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2014年2月11日今。私にできること。

2011年(平成23)3月11日、マグニチュード9.0という未曽有の激震に見舞われた東日本大震災…。

被災された方々とそして生活を共にしていた動物たちのことを思うと胸が塞がれます。

●精神的に不安な経験をしたわんちゃんたちには…
元気に振る舞っているわんちゃんもいれば、怖い経験をし、怯えている子たちがいるかもしれません。
わんちゃんたちは飼い主さんが大好き。どんな境遇でも、どんな環境で飼われていても、飼い主さんが大好きなのです。だから抱きしめてあげてください。彼らは、言葉では言えませんが飼い主さんをいつも守ろうとしています。飼い主さんが悲しんでいるときは、どうしてなの?と慰めてくれます。けれど、けなげなその子たちを癒す力を持っているのは飼い主さんだけです。どうか大丈夫だよと言ってあげてください。そして安心させてあげてください。

●わんちゃんを亡くされた飼い主さん…
多分、その子たちにはもう飼い主さんの側にいられないことは解っていると思います。けれど彼らはいつも飼い主さんの側にいるつもりです。そしてきっとずっと『ママ大好き』『パパ大好き』と言い続けています。
身体は無くなってしまっても、飼い主さんがその声を聞き続けている間は、その子たちは飼い主さんの心の中に生き続けます。そしてずっとずっと側にいることには間違いがありません。

宇宙ができて123億年。地球の年齢は45億年。犬がうまれて3万年。人間と犬が共にくらして1万年です。
人間の寿命は80年。犬の寿命は15年。宇宙を滔々と流れる時間の中で、この短い時間に奇跡のように巡り会った飼い主さんと、愛されているわんちゃんたち。巡りあった事実に感謝し、どうかその愛情が世界中に広がるよう、みんなで祈りませんか?

2014年2月10日喪失感

かけがえのない大切な存在を失った時、人は喪失感を覚える。
失った存在と共に、現在も未来も紡ぐことができなくなった中で、その存在との過去が今に蘇る。
その時に、人は痛みや、言葉では表現できない複雑に絡まった感情を伴う。
今、東日本大震災によって、何十万人もの人々がある日突然にすべてを失ったことへの大きな喪失感の中で生きている。心からお見舞いを申し上げると共に、復興への微力ではあるけれど、ささやかな力となるような自分の生き方を見つめ直してみたい。

昨年の晩秋、夫が逝った。進行性の癌によってある日突然、余命宣告を受け渡された。
人生五十年にも及ばぬ四十七歳の本人は勿論のこと、周りもうろたえた。
「サヨナラをする時間がもらえたんだよ。」

友人からのそんな言葉を自分自身に言い聞かせながらの生き方が始まった。
人はこの世に生を受けた瞬間から、いつかは必ず死を迎えるものだと頭では分かっていた。
出産予定日ではなく〝逝去予定日〟となっては頭も心も大混乱であった。

ところが、夫はそんな現実の中で〝我が家での最期〟を強く懇願した。
漠然とその思いは理解できても〝家で逝く〟ことの深さや濃さは、その時に知る由もなかった。

そんな願いのお蔭かもしれない。宣告からの一年十か月。
〝生き方〟だけではなく、〝逝き方〟をも模索する時間を与えられたような気がする。
夫のいないこの春、日々の暮らしの中で時折、小さな喪失感に出会う自分がいる。

夫の愛車と同じ車が信号待ちをしている。そっと運転席を覗き込み、恐る恐る運転手の顔を確認している。
そこに居ないことは百も承知の上で、夫の影を今だ追い求めている自分にハタと気づかされる。
存在は無いけれど、亡き人の癖や習慣は、暮らしの中で静かに息づいていることにも出遭う。

昨年の暮れに断捨離の如く夫の遺品を整理して、自分を軸に生きていこうと前を向き始めた矢先の春。
ひょっこりと、どうってことのない過去の一コマが頭をもたげてくる。
やるせなく、切なくて、心が痛む。この世は無常であるとは知ってはいるはずなのに・・・。
夫とは、現在や未来を語り継ぐことができなくなったが故に生じる喪失感なのかもしれない。

かけがえのない存在を亡くして初めて迎えた春。
生涯の中で、そんなに何度も味わうことのない喪失感であるのならば、
その感情をもあるがままに自分の中で受け入れてみたい。
夫と向き合った一年十か月の短くとも重厚な『生き方と逝き方』をこの春から振り返ってみたい自分がいる。(続く)

この海で何回いや何十回
戯れたことだろう

余命宣告って…。(その1)

「〝締め切り〟や〝期限〟があるからこそ、人はそれをバネに前に進んでいる。 〝死〟は人生最大の締め切りである。」
佛教大学文学部教授であり俳人でもある坪内稔典は、6月3日の産経新聞、文化面でこんなことを述べている。同感の念を抱いたのと同時に〝余命宣告〟を受けたあの日のことが鮮明に浮かび上がってきた。何ら〝大きな締め切り日〟を意識することなく過ごしてきた日常のすべてが一変した。
「〝今〟経験していることは、後にも先にもできないんだ。」日常生活への心意気が高まったのと共に、人生最大の締め切り日に対する不安や恐怖感に苛(さいな)むようにもなった。
「余命宣告って…。」 この時から始まった漠然としたこの問いに思いを交錯させてきた自分を振り返ってみたい。

お日さまも応援にかけつけた手術日の朝

「海野さん、手術が終わりました。主治医から説明がありますので、あちらの部屋にどうぞ。」
病室で待機していた私に看護師さんが呼びに来た。
「おかしい…。」 とっさに大きな胸騒ぎを覚えた。午前9時、自分の足で元気に手を振りながら手術室の向うに消えて行く夫を見送ってから2時間半しか経っていない。確か手術終了は午後3時と聞いていた。混乱する頭と重い足取りで病室を出ると、丁度今しがた駆けつけた父が立っていた。
「千波、ご飯でも食べてこいや。わしが交替で待っとくから。」
「父さん、もう呼ばれてん。」そんな短い言葉で応えるのが精一杯の自分がいた。

訳も分からぬままの父と医師達の前に並んだ。夫の癌は他の臓器にも転移して広がっていくこと。転移している臓器を摘出することは大きなリスクがあること。etc、主治医は言葉を選びながら真摯な態度で、丁寧に図式で説明をくださった。少しの間があった。それが次に何を言わんとしているのかが伝わって来た〝余命宣告〟であった。今まで味わったこともない心や身体の揺れを感じながら、何か白いもやの中にいるような感覚を覚えた。

説明が終わり、部屋を後にしてから泣いた…。泣くことで言葉にならない複雑な感情を表出していたのかもしれない。沈痛な面持ちの父が傍にいたからこそ泣けたのだとも思う。偶然ではあるけれど、絶妙なタイミングでの父の存在は、こうした事態にそっと手を差しのべてくださった神さまの粋な計らいと感じる自分がいた。

“余命宣告”後の夫を そばで優しく見守っていた花達や描画

「先生、一瞬一秒でも長く生きさせてください。」
術後回復室で夫は医師にそんな言葉を投げかけていた。
「先生、お願い、嘘でもいいから、よっしゃよっしゃ!と言ってやって!」
ふたりのやり取りの中でそう願った。

うつろな状態の中で、夫は私に大切な方々への連絡を懇願した〝余命宣告〟を受けた夫の状況をどんな言葉で伝えられるのか。そんな思いの一方で、自分自身も一番身近な人のダイヤルを押していた。きっと自分達だけでは到底抱きかかえることの出来ない衝撃に耐えかねていたのかもしれない。

人間の支えのありがたさを強く感じた。絡まる心のもつれを、泣いたり、言葉表現することで、自分ではコントロールできない感情を解きほぐしている。そこには必ずそんな自分をあるがまま丸ごと受け止めてくれる人が存在する温かさに包まれた。

〝余命宣告〟。それは私達にとって〝生き方と逝き方〟という大きなテーマが与えられた記念日であり、人生最大の締め切りまでの模索開始日でもあった。その日から、なぜか自分の心を文字に託して綴り始めた。小さなメモ書きノートの表紙に『生』と記した。初日の最終行、こんな文字で締め括られていた。… 試 練。(続く)

余命宣告って…。(その2)

「余命○ヶ月と宣告されても、 それは統計上の平均値だ。 僕たちは現実を生きている。余命○ヶ月が平均値であるならば、その数値を僕たちが塗り替えてやろうじゃないか…。」僕は、慢性末期がん』(文春新書)より。
ふらりと立ち寄ったある書店で出会った一冊。著者の尾関良二さんは、夫と同様、 四十七歳の時に、 末期のスキルス胃癌で余命半年と告知を受けた。 しかし、宣告から三年過ぎた現在(平成二十一年)も健在であるという〝お涙頂戴本〟〝闘病記〟と一味違う内容は、癌と向き合うありのままの姿や生き方が散りばめられて、吸い込まれるように読み干した。
尾関さんの気合いに随分と勇気づけられて、大きな希望の光さえも見い出した。 と同時に「生あるものは必ず死ぬ。」 若輩な私たちが深めていくであろう”死生観”にも大きな一石を投じてくれた。

「尾関さん、あなたの生き様は私たちにとって“生”の指南書でしたよ。」

「千波ちゃん、 おっちゃんも告知を受けていたら、もっとやりたかったことや言いたかったことを表現していたかもしれんわ…。」
二十年以上も前に癌であった叔父を看取った叔母の言葉が心に止まった。
当時は余命宣告という告知はないに等しい時代であった。叔母は家族と共にひたすら隠し続けたことや、ひょっとしたら本人は薄々気づいているかもしれない…そんな狭間での気遣いが大変であったと述懐していた。

情報化社会に生きる私たちは、情報開示に伴う便利さを暮らしの中に享受した。しかし一方では、要不要にかかわらず、激流のような情報にさらされ惑わされている一面もある。
こうした状況下では、医師や看護師、家族が患者に病名を隠すことは至難の業。患者自身が飲み薬や点滴剤を調べただけで、自身の病を見通すことが可能だからである。

余命宣告を受けた夫の傍で感じたこと、教えられたこと。それは、告知は本人に大きな衝撃を与えるけれど、尾関さんと同様に、病と真正面から向き合う姿勢をも持てること。しかし、生身の人間である以上、いつも前向きに病と共存できるなんてとんでもない。周りに支えられながらも痛みや苦しさの現実に心が弱ってしまう。心が萎えると、知り得た情報の渦に巻き込まれるかの如く、最悪の状況を想定してしまう。振り子のように、大きく奮い立たされた分だけ落胆という名の戻りも大きい。情報化社会の現代、告知はそんな魔力も持ち合わせているような気がする。

夫はどんな想いでこの一冊と向き合っていたのだろう…。

余命宣告の存在に対する答えは、まだ見つかっていない。
〝人生最大の締め切り日〟 まで、日を重ねる程に、深まる苦悶の身じろぎの中で生きてきた人しか語ることができないとも感じる。そう、自分自身が命の期限を告げられて初めて見い出せる答えなのかもしれない。

…あの頃、切に願っていた。尾関さんと塗り替えて欲しい。
〝余命〟と言う名の統計上の平均値を…。(続く)

抗がん剤治療という選択 (その1)

「今晩のおかずは魚にしようか、それともお肉?」そんな日常のささやかな選択から、進学や就職、結婚といった人生の岐路に立たされる大きな選択もある。そう考えると、人生は選択の連続かもしれない。
夫が抗がん剤治療を選択したことと前者との違いはひとつ。やり直しの時間や歳月を持てないことである。選択は正しかった、間違っていたという次元で語ることのできない、まさしく命を懸けた人生最後の選択であった。
究極の自己選択の中での夫の生き方を、2回に渡りなぞってみたい。

霊芝、核酸、フコイダン。ビワの葉、あわび、しじみのエキス。全国各地の天然温泉水にミネラル水。〝がん〟と名のつく書籍の数々。日本津々浦々の名医や病院紹介。最新の治療法。…etc.ありがたいことに病床の夫の元には、知人や友人からの心づかい、知恵の結集ともいうべきモノや情報がたくさん届けられた。
「がんに打ち勝って欲しい。」
「がんと共存しながらも一日でも長く生きて欲しい。」

陣中見舞い?! ありがたや マンパワーの支え。

そんな皆さんの気持ちに支えられて、心から感謝の念を抱いた。と同時に、そこから何を取捨選択してがんと向き合っていくのかという課題が与えられたことも確かであった。
〝治療をしない。〟
一見、消極的に聞こえるが、これぞどんな決断よりも勇気のいる選択肢のひとつとして存在していた。

「先生ご自身や家族の方が、がんになったらどうしますか。」
夫はぽつりと主治医にこんな質問を投げかけた。がんに効くといわれている多種多様なモノへの信憑性を知り得たかったのだろう。
「海野さん、確かな実績や実証があれば、僕も積極的に取り入れますよ。」
真っ向から否定もしない。しかし、日進月歩の勢いで進歩する医学の中に身を置く医師の言葉は大きく重たかった。賭けでもあった。この一言で、夫は抗がん剤治療を選択した。
抗がん剤治療がどういうものであるのか。それに対するリスクはどんなものなのか。主治医や化学療法認定看護師からこと細やかな説明があった。机上の理論?!ではないけれど、人の身体は千差万別。実際に自分の身体にどんな変化をもたらすのかやってみないとわからない。そんな未知への不安も大きかったにちがいない。

整然と整列。抗がん剤 と その仲間?!たち。

「生きてください、海野さん。半月、半年のスピードでがん治療は目覚ましく発展していますから。」
命を懸けた自己選択をそっと後押ししてくれた医師の言葉。けっして推測ではない、現在進行形の表現がありがたく心に染みた。

ある日、ふとテーブルの上に、百円ショップで買ってきたであろう薬分けボックスを見つけた。そっと蓋を開けると、中には整然と抗がん剤が並んでいた。

「…生き抜いてやる。」

夫の静かなる闘志が聞こえてきた。(続く)

抗がん剤治療という選択 (その2)

背広をハンガーに丁寧にかけて、きりりとした姿勢で椅子に腰かける人。ぬいぐるみにカツラを預けて静かに瞳を閉じる人。カーテンの向こうから深い呼吸音が聞こえてくる…。そんな患者さん達を真摯な姿で対応する看護師さん達の眼差し。
化学療法室はどこか神聖である。淡くて温かみのあるアプリコットカラーのカーテンにくぎられた空間。お日様の光もたっぷりと注ぎ込まれている部屋でもある。ここに足踏み入れる人々の表情はみんな真剣である。抗がん剤を打ちながら、自らの命と真っ向から対話する人たちの気迫と、それをあるがまま見守る医療現場のスタッフが生み出す空気なのかもしれない。

海で祝った抗がん剤治療
第2クール終了。

もうこれ以上、抗がん剤治療を施せないという状態までに一年半の月日が流れた。治療は同時に抗がん剤による副作用との向き合い期間であったといっても過言ではない。

体重計に乗って、毎日小さな数値の変化に一喜一憂するかのごとく、抗がん剤治療クールごとの血液検査結果表に穴が開くほど見入る夫の姿があった。
抗がん剤は劇的に腫瘍マーカーの値を下げた。成績表をもらって喜ぶ子どものように、屈託のない笑顔でその数値とにらめっこする夫。しかし、喜びは束の間であった。 第3クールを迎える頃、そんな夫の姿をあざけ笑うかのように、容赦なく静かに副作用が忍びより始めていた。

副作用で髪がすべて抜け落ちる前に自ら剃髪!

本人も他者からも一目でわかる脱毛という切ない視覚的副作用。吐き気や便秘、手足のしびれや全身倦怠感といった本人しかわからない、やるせない副作用。他の臓器にも機能障害を与えてしまう威力的な副作用。
中でも一番苦しかったのは、そんな副作用が心にもたらす負のスパイラルだったかもしれない。精神的に不安や死に対する恐怖感でさいなまされると、そこからの脱出はなかなか容易ではなかった。

命と対話する化学療法室

両天秤にかけられたような、がん指数減少への喜びと、副作用による苦しみの中であえぐ一年半であった。もがきながらも抗がん剤治療はいつしか生きるすべとなり、望みの綱となっていたことを夫の言葉の端々から感じられるようになった。

「海野さんの生活が、抗がん剤でこんなに苦しめられるのであれば、無理に打たないで一週あけましょう。」
「先生、僕、生きたいんです。打ちます。」
主治医とのやり取りの狭間で、夫の生きる底力を感じた瞬間であった。命を懸けた人生最後の、究極の自己選択に対する気迫をも感じた。

信じていたこと。 願っていたこと。

この気迫こそが、夫の生を導くものであることを…。(続く)

〝食べる〟ということ 「とにかく食べなさい期」

余命宣告を受けてからの一年十か月。〝食べる〟ということが生きることと、どんなに密接につながっているのかを、夫は身をもって教えてくれた。
「とにかく食べなさい期」「食べたくともたべられない期」「食べることを乗り越えてしまった期」
こうした三つの時期の夫の生き方から気づかされた〝食べる〟ということを振り返ってみたい。

がっつり“病院食”

「先生、僕、胃が悪いのにこんなに油っぽいもんや、こってりしたもんを食べてもいいんですか?」
入院中のこと。目の前に並んだ料理の数々を見て、ポツリと夫が主治医にもらした言葉であった。から揚げ、煮込みハンバーグ、ビーフシチューetc.夫の大好物ばかりである。しかしここは病院。胃は残されたといえども、手術後3日目。食べたい気持ちと、食べても大丈夫なのかという自然な疑問の狭間で揺れていた。

いつもと変わらぬ“食”を
共にできる喜び

「海野さん、とにかく食べてください。」
あっけない、予想外の返答が主治医の口から発せられた。
「今のうちにしっかり食べて体力をつけてください。」
思わず、夫と顔を見合わせた。なぜかストーンと心に落ちてこないもの、ちょっと絡まる心の機微を互いにひた隠した。複雑だったけれども、ただ単純に〝食べられる〟という現実を夫と喜んだ自分もいた。
そんな一方で、主治医の表情の奥に一瞬厳しい眼差しも感じた。その厳しさが何を意味しているのかは、その時は知る由もない私たちがいた。

「とにかく食べなさい。」と言われても、今までと変わらぬ、いやいや変えられぬ〝食〟 が存在した。生まれて今まで暮らしてきた中で、家族と培ってきた食習慣。結婚して互いに創ってきた食生活。脈々と流れてきた長年に渡る 〝食〟を淡々と続ける私たちがいた。
〝食べられる期限〟を言い渡された分、食に対して丁寧に向き合うようにはなった。
〝贅沢〟でもなく〝自然食回帰〟でもなかった〝食〟を共に出来ることへの喜びを料理と一緒に噛みしめていたような気がする。

食べるぞー退院後に新調した-がっつりスープ椀

飽食の時代と言われて幾久しい。そんな中、いつ時なん時にでも、食べたい物を食べられる環境がある。一方では〝個食〟〝孤食〟という言葉に込められた現実もある。
そうした中で提示された
「とにかく食べなさい。」の言葉によって、改めて立ち止まることができた〝食べる〟 ということ。

「何を食べるのか」でもない。
「どう食べるのか」でもない。
…食べていたのは、食卓を囲む互いの空気だった…。(続く)

〝食べる〟ということ 「食べたくても食べられなくなった期」より

「余命が限られた患者さんにとって、病気と共存していく上で大切なことは、呼吸ができること。睡眠。安定した精神と気力。そして口から食べること。」内藤いづみ著『あなたが、いてくれる。』より)
在宅ホスピス医であり、山梨県でふじ内科クリニックの院長を務める内藤いづみさんの言葉がずっしりと身に染み渡る時期を迎えた。どんなに点滴で栄養を身体に送り込んでも〝口から食べる〟ことで得られる心への充足感が、何にも勝る大きな 〝生きる素〟 であることに気づかされた。

多種多様の味が勢ぞろい

口から食べたい気持ちを
支えてくれた“お菓子たち”

「とにかく食べなさい。」
そんな言葉を医師から告げられて、一年も経たぬ間に訪れた 〝食べる〟 こととの決別期。癌が十二指腸に忍び寄り、食べたものが胃から小腸に流れることなく、再び口から戻されていった。嘔吐の苦しみもさることながら、水一滴すら口に入れられない状況は、気力も体重も一気に激減させた。

夏の味方!“かき氷”

その年のクリスマスに、鎖骨下静脈点滴ポートを胸に埋めこむ手術を受けた。これによって、食事に代わる高濃度の24時間持続点滴を可能にした。正月明けには胃ろう(口から食物摂取不可の状態に、胃にチューブを着けて栄養を送る)の逆バージョンで、胃に溜まる体液を取り付けの袋に排出させた。胸も腹もチューブで支配されてしまった身体、肺炎も併発して、しばらくは身体を横たえ何も語れず、ひたすら眠る日々が続いた。

この山を越えると、待ち受けていたのは 〝食との葛藤〟 の日々であった。元気を取り戻した証として食欲が戻った。さりとて口から食べられるものは、あめやチョコといった類の溶けるものだけ。テレビをつけると食の番組が毎日のように放送されている。おまけに一日三回、夫の病室前をカタカタと素通りする配膳カートの音。何とも言えない面持ちでその音を聞き入る私達がいた。

旬の果物はミキサーで

食べられない現実をすんなりと受け容れることの難しさを夫の姿から知らされた。なんと病室の冷蔵庫には山ほどのチョコレート。ベッド横のかごには多種多様のあめやガム。こうしたものに飽きがくると、お湯を注ぐだけで飲めるインスタントのスープ類をこっそりと兄にメールで注文。退院後はさらに胃からチューブを流れる食材探しに奔走する姿があった。チューブに食材がつまってしまう。つまった物も自分で上手に取り除く技術?!も身につけてしまった。
自分の欲するものを食べられない夫の状況や気持ちを汲みつつも、正直、傍らで 〝食への暴走〟 をハラハラしながら、決して快く理解して見守っている自分ではなかった。
「海野さん、すごいやん!ようここまで開拓したね!」
看護師でもある友人が、夫のおやつの山盛り状態を見て笑顔でひと言。共感の言葉に満面の笑みで喜ぶ夫。ふたりのやりとりから複雑に絡む心の糸が少しほぐれるのを感じた。

〝口から食べられる〟 こんな当たり前の行為の中に潜む 〝偉大な幸せ〟 の存在を目の当たりにした。(続く)

〝食べる〟ということ 「食べることを乗り越えてしまった期」より

「点滴より綺麗な花が飾られた食堂で美味しいスープをひと口いただく。その喜びのほうが今の私達には大事なの。」内藤いづみ著『あなたが、いてくれる。』より)
在宅ホスピス医であり著者でもある内藤さんが、イギリスのホスピスを訪問した際にハタと立ち止まらされた、終末期患者さんからの言葉である。この患者さんの思いが食べられなくなった夫の姿とだぶる。〝食べる〟 ということは生きること…。食べたい意欲が生きたいという意志でもあることを知らされる。
…最期の最後まで、口にさせたい。

鮮やかな“色”を愛でた友人宅の庭からやって来た“グミ”の実

「スペアリブのマーマレード煮。」「お好み焼きのソースだけでいい…。」
こんなメニュー並べから、
「あのな、あのな、あの店のホルモン焼き、口でほお張るだけでいい…。」
「ほら、山下清(画伯)が食べていた、あのどでかいおにぎりをかぶりついてみたいなー。」
「最後に串カツは食べたけど、天ぷらは食べてないわー。」

さまざまな食べ物語録。これらはすべて、点滴チューブに睡眠薬を落とし込み、ウツラウツラと眠りに入る直前に夫の口からこぼれていた言葉の数々であった。ろれつの回りも怪しくなりながら、一生懸命に表現している。最初は正気!?の会話だと思い込み、相槌を打ちながら返答している自分がいた。しばらくしてから気がついた。これらはすべて夢と現実の狭間の心の表現であることを。心の思いを吐き出すと、すーっと眠りに入っていく…。〝食べること〟ができなくなった時期の夫の姿であった。

もう一度 口にしたい…
この店の この ホルモン焼き

こうした様子から教えられたのは、眠る前には人間の一番ピュアな!?欲求が溢れ出してくるのかもしれないということであった。
「食べる・眠る・排泄する」
当たり前のことだけれど、自分の思い通りにこれらができる。生きる意欲はこんなシンプルな3つの要素を基盤に成り立っていることに気づかされた。

並んだ食材と対話するだけで
  いい…スーパー巡り

テレビやパソコンをつけて、食の番組をじっと見ている。
「大丈夫?辛くない…?」
の問いにもにっこりうなずく。控えていた台所からの食材を切る音、煮炊きする匂いも感じていたいと言う。点滴を背負ってのスーパー巡りも欠かせない。見舞客には十八番の焼きそばを作って振舞う。etc.

食べられなくなっても 〝食べること〟 と決別しなくていい。胃に収められなくても、目で見る、匂いを嗅ぐ、音を聴く、触れてみる。人間には授けられたありがたい五感がある。生を全うする間、この五感で食とかかわり合うこと。これぞ、食べることを乗り越えてしまった夫の生き方であったのかもしれない。

〝末期の水〟 は、夏の食を支えてくれた大好きなかき氷の蜜、ブルーハワイ。そっと口に沁み込ませての、囲む人々との乾杯であった。(続く)

点滴ライフ?! (1)看護師さんにはなれません

「点滴」は病院で受けるもの「点滴」はベッドで受けるもの。
誰しもが持つであろう 〝点滴へのイメージ〟 である。ところがなんと今の時代、家に居て「点滴」と共に暮らせるすべがある。改めて現代の医療技術進歩を、夫の 〝点滴ライフ?!〟 から伺い知ることができたような気がする。

「家での最期」を願った夫にとっては〝命綱〟 とも言うべき点滴との共生を数回に渡って綴ってみたい。

慣れぬ 手つきでの点滴準備

〝食べること〟 との決別によって、夫の身体を支えるのになくてはならない存在となったのが「点滴」であった。
年の暮れに鎖骨下静脈点滴ポートを胸に埋め込み、食事に代る高濃度の24時間持続点滴を体力温存策として開始した。
十二指腸の狭窄によって、胃にもチューブと袋が取り付けられ、まさしくチューブに支配される身体となった。
ところが、このような状態の身体で自宅療養が可能であるという。退院と共に訪問看護サポートを受けながら、我が家での点滴ライフの幕が切って落とされた。

年末年始の病院の診療休暇を直前に控え、訪問看護師さんから懇切丁寧な点滴の準備や点滴針(翼状針)を刺す指導を受けた。
いざ、自分ひとりでする段階になると恐ろしい境地に陥った。まさか人生の中で、看護師さんのようなことをするなんて思いもよらず、度肝を抜かれる心境であった。

台所に勢揃いの点滴セット

訪問看護師さんからの
点滴指導in the kitchen

悪戦苦闘の日々開始のリングが打ち鳴らされた。まず、注射針やアンプルを扱うのに自分の指を切ってしまう。
自分へのハプニングならともかく、3度目の正直も通り越してしまう程の夫の胸への針刺し失敗。回数を重ねるごとに的を突けない手技の未熟さと医療行為を軽んじてはいけないという緊張感が高まるばかり。自己嫌悪に陥りながらの精神的な疲労困憊。気がつけば、点滴針を全部使い果たしてしまい、元旦早々、針をもらいに病院に駆けつける始末。
そんなこんなで私の医療行為にナースストップがかかり、看護師さんの監視の下で針を刺す、あるいは看護師さんがする経緯に至った。正直、ほっと胸を撫でおろす自分がいた。針刺しからの解放感をありがたく享受した。
2週間に一度、訪問薬剤師さんによって届けられる大量のダンボールに入った点滴輸液やシリンジ、チューブの数々に囲まれての点滴ライフ。ネオパレン、ラクテック、ドグマチールにサイレース。今まで聞いたこともない薬品の名前ともすっかりお馴染みさん?!状態。点滴準備場と化した我が家の台所。いつもにない清潔さと小奇麗さを保てたのは「点滴」のお陰かも知れない。

今振り返ると、余命幾ばくともしれぬ身体をまな板の上の魚の如く、こんな私に預けてくれた夫の勇気こそが、点滴針を刺す私の恐怖心よりも遥かに大きかったであろう…。と述懐する自分がいる。(続く)

点滴ライフ?! (2) 「ケア」という意味

「ケアは己の感情との戦いです。ケアでわき上がるマイナスの感情に、あるがまま向き合うことが要求されます。(中略)こころの中に苦しみや悲しみを抱き続けると、その感情はもっと大きくなり、ケアの対象者に直接向ってしまうのです。」(『希望のケア学 共に生きる意味』 渡辺俊之著 明石書店より)
夫と始まった二人三脚の点滴ライフから、初めて「ケア」という本当の意味、深さに気づかされた。 「ケアは決して一方通行ではない。」ということも…。

助けられた一冊です

〝点滴に始まり、点滴に終わる。〟 退院後の私たちを待っていたのは 〝点滴の支配〟 であった。
「奥さん、気負わずにね。」
「ボチボチとね。」
退院時にたくさんの看護師さんや主治医からかけられた言葉の数々。これらの真意を本当に実感したのは、退院後からひと月という歳月がたつ頃であった。
翼状針を夫の身体に刺す緊張感からは解放されたものの、依然として、点滴輸液と薬の混合や点滴の時間管理が課せられていた。

24時間点滴を調整する
ポンプです

夫の就寝時間を見計らって睡眠剤を落とし始めると、コクリと寝入る姿から、自分の落ち度ひとつでえらいことになってしまう…。
そんな行為と薬に対してさらなる責任感に苛まされ始めた。点滴が終わると夜中に差し替える。夜中の差し替えを避けたければ、夫の就寝時間を早めなければならない etc.
ちょっとした寝不足が溜まっていたのかもしれない自分。四六時中、身体にまとわりつく点滴や胃ろうチューブの数々に自由を奪われていた夫。そんな互いの状況に負の情動が積もり、感情を抑えきれなくなって、ついに爆発!

「しんどい…。」と私。
「もう、延命はせえへん!」と夫。

どこに行くのも一緒点滴たち…

どんな時も決して口にしてはいけない言葉を発してしまった自分への罪悪感に襲われながら、心の中に押し留めていた気持ちが一気に噴出するのを抑えきれなかった。

〝しんどさ〟 を決して我慢していた訳でもなく、周りから「大変でしょう、がんばってね。」の言葉にも負担を感じている訳でもなかった。今、振り返ると、どこかで互いに気を使い合いながら、無理をしていたのかもしれない。
こんな時期に出会った渡辺俊之さんの『希望のケア学』。前述のリードで紹介した4行は、まさしく自分の心の的をついていた。自己感情とあるがまま向き合えず、ケアの対象者である夫に感情の鉾先を向けてぶつけてしまっていた。

この著作と出会い、自分が夫のケアをしているなんて思う心が、傲慢であるとも気づかされた。
幾ばくとも知れない人生の締め切り日を胸に、健気に生きる夫。…ケアをされていたのは私自身であった。

「爆発の後は、今までとは違った方向で、前に歩んでいる私たちがいる…。」
…こんなふうに綴っていたその頃の自分がいた。(続く)

点滴ライフ?! (3) “晴れ”と“褻”

私たちの暮らしには「晴れ(非日常)と褻(日常)」がある。稲作文化を培ってきた日本人の生活様式の名残りであるという。日々コツコツと米作りに勤しむ日常が〝褻〟そんな大変な日常があるからこそ、秋の実りには皆で収穫の喜びを分かち合う祭りをする。これが非日常の 〝晴れ〟 の由来である。
点滴やチューブで支配された身体であっても、この 〝晴れ〟 を享受した歳月があった。まさしく自宅療養である 〝褻〟 からの脱出であり、「幸せや…。」と感じる貴重なひと時であった。

“晴れの実現”を
かなえてくれたSF3820便

「点滴をした身体で飛行機に乗れるでしょうか?」
「必ず、医師の許可書をご持参ください。」
航空会社とこんなやり取りをしたのが土曜日の朝。そうして翌朝9時にはなんと、早朝便で羽田空港に降り立っている私たちがいた。
航空会社の客室乗務員として働き出した姪の乗務姿を見ること。東京で就職して活躍している無二の親友に会うこと。このふたつを目的に、この便に乗らなければ意味がないとばかりに急いだ。抗癌剤の副作用や突然の発熱で、体調加減はその日しか判らない。
主治医から許可書をもらう間もなく、訪問看護師さんからの明確な許可を得られないまま、これぞ強行突破の弾丸ツアーであった。関空で点滴ポンプと輸液を外し、胸には点滴針を残したまま飛行機に飛び乗った。

目に焼きつけた姪の乗務員姿

食べ物を摂取できない身体にとって点滴は命綱である。その点滴を外しての行動は危険であり限界があるであろう。素人判断ながらそれを百も承知した上での 〝羽田5時間滞在ツアー〟。空港の展望デッキで友人と落ち合い、至福の再会を果たした。姪の乗務姿も瞳の奥に熱く焦がして、心を温めながら関空へと舞戻って来た。

点滴、排液袋をしょい込んでのキャッチボール…
大切な“晴れ”のひと時

無茶だけれど生涯最後の空の旅を無事に実現!
点滴のない身体に負担をかけ、与えられた天命さえも削ったかもしれない。一方では、心が躍りっぱなしの 〝晴れ〟 によって生きようとする力は大きく息吹いた。…そう信じている。
命の締め切り日までの「晴れと褻」は、夫にしか分からない、計り知れない苦しみの 〝褻〟 であり、かけがえのない 〝晴れ〟 はもう二度と味わうことができない儚い思い出と化す。いや、今の日常や非日常さえも、病状の進行によって奪われてしまう現実が待っている。

無謀であった。
勢い任せでもあった。
〝晴れ〟 を授かった歳月は、
〝今〟 を精一杯生きていた。 (続く)

海ぼうず?! (その1) 時間・空間・仲間

心地良い関わりの中には、3つの 〝間〟 が存在するという。 時間、空間、仲間である。この3つの絶妙なバランスによって、関わりを彩り、互いのエネルギーを高め合うともいわれる。
18歳の時に波乗りに出会って、すっかり 〝海ぼうず?!〟 の如く、海の虜になってしまった夫。〝命の締め切り日〟 を言い渡された手術後からも、天に導かれる3ヵ月前まで海と向き合っていた。そこには、どんな 〝間〟 に包まれていたのか。そっとひも解いてみたい…。

12.久しぶりの海との対話。どんな想いを
馳せているのだろうか。

海に会いに行く?!時は、寝坊スタイルもどこへやら…。いえいえ正確には遠足前の子どものように、前夜からワクワクして眠られず、そのまま海に直行。
大海原では元気の素でも浴びてきたかのように、意気揚々と帰ってくる。海での出会いやハプニングを土産に、話はきなかった。

12すっかり顔なじみになった朝市のおじいちゃん、おばあちゃんたちと。

そんな海の存在は、まだ波乗りはできない身体である夫を、セーターやジャケットに包(くる)め冬の海辺に立たせていた。
道中には、何度も足を運んだ 〝農家の朝市〟 への寄り道も欠かせない。いつもなら、おじいちゃんやおばあちゃんとの他愛のない四方山話に花を咲かせ、新鮮な採れたて野菜を買って海へと向かう。ところが、この日は違っていた。
「ずーっと、ここにいるのかな?」
野菜を真ん中に据えて、ゆったりとした時間が流れていた。何度も通った何気ない空間で、すっかり顔なじみになった方々との語らいの中に身を委ねていた。最初で最後となった写真撮影もした。
手術後の夫を最初に迎え入れてくれたのは春の海。抗がん剤の副作用にもがき始めた第3クール終了後であった。
〝夫が再び海に抱かれる…。〟

こんな日が来ることを願ってはいたものの、まさか実現するとは思いも寄らなかった。
夫の兄や海の仲間たちがさりげなく見守る中で、ビーチに着くや否や準備体操もそこそこに、ボードを抱えてあっという間に白波の向こうに消えていってしまった。長い時間を波と戯れて戻ってきた。そこには笑顔を浮かべた少年の様な夫が立っていた。

仲間たちの熱きサポートで実現した手術後、初めての海。

〝生きている〟 という時間〝大好きな海〟 という空間〝共に波に乗る〟 という仲間
ここにも3つの 〝間〟 が存在していることを実感した。

「あんな、プカプカと海で浮いているだけでええねん…。」
夫のこんな言葉にハタと気づかされた。前向きなエネルギーを授かる 〝間〟 も大切である。しかし、人生の締め切り日を言い渡された人間にとってはそれ以上に、こだわらず、とらわれず、すべてを委ね、己を空っぽにできる 〝間〟 も必要なのだということを…。
夫に返す言葉がすぐには見つからず、そっと心で願った。

…限られた命の中で 〝海ぼうず〟 でいられる時間・空間・仲間よ永遠であれ…。(続く)

海ぼうず?! (その2) 世界でたったひとつのウェットスーツ

① 地上に永遠なるものはひとつもない。
② 形あるものは必ず壊れる。
③ 人は生きて、やがて死ぬ。
(『わたしが死について語るなら』山折哲雄著 ポプラ社より)
宗教学者である山折哲雄さんが記していた、仏教の 〝無常〟の三原則がふと蘇ってきた。夫と海との別れの日であった。
言葉では表現できない感情に心を絡められながらも〝無常〟を意識することなく生きている自分にも気付かされた。

「なあ、なあ、ちょっと見て!」
「世界でたったひとつやで!」
帰宅したとたんに夫の矢継ぎ早な言葉が、私を出迎えた。
目の前にぶら下がるウェットスーツ。よく見ると、なんとなんと腹部に15㎝程のファスナーが施されてある。すぐ様に意図がつかめない私を横目に、嬉しそうにたたずむ夫がいた。衣料品売り場の店員さんの如く、長い説明が始まった。

永遠であることを願った
“海ぼうず”のひと時

食べることができなくなった夫の身体は、2本のチューブが 〝生〟 をコントロールしている。1本は点滴による栄養や水分調整。2本目は胃ろうチューブから老廃物や体液の排出である。
波乗りをする時はこの2本を外すが、長時間抜いたままであると、胃の中に溜まった廃液が、行き場をなくし嘔吐を引き起こしてしまう。そのリスクをこのチャックが解決を図る。気分が悪くなればチャックを開けてチューブをつなぎ、廃液を身体の外へ出す仕組みだと言う。
しばらく口をポカーンと開けて、夫の話に聞き入ってしまう自分がいた。やっと我に返ると、ここまでしてでも波乗りをするという熱意に胸が熱くなってきた。

世界でたったひとつのウェットスーツ。
至福の着心地だったにちがいない。

2010年7月、海の日。このウェットスーツに身を包み、ボードを抱える夫がいた。数日前からの発熱。兄が運転する車の後ろで点滴をしながら横たわり、大好きな四国の海へとたどり着いた。
潮風を浴びながら波を見つめる夫。かなりの時間が経過して、おもむろにウェットスーツに着替え始めた。いつもにない真顔の夫の一挙一動を、固唾を呑んで見守る仲間たちの視線があった。
身体を支配するチューブから解き放たれて、世界でたったひとつのウェットスーツを身にまとい波をとらえた。次の瞬間、身体のバランスを大きく崩したかと思うと、前にいた人とぶつかって転倒。波の中で暫くもがいていた。
…後にも先にもないこれが夫と海との惜別の瞬間となった。ダイナミックで荒々しい男性的な四国の波。そんな波からのメッセージの如く言い渡された、厳しい 〝海ぼうず〟 との幕切れであった。
いやいやこの時点では、夫はまだ最後の波乗りであるとは考えもせずに、再びチャック付きのウェットスーツで波と戯れることを考えていたかもしれない…。
海という自然の懐で教えられた 〝無常〟すべてのことはずっと続かぬこと。こんなにも難しい、当たり前の言葉ってあるのだろうか…。
これぞ 〝逝き方〟 の中に我が身を置いて初めて分かる 〝無常〟 の持つ重さなのかもしれない。(続く)

 

命の伴走者 (その1)医療のプロ達

「人間と人間の関係も命を守っていく上では大切である。この人間と人間の関係を支えてくれるのは言葉である。人が言葉を使って他者を癒す。ムントテラピーだ。ムントテラピーはたんなる病気の説明ではない。生きる力を与えるような病気の説明。言葉による治療である。」(『言葉で治療する』鎌田實著 朝日新聞出版より)
医師である鎌田實先生の言葉をそのまま現実化したような、医療者の方々と織りなす日々があった。命の伴走者として、夫の生き方と逝き方に共に駆け抜けた、かけがえのない存在であった。

「友人でも知人でもなく、ましてや親類でもない。第三者である医療のプロ達が、〝夫の今〟 について熱く語り合っている。ありがたい!この空気に心が救われる…。」
「病室に、一日何度となく足を運ぶ医師や看護師。何気ないささやかな会話や言葉によって、死への恐怖や不安から逃れ、今日も生きようとする夫がいる…。」
余命宣告を機に、心を文字に託して綴り始めた手帳からの抜粋である。

自宅のキッチンで点滴準備をする訪問看護師と看護実習生

初めて知った 〝認定看護師〟 という存在。化学療法・癌性疼痛・緩和の各部門からの奥深い看護を授かった。夫の趣味に心を重ねて、海や旅の話に花を咲かせる看護師。食べることができない現実の中でもがき葛藤する夫に、おまじないのグッズ?!をそっと握らせてくれた看護師。
点滴を外して波乗りをする無茶な夫のことを「ちょっと筋金入り?!の患者さんやからね…。」と、手術室の看護師に紹介して下さる主治医がいた。

一年十カ月の中での四度に渡る入院ライフ。薬や点滴は癌との共生に不可欠な治療であった。それ以上に、病室という、社会と寸断されたかのような小さな空間では、医療に携わる人々との関わりや会話こそ、かけがえのない 〝生きる治療〟であったのかもしれない。

〝自宅での最期〟 を切望した夫には、在宅医療を支える人々の存在もあった。
訪問看護師は、夫にとって何よりも楽しみな時間となるような人間関係を紡いで下さった。我が家という自由な空間で、安堵感と共に何でも話せる、素のままの自分で語り合える…。そんな穏やかな空気に抱かれていたからかもしれない。雨や風の日も、妊婦さんになられても足を運んで下さった訪問看護師の存在を語らずして、私達の 〝自宅での最期〟 はなかった。

食との断絶に苦しんでいた時に、そっと握らせてくれた看護師さんからのおまじない?!グッズ

食との断絶に苦しんでいた時に、そっと握らせてくれた看護師さんからのおまじない?!グッズ

訪問薬剤師、研修医、看護実習生、ケアマネージャー、介護用具相談員etc.
様々な分野の人達が家に出入りした。第三者であり、医療のプロ達だからこそ、程良い緊張感を持ち、関わり合う心地良さを享受している夫がいた。

医療のプロ達は、夫の日々深まる死への恐怖感や不安をひたすら傾聴していた。
優しくて温かい。時には厳しさも持ち合せながら夫の今に寄り添っていた。そこにはいつも、語り合う事、笑い合う事を手土産に携えていた。会話ができなくなってからも、ずっと身体をさすりながら、言葉を届けていた姿が今も脳裏に焼き付いている。

言葉の奥に横たわる、命の伴走者達の心を垣間見る瞬間でもあった…。(続く)

命の伴走者 (その2) 家族だからできる事

ご家族や、愛する人、大切な人が「末期がん」の宣告を受けて、心配されていらっしゃる方へ。
「まず、大事な事は、過度に甘やかさない事です。(中略)ただ、患者が疲れてつらそうな時は、横になる事を勧めて、できればスキンシップをしてください。」(『僕は、慢性末期がん』尾関良二著 文春新書より)
夫との闘病生活を共に歩んできた自分にとって、初めて出会ったであろう、心のサポーターとしての一冊からの一文である。読んだ直後、この 〝スキンシップ〟 という言葉にどこかピンとこない違和感を感じる自分がいた。一年十カ月。家での看取り期の最終章を迎える頃、このスキンシップの意味をしみじみと実感した。 …家族にしかできない事。家族だからできる事。夫の逝き方の中での気づきを綴ってみたい。

「なあ、…母ちゃんは?」
「今、帰るところよ…。」
「もう一度、呼んできて。」
今しがたまで、むくんだ足をさすりながら、我が子の傍で寄り添っていた夫の母。まさに玄関を出ようとした瞬間に、再度の対面を強く望んだ夫がいた。戻って来た母は、再び身体をさすりながらタイムスリップしたかの如く、遠い昔、幼き我が子に投げ掛けていたであろう言葉の数々を、49歳の夫に届けていた。

海…。
それは最期まで兄弟共通の
セカンドライブだった。

「兄貴、…明日も来てな。」
男ふたり兄弟。外見上?!決して仲良しとは言えぬような関係であったのに、互いの心の奥に横たわる兄弟結束の存在を知った闘病期間。こんなにも素直に兄に甘える弟でもあった夫の姿をみたのは初めてであった。

最期を迎える数日前の家族への甘え。あるがままの気持ちを表現でき、それをしっかりと受け容れる家族の存在があった事は、とても豊かな逝き方ロードであったのかもしれない。
こうした充たされた最終章に至るまで、家族との時間はずっと美しい物語ではなかった。

「もう帰って…。」
「こなくていい…。」
無味乾燥な壁、小さな天井ばかり見つめてベッドに横たわらなければならない入院期間。心がとんがる日には、こうした言葉が夫の口からこぼれてくる。決して本心ではない、むしろ強がりである事は百も承知であった。
時々、そんな夫をどうしても抱えきれなくて〝あるがままに向き合う〟〝寄り添う〟 そんな言葉の真意の難しさにぶつかる自分がいた。
こんな日は本屋に潜んだ。死生観に関する書籍がずらりと並ぶ棚の前で、しばし本と共にうずくまった「死とは何か。」
今、まさに逝き方の中に身を置く夫との日々、絡まる心のもつれをそっと解く何かを求めていたのかもしれない。出会ったこの一行、この一文を心の杖にして、再び夫の待つ病室へと足を向ける自分がいた。

人は生まれて人から愛されることをなくして、人間にはなれない。育てる者と眼差し合う、触れ合う、抱き合う。こうした身体だけではなく心も含めたスキンシップを受け、愛着(アタッチメント)を形成する。これが生涯の人間関係の基盤を成すという。
夫の逝き方の中で感じた事。尾関さんが言うように、人はこの世に別れを告げる時も、このスキンシップを必要とするのかもしれない。他者を求め、他者と共に心を重ねながら生きてきた根源的な喜びや充足感。命の灯が消える間際まで、感じ取ることができる、いや、感じていたい家族や人とのつながりであると信じて止まない。(続く)

命の伴走者 (その3)  応援者

昨年の十一月に開催された大阪マラソン。知人と弟の駆ける姿をぜひ見たくて、マラソンコースの沿道に出掛けた。そこには、ランナーは勿論の事、大勢の応援者で埋め尽くされていた。そんな華やかな表舞台とは裏腹に、陰では、沿道とコースの安全や警備を担当する警察官やボランティアが、理路整然と環境整備の維持に力をつくしていた。
この光景に、夫の余命生活に温かいエールを送ってくださった、たくさんの応援者や、陰ながら支えてくださった方々の存在とだぶらせる自分がいた。
…夫が豊かに駆け抜けることができたのは、たくさんの人々のマンパワー以外の何物でもない。

輝く空の青さ、お天道さま、たなびく雲…。
すべてが応援者。

「大丈夫や!」
病院の小さなベッドに横たわり、点滴を受ける夫の姿と対面するなり、届けてくださったKさんの旦那さんからのひと言である。在宅療養中にも、高熱に見舞われて、こうして病院に運び込まれるのが、度重なってきた矢先の事であった。
どこで聞きつけたのやら、知り合いのK夫婦が駆けつけてくださった。どう見ても、苦痛の色で身体も心を覆われてしまっている状態の夫へ、不意をつくかのような意外なひと言に驚いた。ところが次の瞬間、夫の表情が緩み、口元から微笑みがこぼれた。…言霊を感じた。

「神さまはどうして、こんなふうに手を差し伸べてくれるのだろう!」
K夫婦の突然の来訪や、投げかけてくださった言葉への感謝を、こんな表現で、その日のメモに綴っていた。
夫が逝ってから後に、そっとあの日の「大丈夫や!」の真意を、Kさんの奥さんに伺う機会があった。奥さんも同様にこの表現に立ち止り、病院を後にしてから旦那さんに尋ねていたと言う。
「いやいや、あの日の状況では、到底かける言葉が見当たらず、自分に言い聞かせるが如く、こうした表現が自然に口からこぼれた…。」こんなふうに述懐していたそうだ。何ら食物を口から食べられなくなった現実の中で、もがき葛藤する夫の枕元に、唯一なめて溶ける 〝たこ焼き味のあめ玉〟 をしのばせてくださった人。

たこ焼き味のあめ玉

「これなら食べられる。」そんな喜びではなかった。こんな粋な計らいを届けてくださった温かな気持ちで、とんがる気持ちさえも溶かされた事が嬉しかった。
あるいは回診中に、こんな味のあめ玉があるのを知って、えらく感激していた医師の存在を楽しそうに語る夫がいた。

ドラゴンボールのイラストが描かれたうちわ。

病室に駆けつけると、窓際にドラゴンボールのイラストが描かれたうちわがひとつ、こちらを向いている。何と、夫にとっては初対面である私の友人が、見舞いに来て置いていったと言う「カメハメハー!」このパワーを浴びてくださいとのメッセージを残して…。

ランナーとして、命を全うするまで走り続ける夫に、医療のプロ達や家族が伴走者として共に駆けていた。それだけではなかった。熱い眼差しや声援で見守るたくさんの応援者や裏方が存在していた。

「たくさんの方々と関わり合えたらいいな…。夫の人生最終ラン、人間同志の中で紡ぐ、豊かなひと時を味あわせたい。」
この時期の気持ちを、こうした文章で書き留める自分がいた。(続く)

命の伴走者 (その4)  専属トレーナー

芸能人のマラソンランナーには、最初から最後までランナーの斜め後ろにピタリとついて一緒に走る存在があることを、テレビでよく目にする。走りのプロとして、ランナーへの時間配分やペースについての助言、あるいはモチベーション維持への吟味された言葉を届けているのだろう。ランナーにとっても、何かあった時には直ぐに応答してもらえる貴重な存在である。  夫にも命の期限宣告を受けたその日から、最期の息を引き取るまで寄り添ってくださった存在があった。夫のマラソンのかけがえのない専属トレーナーのような彼女の姿が蘇ってくる。

「海野さん、やめんでええよ…。」
私の友人であり、看護師でもあるNさんの言葉に耳を疑う夫がいた。矢継ぎ早に
「私はねっ、患者さんの状況によっては、一服の煙草で随分と気持ちが救われるのであれば、やめなくてもいいと思うの。」
「手術の1週間前からは控えてみて。麻酔から覚醒後の痰に影響してくるから。」
初めて会った彼女自身の看護哲学?!にすっかりほだされた夫。なんと手術1週間前、長年愛してきた煙草ときっぱりと決別してしまった。
こんな出会いをきっかけに、手術や入院といった大きなイベントの度に駆けつけてくださった。夫は、家族、友人、担当医とは違う彼女との人間関係を紡ぎ始めた。
彼女の存在は、私自身のもがきを優しく撫でてくれる風でもあった。厳しい状況に突入した時期であった。自宅での高熱や痛みの苦しみで、救急外来へと駆け込んだ。応急処置を受けたものの、この状態の夫を家に連れて帰ることに大きな不安や恐怖を抱く自分がいた。そんな心は処置室で人目をはばかることなく涙となって溢れた。自宅に戻るという夫。連れて帰れないと泣ける私。看護師達の前で、夫婦の静かなる対立を露呈していた。
気がつけば彼女に電話をかけていた。携帯の向こうからはひと言、
「家に連れて帰るんやで…。」の応答であった。
帰宅するやいなや、夜勤明けの身体で駆けつけてきた彼女。私には何も言わずに、数少ない夫の言葉を傾聴している。帰り際、私とのふたりだけの場面でようやく口火を切った。
「あなたが弱気でどうするの。」
「これからもっと大きな山を越えようとしている海野さんがいるのよ…。」
彼女からの、竹を割ったような端的な言葉を真摯に受け入れるのに、さほど時間はかからなかった。むしろ、大きな懐に抱かれている…。そんな自分を再確認した瞬間であった。

逝く日の3日前であった。自宅のベッドに寝たままの状態で、彼女から洗髪を受ける夫がいた。新聞とビニールで作った手作り洗髪台。洗い終わった後の夫の顔を覗き込んだ。身体は動けなくても、生きている五感と心で爽快さや充実感を抱いている…。満面の笑みがほころんでいた。

多くの伴走者の方々と同様に、豊かな生き方と逝き方の日々を彩るエッセンスと、温かい見守りの眼差しをふり注いでくださったNさん。遠からず近からずでありながらも、振り向けばいつもそこにいた彼女の存在。
〝今、ここで〟 という絶妙なタイミングが持つ力を享受していたのかもしれない。(続く)

2014年2月7日最終ラン

「人はギリギリ何かの瀬戸際に立たされた時、〝宗教人〟 になるか、〝芸術人〟になるか、どちらかに分かれるようです。(中略)」(『続・悩む力』姜尚中著 集英社新書 2012年より)
こんな一文と出会った。著者はアメリカの心理学者、ウィリアム・ジェイムズの見解に触れている。徹底的に自己否定して、地獄のような苦悶の中に落ち込むタイプを 〝宗教人〟 。
絶対的に自己肯定して、それを作品表現として昇華するタイプを 〝芸術人〟 と述べている。
この紙面に綴ってきたイチ個人の小さな記。自己満足に過ぎない想いを、文章にしたためて表現の道をたどってきた。こうした方向性を持てたのは、夫の最終ランに、命の伴走者達と共有したかけがえのない時間を授かった賜物である以外何物でもない。

「これが癌細胞であるならば、夫の身体からすべて流れ出てきて…。」
逝く前日から、胃ろうの穴を伝って出てくる大量の出血におののいた。そんな一方で、こう願う自分もいた。
「今日がさよならの日かもしれません…。呼吸が変化したら病院と救急車手配の連絡をしてください。」
夫には聞こえない空間で、訪問看護師さんからそっと告げられた 〝逝く予定〟。今まで味わったことのない重量であった。いや、重さも軽さも何も感じられない…。そんな表現が適切かもしれない。与えられた夫と紡げる時間への見通しは、悲しみを遥かに卓越した気持ちへと転化した。生まれて初めて抱く荘厳な面持ちで、〝家での最期〟 という貴重なひと時を授かるに至った。

駆けつけた命の伴走者達との最終ランが始まった。夜勤明けのNさんも飛んで来た。
夫の兄が馴れ親しんだカミソリで、丁寧に時間をかけて髭剃りを施した。剃りあとに手を持っていくと、心地良い感触をじっくりと掌で味わっていた。
九千㎞離れた海の向こうに住む義兄弟家族への国際電話。ありったけの力で受話器を握り、うなずきながら、声にはならないやりとりを交わしていた。
割りばしにガーゼを巻き、大好きだったかき氷シロップのブルーハワイを含ませて、唇をしめらせる。味覚を感じられる喜びを笑顔で示していた。
幼少期に一度は決別したオムツでの排泄。困難さを手招きサインで表現してきた。
身体は動かなくとも、こころや五感は生きている…。渾身の力を込めた表現と、それに応答できる最後の至福のコミュニケーションの時間であった。

「海野さん、大きく息を吸って、吐いて!」
Nさんの大きな声が静寂を破った。と同時に、人がこの世に生を受ける瞬間と同様の掛け声が鳴り響いた。息を引き取る…。この言葉通り大きな呼吸をしたかと思うと、瞳を鱗が覆っていくかのように見えた。生きている五感を信じて、皆で身体をさすり、名前を呼んだ。
「人間は死ぬまで生きられる。単純だけれど死ぬまで生きる力がある。これが癌を克服するというこ。」(鳥取県・野の花診療所 徳永進医師の言葉より)
最初はピンとこなかったこの言葉を、このひと時で体得した。

〝全身全霊〟 という言葉がある。夫の 〝生き方と逝き方〟 に出会い、この言葉は一生に一度だけしか使えない重厚な表現であることを知らされた。文字通り、身体と魂がうなるような生き方と逝き方に、人間が生まれて最期を迎えるまでの命の尊厳さを、初めて教えられた。
たくさんの方々と共に駆け抜けた最終ランまでのプロセスは、今の私をも支え続けている。(終い)

ミス・ワカナ (一)

ミス・ワカナ、玉松一郎コンビは、夫婦漫才の元祖で、エンタツ、アチャコに負けない人気がありました。
ワカナの本名は河本杉子、明治43年(1910)鳥取市の生まれです。幼いころから陽気でお茶目、映画スターにあこがれ、親の反対を押し切って大阪に来て、ミナミの「楽天地」にあった演芸館で、河内屋小芳と名乗り、こましゃくれた歌や踊りで客を笑わせます。なにしろ少女が大人の真似をするから、愛くるしいがおかしい。かなりモテモテの売れっ子でした。
大正15年(1926)まだ16才の小芳は、映画館で伴奏をしていた22才の青年と知りあい恋に落ちます。青年はほとんどの人たちが小学校しか行かない時代に福島商業学校を卒業しており、音楽家をめざして修行中、アルバイトに出ていて親しくなったのです。

ミス・ワカナと玉松一郎

青年の両親は怒り、鳥取の小芳の両親に文句をいいましたから、小芳はむりやりにつれもどされ、近所の若者と結婚させられてしまいます。ひどい時代ですね。
しかし杉子はどうしても青年が忘れられず、わずか3カ月で家出し、ふたたび大阪へ来て、玉造(現・中央区)にあった「三光館」で働きながら青年を探しているうち、偶然近くの映画館「朝日座」で伴奏していた青年を見つけます。抱きついた杉子は泣きながら、
「ここにおったら、またつれもどされる。誰も知らない遠いとこへ行こう」
と青年の腕をつかみ、いやもおうもなく、大阪駅から西へ向かう列車にとびのりました。ほとんど所持金もなく、22才と16才の無鉄砲なかけおちでした。
「どないして生きていくつもりや」
青年が心配そうにたずねると、杉子はにっこり笑って、
「漫才やろ。夫婦漫才やで」
とこともなげにいいます。
「漫才なんて、ボクでけへんで」
「ウチがやるんや、あんたはだまって立ってるだけでええ」
こんなやりとりのあと、杉子は再会した場所が玉造やからあんたは玉松一郎、ウチはミス・ワカナやと勝手に芸名をつけました。
ワカナと一郎は来たこともない広島で下車すると、場末にあった小さな演芸館をみつけ、
「ごはんたべさせてもろたらええさかい」
と泣言をいって頼みこみ、下働きをした数日後、いきなり舞台に立ちます。(続く)