大正13年(1926)大阪からかけおちした22才の玉松一郎と16才のミス・ワカナは、大阪駅から列車にとびのり、広島で下車、場末にあった演芸館に泣きつき、舞台に上がって漫才を演じます。といっても全くの素人、ワカナがひとりで喋りまくり、一郎は借りたセロをひきながら、ときどきあいづちを打つ程度で、さっぱり売れません。
それからの2人の生活は、お話にならないほどみじめで哀れな毎日でした。野良犬のほうがもう少しましだったでしょう。それでもワカナは底ぬけに明るく、ひっこみ思案の一郎を励まし、
「な、外国に行こ。外国ならウチらを有名な芸人やとまちがいよるかもわからんで」
と笑顔で誘います。いいだしたら誰がなんといおうと聞く耳持たぬワカナです。今度も渋る一郎の腕をひっつかみ、中国大陸へ渡り、日本人の多かった青島(ちんたお。シャントン省)の舞台に立ちました。

玉松一郎とミス・ワカナ
なつかしい日本を話題にし、童謡を歌って踊る少女妻に好奇心が集まり、少しは芽が出かかったとたん、一郎が病気で倒れます。
「おカネいるさかい、かんにんして」
ワカナはあやしげなダンスホールに勤め、酔客どもにからまれながら必死になって医療費をかせごうとします。
2人は小さな民家の2階に下宿していました。病人の一郎は手に長いロープをくくって窓からつりさげ、深夜に疲れて帰宅したワカナがひっぱると、ねぼけまなこではいながら階段をおり、ドアを開けます。
「あけたら誰もおらへん。変やな思たらワン公でした」
のちに一郎はこう笑っています。
ことばではいえぬ苦労を重ねたワカナですが、人生、なにが幸せになるかわかりません。ワカナはここで独特のタップダンスを身につけ、これが人気漫才師のスタートになるのです。
やがて回復して舞台に上がった一郎のアコーディオンに合わせて、ワカナは珍妙なステップを踏みました。
ワカナ「うまいですね。天才ですわ」
一郎 「いいえ。それほどでもございます」
ワカナ「このどあほ!ウチのダンスやんか」
このネタは爆笑また爆笑、大いに受けました。こうして中国で得た人気をひっさげて大阪へ2人はもどってきたのです。(続く)
帰国したワカナは、夫玉松一郎の才能を次々にひきだします。漫才界初めての、「漫才ミュージカル」とでもいうべき新しい芸能ジャンルの創造です。これは新派の名台詞(せりふ)あり泣かせる浪曲あり、ラブシーンからチャンバラごっこ、都々逸(どどいつ)が入るかと思えば一転して映画説明、歌舞伎・浄瑠璃のさわりなどを、器用に演奏する一郎のアコーディオンに合わせて小柄なワカナは、全身を使って熱演しました。
ワカナ・一郎の夫婦漫才が全国区になるのは、NHKのラジオ出演がきっかけですが、このコミカルなミュージカルが電波にのりやすかったからです。当時のラジオは現在のテレビより、はるかに威力を発揮していました。

玉松一郎とミス・ワカナ
「ラジオでおなじみのワカナ・一郎」
と司会者が紹介するだけで、会場はわあっと沸きかえります。2人の人気は今やかけだし時代の貧乏ぶりからは、想像もつかないほどの急上昇でした。
昭和10年(1935)2人は初めて出会った懐かしい大阪へもどってきます。大阪ではエンタツ・アチャコ(本連載132~138回参照)がブームになっていましたが、ワカナはこの超人気コンビに挑戦します。和服が常識だった舞台にエンタツ・アチャコが洋服姿で上がりますと、ワカナも洋服で登場します。初めて洋服で出演した女性の芸能人は、ワカナだと私は思っています。しかもエンタツがパリッとした英国製の上等背広を着ますと、ワカナはなんとふだん着で出たのです。プライドの高いエンタツが高級漫才だといったのを嫌って、あくまでも庶民派に徹したかったからです。
このころからワカナ・一郎漫才は、ミュージカルコメディ型をやめ、「生活型」に変わっていきました。夫一郎との家庭生活、2人のなれそめからかけおち、青島(ちんたお=中国シャントン省)での悲惨な生活、さらにご近所の暮らしむき、つまりどこにでもある当たり前のネタを、独特のペーソスをまぜて語ります。客席は思いきり笑いころげたあと、思わず涙がにじむほどしんみりした気分になり、心から共感の拍手を送りました。
エンタツ・アチャコが今までの古くさい万才を一掃した知的な「喋くり漫才」の創始者であることは確かですが、庶民のごくありふれた実生活をネタにして客席を沸かせたのは、ワカナ・一郎です。こうして大阪は漫才の本場となりました。(続く)
昭和10年代の大阪興行界は、エンタツ・アチャコを売り出した女興行師吉本せいの率いる「吉本興業」が牛耳り、漫才に転向する芸人さんも増え、百組に近いコンビが誕生しています。
この吉本に対抗して「新興芸能社」が設立され、ワカナ・一郎を看板に、ラッキー・セブン、平和日佐丸・ラッパなどが育ちます。
ワカナは天性明朗でお人好しでしたが、親分肌の包容力もあり、苦労しただけに人情味も豊かで、
「この子はええで。使うてやってな」
と芽の出ない若い子を会社に売りこみました。その中に歌江・照江と名乗る姉妹がいます。そうです、のちに末妹の花江を加えて「かしまし娘」と呼ばれ、一世を風靡(ふうび)したコメディアンたちです。

ミス・ワカナと玉松一郎
そのころ花江はまだ赤ん坊なみ、歌江・照江は何度もワカナに叱られ、泣きべそをかいてセーラー服姿で舞台に立ちました。長女の歌江は今も若い子たちの面倒見のいいことで有名ですが、これは師匠ゆずりでしょう。また、ひろし・輝子という若いコンビもいました。とくにかわいくて陽気な輝子を、
「ウチの若いときとそっくりや。きっとあんたはウチの芸を継いでくれる」
と目の中に入れても痛くないほどひいきにします。このコンビが終戦後大活躍した島ひろし・ミスワカサです。
ワカナの夫・玉松一郎に対する愛情の深さは、初恋のころと変わりませんでした。はっきりいって2人の漫才は、80%はワカナでもっています。しかしワカナはどんなときでも、まず一郎を立てました。契約や巡業なども、あんたの好きなようにして、ウチついていくから…とこんな調子で夫に任せています。
「ワカナ姉さんは、自分よりもご主人が大事でした。ご主人のこととなると、少女のように眼が輝いてきて、いつものろけてばかりでした」
ミスワカサの思い出話にこうあります。
昭和16年(1941)ごろから戦争が激しくなると、芸能界も軍部や警察に妙ないいがかりをつけられて弾圧されます。傑作だったのは、ミス・ワカナのミスが敵性語(英語)だから、禁止せよというのです。野球もストライクは「よし」、ボールは「だめ」といいかえよとなって、ボールカウントツースリーは、「よし2本、だめ3本」と審判が大声で叫ぶ時代でした。(続く)
昭和16年(1941)太平洋戦争が始まると、英語は敵性語だと使用を禁じられ、ワカナも警察からミスは敵性語や、使うたらあかんと叱られます。腹が立ったワカナは
「そんならウチ、改名する。メス・ワカナや、文句あるか!」
と啖呵(たんか)を切っています。
寄席に上がれなくなった芸能人たちは、当時の空軍「荒鷲部隊」をもじって、「笑わし部隊」を結成、戦場に出て軍隊の慰問活動を始めます。ワカナと夫の一郎も青春の思い出がいっぱいつまっている中国大陸に渡り、野戦病院に収容された戦傷兵士たちを訪れ、せいいっぱい笑わせて慰めました。

ミス・ワカナと玉松一郎
しかし彼女の人生はあっけなく幕を閉めます。戦争が終わりミス・ワカナにもどれると喜んだのもつかの間、翌21年(1946)心臓発作のため西宮で倒れ死亡しました。享年36才です。得意のネタは「ワカナ放浪記」「愛国婦人会」「金色夜叉(やしゃ)」など。映画にも「水戸黄門漫遊記」「黄金道中」「陽気な幽霊」等に出演しています。
昭和54年(1979)彼女の一生を描いた森光子主演、小野田勇作「おもろい女」が大当たり、この年の芸術祭演劇部門大賞が贈られました。
また弟子のミス・ワカサは、師匠没後、宝塚新芸座に入り、朝日放送のラジオ「漫才学校」で活躍、早口の大阪弁でまくしたて、いわゆる女上位漫才を確立しています。彼女も昭和49年(1974)53才没。
ワカナの死後、吉本興業のもとに姿、形から喋りかたまでそっくりな芸人がいるとの知らせが届きます。日向鈴子という名の女性です。彼女は大正9年(1920)東京生まれですが、幼いころから父と一座を組んで大阪から九州まで巡業し、三遊亭柳枝と結婚してからは夫婦で「柳枝劇団」を結成します。
お喋りは天才的でしたが、ほとんど学校には行けなかったため、渡された台本の漢字が読めません。そこで劇団の照明係りとして入ってきた戸田朝治という青年が、工業学校を出ており多少物知りでしたので、
「あんた、これなんという字や」
と教えてもらいます。何度も聞きますから周りが面白がって、朝治に「なんという字」とのニックネームをつけました。
もういうまでもありませんが、鈴子がミヤコ蝶々、朝治が南都雄二です。蝶々は柳枝の浮気に怒り離婚、嫌がる雄二を無理に舞台にあげ、上方トンボと名づけ漫才を始めます。(終わり)
海運国ニッポンに大きく貢献した日立造船は、英国人エドワード・ハンターが此花区に設立した「大阪鉄工所」がルーツです。
ハンターは1843年、イギリスの首都ロンドンに生まれ、慶応3年(1867)来日し、当時外国の人たちが集まって事業を始めていた川口居留地(西区川口1丁目)にあった貿易商キルビー商会の腕きき営業マンに着任しました。
明治1年(1868)のある日、今の西区江之子島2丁目にあった得意先の薬種問屋「平野屋常助商店」を訪れて、とびあがります。ひそかに思いを寄せていた同店のいとはんあいが、霧雨に打たれながら寝ていたのです。

ハンターの妻・あい
あいはこのとき18才、おなかをこわして高熱が続き、薬屋ですからあらゆる薬を飲ませたもののなんの効果もなく、とうと 近所の医者もさじを投げ、
「もうあきまへん。せめていとはんの好きなようにさせなはれ」
と見放しました。母親は泣きながら、あんた、なにがしたいとたずねますと、あいは苦しい息の下から
「どうせ死ぬなら、庭を眺めながら死にたい」
といったので、縁がわに横たわっていたのです。高熱でほてった体に霧雨が快かったのでしょう。ハンターを見てここ気持ちいいのとほおえみました。
まっかになって怒ったハンターは、おろおろする両親を叱りつけ、すごい力でふとんもろとも抱きあげ、奥の部屋に運んで夜具も寝巻きもみんなとりかえさせます。そして自分はキルビー商会にひき返し、西洋の高貴薬をいっぱい集めてもどり、かたはしから服用させました。
ハンターに医薬の知識があったかどうかはわかりません。しかし薬よりも彼のまごころが通じたのでしょう。毎日やってきては人目もあきれるほど介抱を続け、ついにあいは全快します。
これが縁で2人は結婚するのですが、なんといっても老舗(しにせ)のいとはんと、日本語もあやしい青い目の大男との国際結婚です。平野屋は両親は無論、親類たちも猛反対します。
「娘の命を救ったあんさんには感謝しています。そやが結婚だけはこらえてくだされ」
と父親の常助はひれ伏してこういいましたから、ハンターも泣きべそをかきました。(続く)
「あんさんは娘あいの命の恩人です。そやが結婚だけはこらえてくだされ」
あいの両親は土下座してこういいましたから、さすがの大男、キルビー商会の営業マンE・ハンターも、泣きべそをかきながらあきらめようとします。
けれども、あいはひるみませんでした。あんなに親に従順でおとなしい色白の小柄ないとはんの、どこにこんな激しい情熱がひそんでいたのでしょう。彼女は家をとびだし、なにも持たずにハンターの胸にとびこんできたのです。
明治12年(1879)ハンターとあいは、キルビー商会から独立し、此花区西九条7丁目に「大阪鉄工所」を創設、母国のイギリスから優秀な技師を招いて機械の製作事業を始めます。ところが明治政府が赤字解消のため緊縮財政をとったから経済界は大不況におちいり、大阪鉄工所は倒産寸前になります。なにをすれば当たるだろう…ハンターは悩み苦しんだあげく、
「日本は島国だ。外国と交流して国際市場に参加するには、かならず船が要る」
との結論に達します。

ハンター
明治14年(1881)キルビー商会から莫大な融資をとりつけたハンターは、思いきって大勝負に出ます。大阪鉄工所を朱色のレンガづくりの洋式造船所に改め、「OSAKA IRON WORKS」の大看板を掲げ、
「造船 陸用諸機械 架橋 耕作用ポンプ其他大小諸鋳物ノ製作・修理ナド 各位ノアラユル需要二
応ズ工場見学大歓迎」
との内容のパンフレットをまき、6馬力の蒸気機関、スチームハンマー、旋盤など、まだ日本にはなかったイギリスの最新式機械を並べました。
当時は船といえば帆船です。蒸気機関を用いた西洋式鉄鋼船は、誰にも想像がつきません。価格もけたはずれに高いので注文はなかったのですが、幸運なことに大阪港の工事が始まります。大阪府がためしに浚渫船(しゅんせつせん=水底の泥をとる)2隻を発注したところ、すばらしい能力を発揮、こりゃすごいと運送船も頼みます。
これが日本初の鉄艦「共立丸」です。
さらに日清戦争、続いて日露戦争がおこり、政府から優秀な軍艦を大至急作れと矢の催促がきます。さあ、ハンターは働きました。大量の従業員を雇い、びっくりするほど高額の給料をはずみます。労働者が殺到しました。 (続く)
明治14年(1881)現在の此花区西九条7丁目にハンターとあい夫妻は、「大阪鉄工所」を設立、西洋式船舶の製造を始めますが、大阪港工事や日清、日露の戦争で注文が殺到、従業員を大量に募集しびっくりするほどの給料をはずみました。
「大阪鉄工所に行こう。黄金の雨が降っとるぞ」
と、労働者たちは津波のように押し寄せ、昼も夜も働きます。西洋式能率給をとりいれたのです。工場は拡張をくり返しました。
ハンターはどのような会合にも、かならず妻あいをつれて出席します。新工場が完成した祝賀会にも、関西の政財界のお偉がたが集まる寄合いにも、軍部や政府が招待した宴席にも、夫妻は比翼(ひよく)の鳥のように並んで座りました。西洋では当然ですが、当時の日本にはこんな習慣はなく、みんな驚いて二人を眺めます。

ハンター父子
なにしろ口ひげをはやし、重厚なフロックコートに包まれた大兵肥満の外国人と、その肩にも届かぬ華奢(きゃしゃ=ほっそりして上品なこと)な和服で寄り添うこけし人形のようなあいですから、政府の高官までポカーンとあいた口がふさがりませんでした。
ハンターは事あるごとに、あいに相談します。新規事業を起こすときも細かい数字まであげ、意見を求めます。
「そんなこと、うちにはわかりません」
とあいがほほえんでも、
「いや、キミの同意がなによりも必要だ」
とむきになって説明をくり返しました。男の仕事に女は口出しするなといわれていた時代の話です。
明治40年(1907)ハンターは、神戸市生田区北野に自宅を新築します。豪華な洋館で今は王子動物園(灘区青谷)の隣に移築保存(重要文化財)されていますが、設計はあいがいかに便利で快適に暮らせるかにポイントを置き、隅々にまで心配りがみられます。
大正6年(1917)ハンターは74才で亡くなりました。あいは長い髪を切り棺の中の夫の手に握らせます。それからは社会福祉事業に尽力し、昭和14年(1939)89才の天寿を全うしました。
ハンター、あい夫妻には、3男3女の子宝が恵まれます。長男・竜太郎は父の名に漢字を当て範多家を起こし、ドイツのグラスゴウ大学で造船学を専攻、大阪鉄工所に新しい経営哲学をもちこみ、さらに発展させます。 (終わり)
前回お話したオランダ人医師ボードウィンと緒方洪庵の次男惟準(これもり)が創設した「浪華仮病院」(大阪大学医学部の先祖)に、ボードウィンの後任として赴任したのが、C・J・エルメレンスです。
彼は1842年オランダ生まれ。ヨーロッパでは医学教育のメッカ(あこがれの地)ドイツのベルリン大学を、首席で卒業した秀才です。生まれつき好奇心が旺盛、旅行が大好きとあって、ぜひ研究室に残るよう勧められたのを断って、東洋の黄金の国ジパングとはどんな所だろうとなんでも見てやろう精神を発揮して、先輩ボードウィンの誘いにのって明治3年(1870)大阪へやってきました。28才のときです。

エルメレンス
それから7年間教授を勤め、浪華仮病院が大阪府立医学校と改称され、日本を代表する医学教育の場に発展させるまで尽力します。その博学ぶりは大変なもので、眼科が専門のボードウィンとは異なって、多方面にわたりました。彼の講義内容は『生理新論』『原病学』『薬物学』『外科総論』『内科総論』『外科・内科各論』等十数冊にまとめられて刊行され、医学教育の重要なテキストとして日本各地で用いられています。
学問だけではありません。エルメレンスの気さくで明朗な性格も、人気の高い原因でした。とにかく周りにとけこむのが早いのです。風俗習慣のちがいなど平気の平左、気おくれすることなく来日した翌日からあやしげなカタコトの日本語で話しかけ、西洋人のもっとも苦手とするミソ汁をがぶ飲みし、タクアンをボリボリかじってみせました。
ワサビをつけたサシミをうまいうまいとたいらげ、和服をゾロリと着て日本式のあいさつをします。座敷の宴会にも喜んで出かけ、たいていの西洋人がしかめ面をする盃(さかずき)のやりとりもヘイチャラ、おまけに酔うと母国オランダの民謡を大声で歌いながら座敷中を踊りまわり、拍手と爆笑の渦をまきおこします。
当時の西洋人は文明先進国というプライドから、すぐにお国自慢をし、母国と日本を比較して社会の後進性を批判、また日本人もおそれ謹んでお説を拝聴する風潮にありました。ところがエルメレンスは、患者に対しても
「ニッポン ヨイクニ、ワタシダイスキ」
と話しかけ、親切丁寧に診察し、しかも腕は抜群ですから、誰もが尊敬します。(続く)
大阪府立医学校(のちの大阪大学医学部)教授C・J・エルメレンスは、気さくで明朗な人がらと大の日本びいき、しかも診療は親切で腕は抜群ときますから、巷(ちまた)にはエルメレンスファンがあふれていました。
鴻池善右衛門や住友吉左衛門らの富豪から、実川延若、中村宗十郎ら有名な歌舞伎俳優まで熱烈な心酔者で、健康でどこも悪いところもないのに彼の診察を受け、歓談して楽しんだといわれます。またエルメレンスは清潔な人格者でした。シーボルトやピンカートンはじめ、来日した西洋人たちはほとんど日本の女性をいっとき妻にして、帰国するときにたくさんの艶聞を残しています。ところが彼には全くそんな浮いた話はありません。

エルメレンス
「なにかとご不便でしょう。妻帯したらいかがですか」
と周りが勧めますと、
「トンデモナイ、オンナノヒトヲナカセルノハ イチバンイケナイコトデス」
と、あわてて手を振りました。
明治11年(1878)任期の切れたエルメレンスは母国に帰り、オランダのハーグ市民病院の院長に就任します。ところが翌年の同12年フランスを旅行中、急病のためあっという間に亡くなります。時にまだ37才の早世でした。不幸な知らせを受けた大阪の人たちは心から悲しみ、遺徳をしのんで顕彰碑を建てることになり、募金活動をはじめます。知人や弟子たち、あるいは治療を受けた元患者たちが喜んで協力し、たった3ヶ月で軽く目標を突破、千円以上が集まりました。明治14年(1881)中之島(現・北区中之島1丁目)に大きな碑が建ちます。
(正面)FOR THE MEMORY OF DR,C・J・ERMERINS
(側面)阪谷朗盧撰の頌徳文
(銘)歐海万里 魂魄茫々 徳則靡渇 澱水与長
オランダ領事や川口居留地のバイヤーまで除幕式に参加、花火数百発が打ち上げられ、十数名の楽人が演奏する盛大なものでした。なおこのとき祭壇に掲げられた彼の肖像画は、複製されて1枚35銭でとぶように売れたそうです。また江戸堀(西区)の猪飼薬店からエルメレンス先生処方『ビットル散(健胃剤)』が売りだされ、これも好評でした。碑は昭和11年(1936)阪大医学部に移っています。(終わり)
大阪が全国に自慢できる医学のメッカ大阪大学医学部は、オランダ人医師A・F・ボードウィンのおかげで誕生した「浪華仮(かり)病院」をルーツとします。
明治元年(1868)大阪を訪れた明治天皇は、歓迎の人たちに眼帯をつけた姿が多くまじっているのに気がつかれ、府知事後藤象二郎に、
「わずかだが、これを資金の一部にして、公立の病院を建てたらどうか」
と、お見舞金を下賜(かし)されました。当時大阪では、トラホームがはやっていたのです。
さっそく象二郎は有名な緒方洪庵の次男、緒方惟準(これもり)を呼んで、
「蘭医学(オランダの医学)で治療する公立病院を作りたい。長崎の養生所(シーボルトのいたオランダ商館の医院。近代西洋医学発祥の地)に負けないものにしたい」
ともちかけ、協力を頼みました。

ボードウィン
惟準は養生所で修業したとき世話になり、今は上海(しゃんはい)にいる恩師ボードウィンに、ぜひ大阪においでくださいと懇願します。
ボードウィンは1822年、オランダのドルトレヒトに生まれ、優秀な成績でグローニング医科大学を卒業、ユトレヒト陸軍軍医学校教官になります。この学校には、ヨーロッパでも指折りの眼科専門医ドンデルス教授がおり、ボードウィンは彼にかわいがられ、眼科手術の秘伝を授けられました。
文久2年(1862)、養生所の医師ポンペが任期満了で帰国します。幕府は必死になってオランダ商館に後任を探してくれと頼みますが、幸い商館にボードウィンの弟が勤めていました。こういった事情から陸軍一等軍医ボードウィン大先生が、おひげをひねりながら日本に来てくれたのです。惟準は養生所で気に入られ、オランダ留学の便宜もはかってくれた彼を、心から尊敬しておりました。
養生所時代のボードウィンに、こんなエピソードがあります。日本の医療器具と薬品の貧弱さにびっくりした彼は、遠い母国に3度も取りにもどっています。とくに3度目はものすごい量の器具をかかえてきますが、全部産婦人科のものばかりです。
お産は女のつとめだといわれ、産医学は貧弱そのものでした。多くの女性がどれほどお産で死亡したか…眼科得意のボードウィンの人柄が、とてもよくわかりますね。(続く)
明治元年(1868)上海(しゃんはい)を旅行中だったオランダ人医師ボードウィンは、緒方惟準(これもり・洪庵の次男)から
「天皇さまのお声がかりで、日本のセカンド首都大阪に、近代的な蘭医学の公立病院が誕生します。知事も大賛成で理想的な病院になると思います。病院の指導者は先生以外におられません。なにとぞ国家医療のため、もう一度お力をお貸しください」
と懇願されます。長崎の養生所に勤めていたころ、もっとも気に入った愛弟子の頼みです。それに天皇さまのひとことでその気になります。オランダは日本と同じ皇室のある国家で、国民たちは皇室を深く尊敬しております。
医学者としてもっとも充実していた40才のボードウィンは、喜び勇んで再来日するのですが、事情は大きく変わっていました。全面的に協力するといった府知事後藤象二郎が、東京へ転勤したのです。あとはおきまりの財政難、明治新政府も発足したばかりで幕府崩壊後の社会状勢は大混乱、蘭医学病院どころではありません。

下宿した法性寺
病院はどこかねと尋ねるボードウィンに、ひらあやまりにあやまった惟準は、父洪庵がいつも西洋の医学書を取り寄せていた書店山田正助の紹介で、大福寺(天王寺区上本町4丁目)の境内を借りて、「浪華仮(かり)病院」を開きます。「仮」とは予算がついて本格的な病院を建設するまでの「仮」という意味です。 次に薩摩屋半兵衛に、ボードウィンの身の回りの世話を頼みます。半兵衛は江戸堀(西区)にあった薩摩藩蔵屋敷に勤めた商人で、洪庵の「適塾」の門下生、カタコトのオランダ語の会話ぐらいはできました。
彼は熱心な日蓮宗の信者です。さっそく法性寺(中央区中寺1丁目)の住職日定(にちじょう)に、オランダの先生を下宿させてくださいと頼み、ボードウィンに、
「先生、なんでもいいつけておくんなはれ。ただし食事は日本式でっせ。文句は聞きまへんで」
と何度も念を押しました。
ボードウィンは法性寺を気に入りましたが、みそ汁につけものが続くと大男だけに腹ペコ、いきなり境内で豚を飼い、トンカツにしてペロリと平らげます。
「せ、先生、お寺で殺生はあきまへん」
半兵衛はあわてて手をふりました。(続く)
緒方惟準(これもり・洪庵の次男)と、蘭医ボードウィンが開いた大阪最初の医学校兼治療所「浪華仮(かり)病院(天王寺区上本町4丁目・大福寺境内)」には、全国からとびきりの秀才、40名の若者が集まります。
当時の時間割は次のとおりです。
「午前6時~8時 講義緒方惟準 8時~10時 講義ボードウィン 10時~12時 入院患者診察 午後0時~5時 外来患者診察 6時~8時 講義緒方惟準 8時以後 各自予習復習」
ものすごいスパルタ教育ですね。休憩や食事の時間はとってはいませんから、各人あいたときにあわてて済ませたようです。
「まごまごしておると食う物にありつけぬ。よって汁かけ飯大繁盛」
と記されています。いつ寝たのかもわかりません。

浪華仮病院跡碑
もうひとつ驚いたのは前回書いたように、ボードウィンはヨーロッパでは5本の指に入る眼科の権威ドンデルス博士の愛弟子です。ところが浪華仮病院での講義内容は、すべて性病の治療と感染を防ぐやりかたばかりでした。明治2年(1869)講義はまとめられ、『日講記聞』(訳・緒方惟準)と題して刊行されていますが、それを読むとどんなに当時の日本人が性病に無知であったか、またどれほど蔓延(まんえん=広がること)していたか、あきれるばかりだといわれます。
もちろん本職の眼病治療も卓越(たくえつ=ずばぬける)していました。浪華仮病院の設立は、当時大阪で流行していたトラホームを心配して、明治天皇が公立病院を設立したらと府知事に話したのが起こりですから、多くの眼病患者が押しかけます。
「大福寺へ行こ。異人さんが魔法で目をあけてくれるで」
といった噂が広がります。
ボードウィンの繁忙さは、ことばではいえないほどでした。そんなに働いて給料は、たったの月額75円です。この時代、多くの西洋人が来日して新しい文化や科学技術を教えましたが、誰もが給料と労働時間にきびしい条件をつけます。1日6時間勤務、月5回の休日、土曜日は午前中のみ、月給200円以上…これが最低条件です。今ならあたり前ですが、西洋人は利己的だ、わがまま、勝手すぎると嫌われた理由のほとんどがこれです。
ところがボードウィンは、薄給も超過勤務も、ひとことも文句をいいませんでした。(続く)
大阪最初の公立医学校兼治療所「浪華仮(かり)病院」の指導者蘭医ボードウィンは、明治初年に来日した西洋の学者・技術者には珍しいほどの月給75円という薄給で、超過勤務も休日返上もいとわず学生の教授や、患者の診療にあたります。
偉い人ですが、偉いのはボードウィンを支えた緒方惟準(これもり・洪庵の次男)も同様です。大阪府が惟準に渡した人件費は、たったの150円ですから、恩師のボードウィンに半分渡したことになります。助手や下働きをする人たちがかなりいますから、残り半分をわけ与えると、惟準はタダ、いやおそらく私費を持ち出したと思われます。
ボードウィンの日本びいきも特筆にあたいします。商人薩摩屋半兵衛の世話で日蓮宗の寺院法性寺(中央区中寺1丁目)に下宿しますが、半兵衛は熱心な信者でいつもお題目を唱えて拝んでいます。ふしぎそうに眺めていたボードウィンは、いつの間にか半兵衛に感化され、バイブルをはなして窮屈そうにひざを折り、半兵衛と並んで本尊の前でうちわだいこをたたきだしたそうです。愉快な人物ですね。

緒方 推準
明治2年(1878)浪華仮病院は大福寺(天王寺区上本町4丁目)から、鈴木代官所跡(国立大阪病院のある場所)に移り、学生も100名に増えます。
翌3年任期満了で母国オランダへ帰ることになりますが、横浜医学東校では主任のドイツ人医師の着任がおくれ、明治政府は2ヶ月間だけ代理してくれと頼みます。
「自分は医学書や医療器具は、すでに全部船便で出した。それにドイツ人のつなぎとは、プライドが許さない」
とさすがの彼もむくれますが、惟準に説得され手ぶらで赴任。ドイツ人医師の担当予定だった神経・消化生理学を、なんの資料もノートも見ずに講義します。この内容はのちに『日講記聞』のタイトルで刊行され、テキストになりますがそのすばらしいこと。
「聴者は総て其の精該(せいがい)に服す」
と、当時の書物に記されています。
政府は彼の医学界への貢献に感謝し、帰国時に功労金2千円を贈りました。オランダでは本職の軍医にもどり、一等軍医正(しょう)に昇進、1885年63才で亡くなります。生涯独身でした。浪華仮病院は明治6年さらに北御堂に移り、「大阪府立医学校」と改称されますが、これが大阪大学医学部の先祖です。(終わり)
白井松次郎・大谷竹次郎の双生児兄弟は、日本の映画・演劇界の先頭にたった「松竹」の創業者ですが、その人生は汗と涙にまみれた凄絶(せいぜつ)なものでした。
兄弟は明治10年(1877)、京都に生まれました。父の大谷栄吉は花相撲(本場所以外の地方の臨時興行)の勧進元「花の峰」 の奉公人で、幼い兄弟をつれて各地を転々、兄弟は6つのころからざぶと を配りたばこぼんを出し、下足番もこなし、夜は土俵の上でむしろをかぶって寝る毎日でした。もちろん父も働きましたが興行は水もの、正直者の栄吉は海千山千の興行主たちによくだまされ、いつも貧乏、兄弟は空腹のあまり客がゴミ箱に捨てた弁当の残りを食べて、飢えをしのぐありさまです。小学校に通うなど夢のまた夢で、学歴めいたものはありません。

白井 松次郎(左)
大谷 竹次郎(右)
同18年、母のしもは「祇園座」の売店に勤め口をみつけ、兄弟も菓子や氷水を売ってお手伝いをします。ふたごですから大変仲が良く、姿・かっこうからしゃべりかたまでそっくり、客たちは松と竹の区別がつかない。これが人気を集め、なかにはチップをはずむ客もいます。
「な、大きゅうなったら、母ちゃんに楽させてやろな」
松と竹はいつもこういって1銭の金もむだにせず、こつこつとためました。
祇園座には中村福助や中村雁(がん)治郎ら、大物スターも出演します。兄弟はいつの間にか興行のコツを覚え、同28年、かねて目をつけていた実川正若ら無名の若手役者10名ほどを誘い、近江や伊勢に巡業します。出しものは歌舞伎の名場面をつないだダイジェスト版で、客の入りはまあまあでしたが、松阪で悪徳興行主にひっかかり、役者の衣裳まではぎとられてしまいます。
兄弟は地べたに額をこすりつけ泣きながらあやまりますが、腹を立てた役者たちに殴られ蹴られ一座は解散、山のような借金を背負いました。
当時の興行界は前近代的で、なわばりをもつ土地の親分に多額の祝儀を贈らねば興行できず、また役者たちも芝居がはねたあと小道具係りまで舞台に集まって大あぐらをかき、飲酒・賭博にふける習慣がありました。出演料などドンブリ勘定もいいところ、偉い人気役者からつかみどりしますから、下っぱはタダ同然、これでは不平不満がおきるのは当然だ、なんとかしなければと兄弟は考えます。(続く)
双子の兄弟・松次郎と竹次郎の兄である大谷松次郎は、明治30年(1897)「夷谷(えびすや)座」という劇場の売店の娘白井ヤエにひとめぼれします。20才のときです。ヤエの親が、お前が養子にくるのなら夫婦にしてもよいといいますと、二つ返事で入りむこになり、白井松次郎と姓を改めました。そのとき、いつも影のように寄りそっていた仲良し弟の竹次郎に
「これからは別の人生を歩こうやないか。もう兄弟やない。お前とライバルになって仕事したい」
と、きっぱりいいわたします。同じ日に生まれても双子はふしぎなもの、いつも兄が先を歩き、弟はあとからついてきたのです。松次郎は今こそ、弟が独立できるチャンスだと考えたのでした。

白井 松次郎
兄がいなくなってしばらく涙ぐんでいた竹次郎は奮起します。倒産して借金のカタになっていた「阪井座」の経営権を譲り受け、「歌舞伎座」という大きな堂々たる名前に変えて、「実川延二郎一座」を招き、一世一代の大勝負に出ます。もし失敗したら首をつったぐらいではすまなかったでしょう。初めて兄の援助なしの興行でしたが大入り満員、延二郎の熱演もありますが歌舞伎座という名称が客を集めたとみられます。
いっぽう松次郎は夷谷座をはじめ、各劇場の売店のチェーン化を試み、大量仕入れの安売りで利益をあげますが、弟の成功に負けじ魂に火がつきました。同34年、火災で焼失していた「常磐(ときわ)座」の興行権を買収、新京極に移して「明治座」と改称。借金して近代的設備をふんだんに取入れ、高級劇場と銘打って旗あげします。わずかでも料金を低くとの常識を破って、高いが大名気分にひたれるように工夫したのです。これが一般の人たちにも受けました。誰でも一日富豪になれるからです。
兄弟の成功の原因は、経営の合理化にあります。興行権を親分たちからとりもどし、ドンブリ勘定を改め、役者の出演料を腹芸ですませていた習慣を破り、明確な契約書をとりかわしています。収支決算を透明にしますから、コヤの下働きの人たちも文句のつけようがありませんでした。
兄弟の華々しい活躍に世間は注目します。新聞も「松と竹の興行合戦」「さあ松と竹、いずれが勝つか」とはやしたてます。これが興行界に君臨する「松竹」のおこりです。 (続く)
興行界の革新運動を起こした双子の兄弟白井松次郎と大谷竹次郎は、明治35年(1902)再び力を合わせて、「松竹合資会社」を設立します。
4年後京都から大阪に進出し、道頓堀の中座・朝日座・御霊(ごりょう)神社境内の文楽座等の経営権を買取り、さらに同41年東京の新富座・本郷座も入手します。そして大阪は兄の松次郎が、東京は弟の竹次郎が責任をもって経営すると分担し、さあ、どちらが成功するか競争やと、西と東に別れます。
姿・形からしゃべりかたまでそっくりだった松と竹の兄弟に、このころから目立った違いがでてきます。松次郎は伝統芸能を大切にしますが、竹次郎は新しい芸能開発に力を入れ、「松竹女優養成所」「帝国劇場女優養成所」を作り、珍しかった女性のスター育成に努めました。

大谷 竹次郎
大正4年(1915)、その竹次郎に不幸が襲います。目に入れても痛くなかった一粒種の、当時中学生だった栄次郎が、中禅寺湖で突風にあい、ボートもろとも転覆し、水死したのです。竹次郎の悲嘆ぶりは誰もがまともに見られないほど、事業も放棄して、生きた屍(しかばね)のようなありさまになりました。
そんな竹次郎を立直らせたのが、松次郎の養子白井信太郎です。彼は海外生活で映画の存在を知り、養父に進言して同9年「松竹キネマ部」を創設、この新事業の社長に失意の叔父竹次郎を説得して就任させます。
よみがえった竹次郎は、蒲田に9千坪の土地を購入し、小山内薫(おさないかおる=劇作家)を招き「俳優養成所」をたちあげます。またパラマウント映画で天才カメラマンとうたわれたヘンリー小谷をひきぬき、日本で初めての本格的映画(当時の名称は活動大写真)「島の女」を制作させます。この作品は成功しませんでしたが、主演の栗島すみ子の愛くるしいこと、次々に出演してアイドルとなり、映画は松竹が一番だと誰もが思うほどの地盤を築きます。
といっても、興行組織としての松竹は、栄枯盛衰をくり返します。とりわけ同12年、漏電事故のため「東京新歌舞伎座」が全焼、再建にとりかかって半ば以上できあがったときに、あの関東大震災に見舞われました。
努力が水泡に帰し、瓦礫(がれき)の山となった新歌舞伎座の前で、竹次郎は茫然(ぼうぜん)と立ちすくみ、言葉を失います。(続く)
大正12年(1923)9月、関東大震災のため「東京新歌舞伎座」が廃墟と化しました。興行界の革命児といわれた双子の兄弟白井松次郎・大谷竹次郎は茫然自失(ぼうぜんじしつ)、さすがの松竹もここに命運尽きたかと思われます。
しかし、ややあって竹次郎は、
「もういっぺんやる。東京に皆さんが住んでもらうために、ぜったいに歌舞伎座は要る。娯楽こそ
人間が生きるエネルギーだ」
と叫びました。東京はもう住めない、何度も大地震が起こる、地方に行きなさい…と政治家から学者までこう語った時代の話です。

白井 松次郎(左)
大谷 竹次郎(右)
竹次郎は山ほど借金し、大林組に頼んで震災に強い鉄筋コンクリートの大劇場を建設します。こけら落としには歌右衛門、羽左衛門、幸四郎、吉右衛門らトップスターが出演し、心配した客席は超満員、自分らの住む家もないのに観劇に来てくれたのです。竹次郎は大阪からかけつけた兄松次郎と抱きあって、人目もかまわず大声で泣きに泣きました。 松次郎も着々と事業を進めます。「大阪歌舞伎座」「松竹座」「文楽座」等を建設・運営し、敏腕を発揮します。この松次郎に挑戦したのが、阪急の小林一三でした。一三は若いころ小説家を志した文学青年で、電鉄や百貨店を経営する事業家になっても忘れられず、宝塚少女歌劇を結成して自ら脚本や演出を担当したロマンチックな男です。
昭和7年(1932)一三は東京の有楽町に「東京宝塚劇場」を創設、これを省略して「東宝」と称する映画会社を作り、打倒松竹をめざして映画制作に入ります。負けるものかと松竹も対抗し、この競合が日本の映画界の発展に大きく貢献するのです。
戦後、空襲で壊滅状態になった東京・大阪で、兄弟はいち早く立ち上がります。あの時代の映画がどれほど生きる勇気を与えたか、ご存知の方は多いでしょう。昭和26年(1951)兄松次郎は74才で死去、弟竹次郎はこの年日本で初めての総天然色映画(当時のことば)「カルメン故郷に帰る」を、元・子役の高峰秀子を起用して制作しています。モノクロ映画が終わるのはこれからです。年老いても会長として松竹の先頭に立ち、同42年(1967)90才の天寿を全うしました。
「な、大きゅうなったら、母ちゃんに楽させような」
貧乏のどん底で幼い兄弟はこう誓いました。母の笑顔が何よりも楽しいと語った兄弟は、親孝行の手本だといわれます。(終わり)
鶴彬(つる・あきら)は、「手と足をもいだ丸太にして返し」という痛烈な句を詠み、反戦川柳作家のトップにあげるべき人物です。
彼は明治42年(1909)、石川県の高松町で生まれました。父は竹細工職人喜多松太郎、母はスズ、その次男で本名は喜多一二(かつじ)といいます。生後すぐに機屋(はたや=おりもの業)を営んでいた叔父喜多弁太郎の養子にもらわれますが、頭がよくて読書好き、文章も上手な子どもでした。ところが叔父の店が倒産し、泣きながら上の学校にやってと頼んでも聞き入れられず、小学校を出るとすぐ丁稚(でっち)奉公にやられます。
あちこちの商店や町工場でこき使われながら、周りがびっくりするほど難しい本を読みふけり、いつしか左翼的な哲学書や思想書にのめりこんでいきます。

鶴 彬
大正14年(1925)、川柳雑誌「影像」や「氷原」に喜多一児のペンネームで、「神さまよ今日のごはんがたりませぬ」「暴風と海との恋を見ましたか」など、キラリと光る作品を発表します。まだ16才です。
翌15年、此花区四貫島にあったいとこの喜多市郎を頼って来阪、町工場で汗と油にまみれて働きますが、重労働のわりに安い賃金に怒り、「五十世紀殺人会社殺人デー」という会社を批判した句を詠んでいます。
そのころ川柳誌「新生」を主宰するマルキシズム派の、森田一二という作家がおり、
「社会を風刺したり揶揄(やゆ=からかう)するだけでは、寝言と同じだ。さまざまな社会矛盾に、
体を張って対決せねばならぬ」
と常に主張します。一児は共鳴し彼を訪ね、昭和2年(1927)その紹介で上京、「川柳人」を刊行していた有名な川柳革新運動家井上剣花坊・信子夫妻の指導を受け、夫妻の勧めで故郷高松町に帰って、森田一二の思想を実践することに決めました。
筆名を鶴彬と変えたのはこれからです。今までのいっさいの過去を捨てると宣言、全日本無産者芸術連盟(ナップ=プロレタリア芸術を実現するための文芸団体)に加入、過激な作句を発表します。「踏みたるは釈迦とは知らず蟻の死よ」「めかくしをされて阿片を与へられ」「ロボットを増やして全部馘首(かくしゅ)する」「干いわしのごとく群衆眼をぬかれ」「街路樹は赤くみどりを去勢され」 など、川柳とはこっけいなユーモア文芸だという常識を、破ったものばかり作ります。(続く)
昭和5年(1930)1月、反戦川柳作家鶴彬(つる・あきら。本名喜多一二)に赤紙(召集令状)がきて、陸軍二等兵として金沢第七連隊第五中隊に配属されます。時に21才でした。
当時の社会運動家たちは、国家に反逆する不逞(ふてい=不満をいだき無法なことをやる)のやからとして、軍隊でたたき直してやるとの風潮があります。マークされていた彬はたまりません。3月10日の陸軍記念日に、鬼も震えあがるといわれた重営倉(懲罰を受けた兵士が入れられる牢)におくりこまれます。性根を直すため拷問・暴行おかまいなしという世界です。彼が何をしたのかはよくわかりませんが、上官の理不尽な仕打ちと軍隊の不合理性を、直接連隊長閣下に訴えたからだといわれます。まさに江戸時代の直訴(じきそ)の罪ですね。

鶴 彬
2、3ヶ月でボロ雑巾(ぞうきん)のようになって釈放されますが、翌6年、今度は「第七連隊赤化事件」の首謀者として、軍法会議(兵士の裁判)にかけられました。これも軍隊という世間と隔離された場所でのできごとですが、判決文が残っており、こんな内容が記されています。
「喜多一二は日本プロレタリア芸術連盟に所属、マルキシズム、無政府主義の過激書を愛読するうちに、わが帝国の立憲君主制を廃し、プロレタリア独裁の共産主義社会の実現をめざしていた。そのためひそかに無産青年新聞を入手、隊内に回覧者をつのり仲間を増やそうと画策する。まず二等兵角田通信に親切ごかしに接近し、きみはこんな安い給料でこき使われ、殴られ蹴られ、あほらしくはないかと話しかけた」
「次に通信の実家金沢市南長門町の角田利三郎方を喜多宛郵便物の受け取り先にするよう説得し、厳封した同新聞を入手、兵士仲間に熟読すべしと回覧する」
「大学卒業者はいないかと探し回り、大江均二等兵をみつける。大学卒業者はマルクス・レーニン主義を理解しておるからだ。大江は自分はキリスト教信者で思想に興味はないと断ったが、執拗につきまとい、ついに回覧発起人に加えることに成功した」
ほかに喜多の手箱から、「ソビエートロシア、日本共産党万才」と手書きの紙片を押収したとして、「治安維持法第一条・第二条」に該当すること明白だと、彬は懲役2年の実刑判決を受けます。 (続く)
昭和6年(1931)川柳作家で金沢第七連隊所属の陸軍二等兵鶴彬(つる・あきら、本名喜多一二)は、隊内で反戦活動をした(治安維持法一・二条該当)罪で、懲役2年の実刑を課せられ大阪に護送、大阪衛戍(えいじゅ)監獄に収監されます。
大阪はかつて彬が川柳革新運動のスタートを切った思い出の地ですが、兵士専門の監獄で、その厳しさは言語に絶しました。殴る蹴るは日常茶飯事(さはんじ)、冬は野良犬でも耐えられぬ寒さに凍え、夏はシラミや南京虫に存分に血を吸われ、おできだらけになります。
この年はドイツにヒトラー内閣が生まれ、作家小林多喜二が警察に虐殺(ぎゃくさつ)され、京大に滝川事件(学者に対する思想弾圧)などが起こり、軍国賛美主義に染めあげられる時代です。

彬の色紙
同8年12月刑期が終わり、軍隊不適者として除隊になりますが、居場所がない。日雇い労働をしながら川柳雑誌に投稿しますが、恐がって誰も相手にしてくれません。そんな彬にあたたかく手をさしのべたのが、以前彼の才能を愛しかわいがってくれた井上剣花坊の夫人井上信子でした。彼女は、発行していた川柳誌「蒼空」の編集業務を任せ、さらに知人に働きかけて「鶴彬に生活を与える会」を作り、鶉(うずら)の卵を販売する募金運動にのりだします。さすがの彬も人の情におセンチになったのか、「枯芝よ団結して春を待つ」「日給で半分食える献立表」といったおだやかな句を詠んでいます。 昭和12年(1937)7月、日本軍は中国侵攻を開始、帝国政府は日独伊防共協定を結んで、徹底的に左翼作家・文化人の執筆禁止にのりだしました。怒った彬は「しゃもの国綺譚(きたん)」を発表、「興奮剤打たれた羽たたきてしゃもは決闘に送られる」「つゐにねをあげて倒れるしゃもに続く妻(め)どり子どりの暮らし」「しゃもの国万才と倒れた屍(しかばね)を蝿がむしっている」など、字数を無視した痛烈な諷刺川柳を作ります。
この年12月、信子の世話で深川木材通信社に就職した彬は、翌13年2月、特高(思想犯専門の特別警察)に逮捕され、リンチのようなむごたらしい取調べを受けて、同年8月29才で死亡しました。警察の発表は赤痢(せきり)による病死だとなっています。(終わり)