞いをさしあげ、返礼として東郷家から平八郎愛用の椅子を贈られています。平八郎は日露戦争の天王山となった日本海海戦で、ロシアのバルチック艦隊を撃破し、日本が勝利する原動力となった連合艦隊司令長官です。彼は同9年87歳で病没しますが、椅子は今でも吉本家の家宝になっています。
もうひとつは同13年(1938)に、25万円もの大金を投げだして、経営不振だった通天閣を買収したことです。通天閣は明治36年(1903)に開かれた明治万博と俗称される第5回内国勧業博覧会の跡地に、設けられた娯楽施設「ルナパーク」のシンボルとして、同45年(1912)に竣工した高さ75m、当時日本一高い巨大なタワーで、パリのエッフェル塔をモデルにした高層建造物です。

「ダイヤモンドは高い 高いは通天閣 通天閣はこわい こわいはゆうれん(幽霊)…」
と大阪の子どもたちまで歌ったなにわの超名物でした。
ライオン歯みがきの電飾広告が夜空に輝き、展望台まで、エレベーター(貨物用はあったが、人間の乗るものはここが日本最初)で行けるとあって繁盛しますが、昭和に入って戦争が泥沼化すると無用の長物、経営が苦しく身売り話がでても買い手がありませんでした。 (続く)

吉本 せい(八)

昭和に入って戦争が泥沼化し超不景気、大阪名物の通天閣は経営苦しく、倒産寸前でした。せいはよその業者に持っていかれたらなにわっ子の恥やと、大金を投じ購入するが、昭和18年(1943)、映画館大橋座からの出火で類焼、通天閣の大半は焼け落ちます。

残骸の鉄塔類は翌年2月、軍の金属回収令のため壊され、3百トンの鉄屑になり、当然武器に化け戦場に送られるはずでしたが、同20年積みあげられていた砲兵工廠(こうしょう=兵器製造工場。現・大阪ビジネスパークあたり)の広場で空爆にあい、すべて熔解されてしまいます。

25万円もの丸損でしたがせいは、
「ああよかった。人を殺すタマにならなんで、ほんまによかった」
と胸をはって言ったと伝えます。

大蓮寺(天王寺区下寺)にある「吉本芸人塚」

彼女は紺綬褒章や府知事表彰などの栄誉を受けていますが、その理由は本職の芸能活動ではなく「公共慈善ノ志 マコトニ奇特ナリ」でした。
この昭和20年は日本の大都市の大半が大空襲を受け、大阪市も徹底的に破壊されます。せいの経営したコヤのほとんども全滅。やっと同年8月終戦になり喜んだのも束の間、翌21年学徒動員から戻ってきた秘蔵っ子の次男吉本穎右(えいすけ)が倒れたのです。
せいは夫の泰三との間に、2男3女がいます。これほどの大活躍をしながら、5人の子供を産み育てたとは、昔の女性は偉いですね。ただ長男の泰之助は夭折したため、せいはとりわけ穎右をかわいがっていました。彼は府立北野中学校から早稲田大学仏文科に進学した秀才です。しかし在学時代からOSK(大阪松竹歌劇団)のスター三笠静子と恋愛し、せいに猛反対されます。物分かりのいい母親せいなのに、これだけは強情でした。

翌22年5月、穎右は24歳で死亡します。静子は懐妊していましたが、葬儀に出ることも拒まれます。そのかわりせいは、棺にそっと静子の写真を入れました。この静子がのちにブギの女王と呼ばれて一世を風靡(ふうび)した笠置シヅ子、赤ちゃんが長女エイ子です。
以後せいは、吉本のすべてを実弟の林正之助に譲り、二度と表舞台には出ず、甲子園の私宅にひきこもりました。昭和25年(1950)3月、62歳没。四天王寺での社葬で弔辞を読んだ花菱アチャコは途中で号泣、とぎれてしまいます。大蓮寺(天王寺区下寺1丁目)に、「吉本芸人塚」が設けられています。(終わり)