早川徳次は早川電機(シャープ)の創業者ですが、その生涯を知れば、誰もが感動することでしょう。
彼は明治26年(1892)東京の日本橋に生まれました。実母が病弱で育てられないので里子に出され、2つで早川家の養子になります。間もなく後添えの養母が来ますが、ひどく徳次を嫌い冷たくされ、衣服はむろん、食事もろくに与えられない幼少時代を過ごし、学校なんて行かんでええ、ゼニがかかると小学校2年で退学させられました。
9歳で錺屋(かざりや・金属の装飾品を作る職人)の家に丁稚(でっち)として住みこみます。ガリガリに痩せた徳次を見て情け深い親方がうどんをとってやったところ、こんな太い白みみずは気持ちが悪いとしりごみしたとの話が残っています。
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早川 徳次氏
10年間徳次は身を粉にして働き、親方もかわいがって秘伝の技術を授け、大正1年(1912)独立させて小さな店をもたせます。
「お前、学校にいっとらん。親類もない。おまけに金までない。その貧乏人が他人様に負けないためには、 どこの店も作ってない物を工夫する。これしかないぞ」
親方にさとされ知恵をしぼったあげく、紳士用ベルトのバックルを考案します。穴どめバックルは腹回りの変化で合わなくなる、早川バックルなら自由自在です。続いて同4年、回転式で芯を出し入れする「シャープペンシル」を発明、特許をとって大当たりします。
シャープペンシルは1883年、アメリカでエバー・シャープの名で販売されたのが、世界で初めてです。徳次は芯を折れないように太くし、軸を回して出し入れする方式を開発、万年ペン(当時はインキ壺にペン先をつけて字を書く)に対抗したのですが、これがヒットし、ベンチャー企業として頭角(とうかく)を現します。
しかし人生、いつ不幸がくるかわかりません。新しい工場も建て従業員も増えた大正12年(1923)9月、関東大震災が襲いかかります。工場も自宅も倒壊し全焼、財産どころか妻と2人の愛児を失い、自分も全身に大火傷を負いました。
幸せの薄かった少年時代をひきずる徳次は、誰よりも家族を大切にしています。家族の笑顔を見るのが生き甲斐でした。お父さんもいくでと叫んで、知人からお前が死んでなんになると、ほっぺたをひっぱたかれたほど、再起不能のありさまとなりました。 (続く)
大正12年(1923)関東大震災のため、工場・家屋はむろん妻と2人の子供まで失った町工場の主人早川徳次は、自分も大火傷を負い、いったんは生きる望みをなくしましたがようやく立直り、妻子を供養するのが務めだと思い直し、翌13年大阪に移り、早川金属工業所(シャープ株式会社の前身)を創設します。そして丁稚(でっち)小僧だったとき
「お前は学歴も知りあいも金もない。あるのはアイデアだけや。人のやらんもん作らなあかんぞ」
と親方からいわれた言葉を思いだし、アメリカからきたラジオをとりよせ、分解して研究に入ります。
もちろんたった1人でです。

翌14年、鉱石ラジオの製造に成功、この年はJOBKがラジオ放送を始めましたのでたちまち注目を集め、とぶように売れます。国産第1号のラジオはこれです。白黒テレビ、カラーテレビ、電卓等も、多くの電気器具メーカーがあるなかで、国産第1号はすべて徳次のシャープです。彼がどんなにパイオニア精神の持ち主だったか、よくわかりますね。
徳次がテレビの試作にとりくんだのは、昭和6年(1931)からです。世界で最初にテレビの映像実験に成功したのは、1925年、イギリスのJ・ベヤードですが、日本ではこの翌年の12月、浜松高等工業学校(現・静岡大学)教授高柳健次郎が、直径15㎝のブラウン管いっぱいに、カタカナの「イ」を浮かびあがらせたのが最初です。ただし方法・技術はベヤードとは全く異なります。
徳次はさっそく健次郎の部下の技術者を招き、費用を惜しまず本格的な実用化を試みたのです。BKも応援、会社内に研究施設を作り、画面映像実験に成功しますが戦争がきびしくなり、やむなく中断されます。あと一歩だったのに…と残念がった徳次は、戦後いちはやく他社にさきがけて試作を再開、昭和26年(1951)国産テレビ第1号を市場に出しました。このときの価格は1台29万円、公務員の初任給が9千円だった時代の話です。なお松下幸之助のナショナルは、1年おくれて同27年に発売しています。
シャープはアメリカのRCA会社と業務提携し、価格をさげて同29年頃から1台12万円で量産体制に入ります。徳次はもっと値段を下げたい、そのためには売れなければならぬと宣伝・広告に知恵をしぼりますが、もと大相撲力士の力道山が、前代未聞のプロレス興行を始めようとするのに目をつけます。(続く)

「なんとかして国産テレビの普及化をはかろう」
と考えた早川電機(シャープ株式会社)の創業者早川徳次は、もと大相撲力士力道山が日本で初めて興行する
プロレスとタイアップします。
昭和29年(1954)アメリカから帰国した力道山は、世界タッグチャンピオンシャープ兄弟を相手に、柔道の木村政彦7段と組んで、世界選手権大会を興行します。徳次はこれをテレビで中継し、宣伝効果をねらって街頭にタダで見られるテレビを設置しました。なにしろ敗戦で頭のあがらぬアメリカの大男兄弟を、小柄な力道山がたたきのめすのですから痛快無比。交通整理のための警官が出動するほどの大人気、テレビは3種の神器の一つになり(あとは冷蔵庫・洗濯機)、爆発的に売れます。徳次が大企業の経営者になったのはこれからです。
しかし彼はなに ごとにも独占を嫌いました。他社が類似の製品をだしたと部下が訴えても、人に真似される製品が作れたとは嬉しいといいきかせ、ナショナルやサンヨーとの競合をむしろ喜びます。昭和38年には太陽電池、同39年には卓上電子計算機を市場に出しますが、いずれも国内ではシャープがもっとも早いです。
幼いころ徳次は継母にいじめられ、戸外にほおりだされました。寒風に薄着1枚、こごえてお母ちゃん、カンニンして…と泣いていたところ、盲目の女性がとおりかかり、継母にとりなしてくれたことがあります。
ようやく小さい町工場の主人になったのに、関東大震災で家屋・工場どころか最愛の妻と2人の子供を失った悲惨な体験も持っています。そのせいか偉くなってからは、生活苦にあえぐ人たちや、身体に障害のある方たちの雇用には積極的で、昭和25年には身障者だけの合資会社「早川特選金属工場」を設立しています。現在ならともかく、まだ敗戦のどん底生活が続いていた時代の話ですよ。
同35年、カラーテレビ21型を開発した徳次は、10年後社長職から退き、会長になりました。シャープは家電メーカーからエレクトロニクス企業へ飛躍しますが、会社経営にはほとんど口を出さず、中小企業経営者たちの相談相手を務めます。不況のときほど相談者は多く、世に「早川詣(もう)で」と呼ばれます。昭和55年(1980)6月、87歳没。
早川福祉会館(東住吉区)は、彼の寄金をもとに設立された自立支援センターです。(終わり)
火薬や飲料水で問題をおこしたユニバーサルスタジオ・ジャパンも盛況で、斜陽気味だった映画文化が見直され、大阪の経済効果も期待できるのは嬉しいことです。
今号からお話しする山川吉太郎は、まだ映画に音も声もなかった無声時代に、空前のヒット作といわれる「籠の鳥」を製作した大阪映画界の先駆者です。
明治45年(1912)後に「ミナミの大火」と呼ばれる大火事で、大阪の歓楽街千日前は焼け野原となりました。ミナミがすたれると商都大阪は壊滅する、なんとかしたいと復興運動にのりだした南海電鉄社長大塚惟明(これあき)は、焼け跡に近代的な興行場を作り人寄せの目玉にしたらと考え、山川吉太郎に頭を下げます。吉太郎は明治9年(1876)生まれ。当時は活動写真館「三友倶楽部(くらぶ)」を経営し、天然色活動写真会社(略称・天活)の大阪支社長をかねていました。アイドル役者山崎長之輔を育てた敏腕の興行主です。

山川 吉太郎氏
「な、ミナミのためや。一肌ぬいでくれ」
と、かきくどく惟明に、
「あんたとこの電車の乗客集めたいからやろ」
と冗談をいいながら、
「カネは出せよ」
と念を押してひきうけます。
彼の計画は遊ぶことならなんでもできるレジャーの綜合施設を作ることでした。火災の跡地で土地がバカ安だったのも幸いし、大正2年(1913)1月、大阪の興行史に残る「楽天地」がオープンします。1300坪の土地に地下1階地上3階の円形ドーム型の巨大な建物で、イルミネーションが輝き、「不夜城」と呼ばれます。遊園地ですが大劇場1小劇場2をもち、大劇場では外国映画、小劇場「朝陽殿」はお笑いで、ウグイスチャップリンや花菱アチャコらの出演で男性向き。「月宮殿」は少女琵琶劇で若い娘さん好み、大正時代のクレイジーキャッツと今ではいわれる巴家(ともえや)寅子一座の悲恋劇に、オイオイ声をあげて泣きました。この中のとびきりかわいい少女が人気を集めますが、彼女が後の名優田中絹代です。
地下には水族館・ローラースケート場からパチンコなどの遊戯施設まであり、一日中老若男女を楽しませます。ミナミの被災者たちが何を求めていたのか…吉太郎はそれを熟知しての企画でした。(続く)
大正2年(1913)1月、「ミナミの大火」で焼け野原となった千日前に、南海電車社長大塚惟明の援助で、復興の呼び水となる綜合レジャー施設「楽天地」をオープンして大成功をおさめた興行主山川吉太郎は、すぐに経営の意欲を失います。
ベンチャー企業家の宿命でしょうか。さらに新しい事業をおこしたいと、腹の虫がうずうずしてきたのです。同9年、今度は北浜の相場師松井伊助と組んで、映画制作会社「帝国キネマ」を創立します。
伊助は文久3年(1863)生まれ。中央公会堂を寄付したあの岩本栄之助の配下でしたが、2年前に天候異変と大地主や投機商人たちの買占めで異常なほど高騰した米相場を切り崩して大衆から歓迎され、新聞まで「世直し明神伊助様」と書き立てた義侠心に富む男でした。

沢 蘭子
「東京の日活や松竹に負けない大阪の映画会社を作りたい。あんたの東京嫌いをみこんでの頼みや」
吉太郎にこういわれた伊助は、確かに官界や権力が嫌いの反骨精神の持ち主です。
「よっしゃ。わいも力貸したろ」
と快く出資を引き受けてくれます。
大正12年(1923)、二人は当時の南区日吉橋4丁目に「帝国キネマ演芸株式会社(略称帝キネ)」を設立します。この年9月、関東大震災がおこり、東京の大手映画会社「日本活動大写真会社(日活)」や、「松竹キネマ会社(松竹)」が倒壊し、大打撃を受けます。吉太郎はライバルとめざした両会社の不幸に心から同情しますが、東京嫌いの商魂もむっくり頭をもたげてきます。
「よし、今こそ大衆好みの名画をヒットさせ、大阪のド根性みせてやる」
知恵をしぼった吉太郎は、宝塚少女歌劇団の生徒で、まだ16歳の無名の少女沢蘭子に眼をつけました。
蘭子はふだんは陽気でお茶目な、どこにでもいる女の子でしたが、まつげが長く瞳(ひとみ)を伏せるとたまらないほど悲しげな表情になる。そこにほれこんだのです。
さっそく若い脚本家松屋春翠(しゅんすい)を呼び、蘭子の悲しげな表情の横顔を何度も見せ、
「ええな。このイメージや。なんでもええさかい、おもいきりかわいそうな話を書いてくれ。
ぜったいハッピーエンドはあかんで」
と、念を押しました。(続く)
大正13年(1924)、東京の日活や松竹に負けるものか、活動写真(映画)界に大阪の底力を見せてやると意気ごんだ帝国キネマ(帝キネ)社長山川吉太郎は、宝塚少女歌劇の無名の生徒、16才の少女沢蘭子を起用して、青年脚本家佃血秋(つくだちあき)に思いきり悲しいホンを書けと命じます。
世間にもれたらあかん、はよ書けとお尻をたたかれた春翠は、徹夜してたったひと晩で映画史上に名を残す「籠の鳥」を書きあげます。資金の乏しい吉太郎は、浜寺と嵐山をロケ地に選び、これまたたったの7日間で完成させました。費用はわずか3千円です。
同年8月、吉太郎は帝キネの直営館にしていた芦辺劇場と、九条(西区)の高千代座で封を切りますが、おそろしいほどの反響となり観客が殺到し、入りきれない人たちが劇場をとりかこんで順番を待つありさまとなりました。

沢 蘭子
筋は実に単純明快です。まず蘭子の扮する船場のいとはん「お糸」が窓に寄りかかり、伏目になって得意の憂いにみちたもの悲しい表情をします。無声映画の時代ですから、説明は弁士の高橋鶴瞳(かくとう)が、思い入れよろしく美声をはりあげます。
「お糸は恋しい文雄との仲をひきさかれ、心すすまぬ親の縁談を断ったため、いまは一室に監禁されておりました。文雄に出した速達の手紙の返事も来ず、望みもついに絶えはてて、うつろに見上げる目の前の、軒に下がった鳥籠の、中の小鳥は哀れな姿、哀れなれどもそれはつがいの比翼鳥、されどお糸はひきさかれ、破れし恋の痛手を胸に、泣いて嫁ぐか片羽鳥、切なる思い血を吐く叫び、声しのばせてこの思い、恋しき人に届けよと、文雄さん、文雄さーん、愛(いと)しき人の名を呼べば、答えるように誰やらが、歌って通るこのメロディ…」
そして舞台の袖から楽師が悲しい音色でバイオリンを演奏し、女性歌手がか細いソプラノで歌うのです。
「あいたさみたさに こわさを忘れ 暗い夜道を ただひとり…」
するとバリトンの男性歌手が、
「あいにきたのに なぜ出てあわぬ いつも呼ぶ声 忘れたか…」
と、応じます。
これだけで客席のあちこちから、すすり泣きがおこりました。(続く)
大正13年(1924)8月封切りの、帝国キネマ(帝キネ)社長山川吉太郎が製作した無声映画「籠の鳥」は、映画史上に残る大ヒット作になります。その理由は、主役のヒロイン16歳の美少女沢蘭子の悲しげな表情と、主題歌にありました。
「あいたさみたさに こわさを忘れ 暗い夜道を ただひとり」
「あいにきたのに なぜ出てあわぬ いつも呼ぶ声 わすれたか」
か細いすすり泣くようなソプラノと、哀愁に満ちたバリトンの男女二人の歌手の歌声は、受けに受け ます。 年配の読者なら誰もがご存知の6節からなるスローテ ンポの歌声にあわせて、客席の女性たちはハンケチで目頭を押さえました。直営館の芦辺劇場も高千代座も連日大入り満員、入りきれぬ客が劇場の回りを四重、五重と行列を作り、何時間も待ち続ける大騒ぎとなります。
大阪市内は「籠の鳥」のメロディであふれ、大阪を小馬鹿にしていた東京の興行主たちも、争ってフィルムを入手しようと袖の下まで使うありさま、宝塚音楽学校の生徒だった無名の蘭子は超アイドルとなり、どこへ行っても「お糸さあん(役の名)」と黄色い声がかかります。特別功労金として千円と着物に帯を買ってもらった蘭子は、
「このお金で甘いもの食べたい」
と答えています。
3千円の制作費で35万円もの収益をあげた吉太郎は、全額つぎこんで長瀬(東大阪市)に、「帝キネ長瀬撮影所」を建設します。
しかし結局、日活や松竹に勝てませんでした。映画技術が進み、活動大写真の時代が終わると潤沢な資本がなければ太刀打ちできなかったからです。おまけに戦時体制に突入して社会不安がつのり、映画界は不況におちいっていました。
焦った吉太郎は、いったん死んだ「籠の鳥」のヒロインお糸を復活させ、続編を製作したのですが、とっくに時代おくれになっており、さんざんの成績で、大阪に映画王国をと夢見た彼は敗北します。
事業拡張の無理も重なり、昭和6年(1931)帝キネは松竹に吸収されて消滅、吉太郎は莫大な借金を背負い、3年後の同9年4月、「籠の鳥」の主題歌を歌ってもらいながら世を去ります。58歳でした。 (終わり)
戦前、売買春産業がもっとも盛んだったのは、大阪だといわれます。女性の体がまるで商品のように品定めされ、売買されるとは全くひどい話です。そんな時代にあって、遊郭(ゆうかく)から逃げてきた娘さんを助けたことから、売買春禁止、遊郭廃止を法律で定めることこそ女性解放運動の原点だと考え、正面から立ち向かっていったのが林歌子です。
彼女は元治1年(1864)越前(福井)の大野に生まれました。父の林長蔵は大野藩の徒士(かち)で、その長女です。徒士というのは殿さまが馬やかごで行列を組んで出かけるとき、先頭を歩いて先払いを勤める身分の低い武士のことです。
それで経済的には恵まれませんでしたが学問好きで、若いころ長崎に遊学を志して果たせなかったことを一生後悔し、自分の夢をたくそうと幼い歌子に儒学(じゅがく)を教え、
「これからは女であっても勉学せねばならぬぞ」
と、頭をなでていいました。

林 歌子氏
歌子が3つのとき生母が病没、継母が来ますが大変やさしい人で歌子をかわいがり、裁縫や料理などこまごました家事を熱心にしこみます。すると父は、
「うたは賢い子だ。そんなことはやらせるな。将来は学者にして、お国のために役立たせたい」
ととめましたから、それを聞いた同僚たちは、
「親バカもいいとこだ。長蔵のやつ、なに寝言いうとる」
と大笑いしました。
明治10年(1877)福井に女子師範学校ができると父は歌子を受験させ、歌子は見事合格します。女子師範は大変難しい学校でしたから、元・家老の娘たちも不合格でしたので、周りはあっけにとられます。両親が苦労して学費を作るのを知っていた歌子は猛勉強し、師範の成績もトップグループ。あるとき学校視察に来た大隈重信(総理大臣や早稲田大学総長を務めた学者政治家。外相時代テロにあい、爆弾で片足を失う)に、生徒代表として研究発表するよう命じられ、「日本外史」(頼山陽著の日本歴史の裏面史。難しいが面白いことは無類)を講義します。びっくりした重信は、
「いやぁ、感心した。キミはきっと偉くなる。もっと勉強しなさい。これは本代だ」
と、金一円也の大金を包んで差し出しました。(続く)
明治13年(1880)、福井女子師範学校を卒業した16歳の林歌子は、大野小学校の教員になりますが、4年後、一生に一度の、やはり小学校教員の阪本大円と恋愛関係になります。父の長蔵は大円が林家に養子に来る条件をつけて結婚を許しますが、初めは承知した阪本家も、大円は阪本家の相続人だ、嫁に来なければ認められないともめだします。
そのうちに、古い因習(いんしゅう)に縛られるのは嫌だ、駆落ちしても一緒になろうといってくれた大円が、いつのまにか親のいいなりになって、嫁に来ないのなら別れても仕方ないと背を向けます。当時は家父長権が絶対でした。憲法24条にわざわざ「婚姻は両性の合意にのみ基いて成立」と記されているのは、このような過去があってのことです。このときの痛手が、男性を中心とした古いモラル「家」の制度に対する反発となり、女性の権利を守りたいとの歌子の生きかたの、原動力になっています。

矢島 楫子(左)と歌子氏
同18年傷心の歌子は故郷を捨て、東京へ出てキリスト教に救いを求め、「神田教会」に通い、牧師ウィリアムズと出会います。彼の語る西洋の文化と人権尊重の思想に、目のうろこのはがれる思いがした歌子は入信し、立ち直る一歩をふみだします。またウィリアムズの世話で立教女学校教員になりますが、ここで矢島楫子(かじこ)を知り、大きな影響を受けました。
楫子は21歳も年上で、肥後(熊本)の大庄屋家に生まれます。姉久子は徳富蘇峰(思想家)・盧花(小説家)の母親、次姉せつは横井小楠(思想家、明治維新後暗殺される)の妻という賢女3姉妹の妹です。富豪林七郎と結婚しますが夫は酒好きの道楽者、とりわけ女性関係がだらしなく、何度もけんかしたのち3児を置いて離婚。東京へ出て牧師タムリンの洗礼を受けキリスト教徒になり、「東京婦人矯風(きょうふう)会」を起こし、一夫一婦制を主張、女性の地位向上に尽力しました。夫婦が一夫一婦であるのはあたり前ですが、
「お妾(めかけ)さんを持つのは男の甲斐性や」
とほめられるほどの、男勝手な時代だったのです。
また歌子は神田教会で、小橋勝之助・実之助兄弟とも親しくなります。兄弟は教会男子部のリーダーで、
「恵まれない子どもたちの福祉に役立つ施設を作りたい」
といつも熱っぽく語っており、歌子はその夢の実現のために協力したいとの思いがつります。 (続く)
明治25年(1892)東京神田教会の小橋勝之助・実之助兄弟と林歌子は、兄弟の故郷赤穂(兵庫県)の矢野村で、貧しくて親からほおりだされた子どもたちの救済施設「博愛社」を設立します。兄弟や歌子の考えは、
「孤児救済事業は恩恵ではない。自給自足が基本だ。働いて生きる苦しみと喜びを自覚させることが、真の自立の第一歩だ」
というなかなか進んだものでした。それで3人は幼い子どもたちと田畑で泥まみれになって働きますが、当時の社会情勢は無関心どころか、物好きな連中やな、なんか魂胆(こんたん)があるんやろと嘲るありさま。裕福な小橋家の親族からも嫌われ、この運動はすぐに経済的に破綻(はたん)し、おまけに病弱だった勝之助は死亡します。
やむなく実之助と歌子は、どうしてもいきばのない数人の子どもをつれて大阪へ移り、キリスト教徒で慈善家の阿波松之助の援助を受け、昼は田畑を耕作し、夜は歌子は夜学校の教員、実之助は理解のありそうな企業や教会を訪れ、必死になって理想を語り協力を求めました。

歌子の胸像
博愛社(淀川区)
明治32年(1899)念願かなって2人は神津村(現・淀川区十三元今里)に土地を求め、小さな施設「博愛社」を再建、大阪で初めての孤児救済運動を展開します。もちろん公的機関の援助などはありません。それからの2人の苦労はとうてい筆では表現できないほどですが、血と涙の奮闘を重ねてようやく礎(いしずえ)のできた同37年、歌子は博愛社運動に共鳴したプール女学校教員山本カツエに懇願して実之助と結婚してもらい、博愛社の経営を夫婦にまかせて去っていきます。もちろん前号で紹介した尊敬する矢島楫子(かじこ)を支え、矯風(きょうふう)会活動を広げて、女性の地位向上に取組むためです。
なおこのカツエが、のちに「大阪福祉活動のお母さん」と呼ばれる小橋カツエです。彼女はすぐ落ち込んで悲観する夫・実之助を励まし、苦しい生活にめげず次々に新しい企画を実行し、現代的な福祉理念を持つ博愛社に育てあげた功労者です。とくに終戦後、焼け野原になった大阪市中をさまよう戦災孤児たちを救った功績はまことに偉大で、いつか別の機会にぜひお話したい女性です。
明治38年(1905)、歌子は楫子と渡米し、「万国矯風会大会」に参加してびっくりしました。日本社会の後進性、とくに女性に対する差別・偏見をいやというほど痛感したのです。 (続く)

女性の地位と権利の向上をめざす「万国矯風(きょうふう)会大会」に参加するため渡米した林歌子は、男性中心の日本の社会構造を変革しなければ女性の人権はふみにじられるばかりだと考え、積極的にいろいろなところで講演し、日本の実情を語り、
「女性の社会進出を妨げる男性優位社会を打破する拠点を設けたい」
と訴えます。各国女性団体やキリスト教団体などもカンパし、募金1万5千円を集めることに成功、明治40年(1907)帰国してこれを資金に大阪市北区中之島に、「大阪婦人ホーム」を設立しました。ホームの趣意書に、「婦人ノタメノ職業ヲ紹介シ、保護救済ヲ目的トス」と記されています。
女性がなぜ男性の庇護下にあり、理不尽な父親や乱暴な夫のふるまいを甘受(かんじゅ)せねばならないのか、それは女性に収入がないからだ…歌子の思想はここから出発します。「女、三界に家なし」「娘時代は父に従い、嫁いでからは夫に従い、老いては子に従え」といった江戸時代の古くさい「婦道」がまだ残っている世の中です。
①女性の自立には経済力が必要だ。まずホームでは手に職をつけさせよう。
②横暴な男たちから逃げてきた女たちの避難所にしよう。ホームは現代のかけこみ寺だ。
歌子たちはとりあえずこの2点をホームの努力目標にします。
この時代、女性に仕事をあっせんする公的な職業安定所は、ほとんどありませんでした。たいていは営利が目的の、俗称「口入れ屋」が世話をしますが、雇主と結託(けったく)して不当な仲介料をとり、できるだけ低賃金に押さえるのが腕がよいともてはやされました。ですから大阪婦人ホームは手仕事を教えただけでなく、無料の職業紹介所の機能も発揮します。
明治41年(1908)そんな歌子の人生観を変える大事件がもちあがりました。松島遊郭(ゆうかく。当時西区内)から、しづという接客婦が助けてと泣きながら逃げこんできたのです。まっ青になって語る彼女の身の上話に、歌子はもらい泣きします。
しづは幼いころ両親がはやり病であいついで亡くなり、叔父に引き取られました。ところがこの叔父がひどい男で、自分のくいぶちぐらいかせいでこいと子守奉公に出し、女中・店員・工員と働かされ、年頃になると松島遊郭に売りとばしてしまったのです。 (続く)
明治41年(1908)歌子が経営する女性の自立と権利向上をめざす施設「大阪婦人ホーム」に、松島遊郭からしづという接客婦が助けてと逃げこんできました。
しづは幼い頃、両親と死別し叔父に引き取られますが、この叔父がひどい男で物心つかぬうちから子守奉公に出され、女中・店員・工員と働かされ、年頃になると遊郭に1300円で売りとばされたのです。お金は全部叔父が着服、これを前借りだと称し、しづが利息をつけて5年間で返済する証文が入っていました。このお金は大変な高額です。
しづは毎日めまぐるしく変わる客を相手に働きますが、やがて性病をうつされ、客がとれなくなります。仕方なく同僚の炊事・洗濯・店の掃除などにこき使われますが、遊郭の主人から治療どころかこのごくつぶしめと殴る蹴るの暴力をふるわれ、おまけに病気もひどくなり、とうとうたまらなくなって、風のたよりに聞いた婦人ホームに救いを求めた…というのです。
はじめて遊郭の実情を知った歌子は、涙をぬぐってこう決心します。
「真の女性解放は遊郭を廃し、地獄の底であえいでいる女たちを助けだすことから始めるべきだ」
「女性の体を商品のように値ぶみする売買春産業ほど、人間の尊厳をふみにじるものはない」
翌日から大阪婦人ホームには、遊郭に雇われた屈強な男たちが押しかけ、
「女をかくしたやろ、出さんとひどいめにあうぞ」
と脅迫します。しかし歌子は必死になってかくまい、医師の診察を受けさせ、しづが小康をとりもどすと近所の町工場で働いてもらいます。
「働いて生きる苦しみと喜びを自覚する。これが自立の第一歩だ」
というのが歌子の信念でした。
その頃の町工場は、1日に10時間労働、休みは月3回、休憩は昼休み30分だけ、給料は日給80銭という厳しい条件が一般的でした。ところがしづは嬉々(きき)として喜び、
「先生、まるで極楽にいるようです。お金ためて、きっとホームに恩返しします」
といそいそと働きに出ます。その姿をみて歌子は、「売買春禁止運動」を一生の仕事にしようとかたく神に誓いました。
翌42年7月、のちに「キタの大火」と呼ばれる大火事で、「曽根崎新地遊郭」が類焼します。歌子はチャンスだと立ち上がりました。 (続く)
明治42年(1909)、のちに「キタの大火」と呼ばれる大火事で、曽根崎新地遊郭が類焼します。売買春禁止運動の先頭に立っていた歌子は、社会運動家山室軍平・島田三郎らと遊郭再建反対運動を起こし、2万人に近い署名も集め、ついに大阪府は「曽根崎新地貸座敷免許廃止」通達を出します。
続いて同45年、今度は「ミナミの大火」で難波新地遊郭が焼失、歌子たちはただちに廃止運動を強力に進め、これまた成功します。いずれも偶然火災が生じたせいですが、歌子たちがもりあげた世論の高まりがあっての成果です。
いっぽう業者や事業主、それに一部の政治家やマスコミは危機感をつのらせ、遊郭必要のキャンペーンを展開します。彼らの主張を要約すると、①遊郭がないと若い娘さんが男達に襲われる。遊郭は女性の純潔の防波堤だ。②女性が手になんの職がなくても、親・兄弟を助けられるのは、遊郭があるからだ。遊郭は親孝行の源だ。③遊郭は江戸時代からの社交場だ。あればこそ商いが円滑にはこぶ。廃止すると大阪の経済地盤が沈下して、大不況になる。といったまことに腹立たしい屁理屈でした。

署名活動中の歌子
結局、遊郭賛成論者に押しきられた大阪府は、大正5年(1916)告示107号で、「天王寺村の飛田(とびた)に、市内のすべての遊郭を集める」と発表。2万坪の広大な敷地に、日本一の大規模な歓楽地「飛田遊郭」の建設にふみきったのです。
歌子はキリスト教徒で社会運動家・宮川経輝(大阪YMCAの功労者)を委員長に頼み、有志とともに「飛田遊郭設置反対同盟」を結成、建設阻止(そし)に死力を尽くします。小・中学校保護者会(現PTA)に教育上重大な支障ありと働きかけ、署名・講演活動を起こし、母親たちと大阪府庁に陳情のためのデモ行進を実行します。おそらく大阪では初めての「女だけのデモ」だったと思います。
また宙返り飛行で世界各地を巡業していたアメリカの飛行家A・スミスが、おりよく大阪に来ていたので頼みますと、気難し屋のくせに大賛成、
「わがはいに任せなさい」
と無料で大量の建設反対ビラを空中からまいてくれ、これも話題になりました。さらに歌子は女子師範在学中にほめられた大隈重信(当時首相)を訪ね、彼も協力を約束してくれます。(続く)
大正6年(1917)歌子らの建設反対運動は完敗し、夜も煌々(こうこう)と光り輝くまるで不夜城のような日本一の大遊郭「飛田遊郭」が竣工します。歌子たちは巨大な建築物を回りながら、マイクで「ハンタイ、絶対ハンターイ」と、むなしく叫びつづけるばかりでした。
市民の支持も高かったのになぜ失敗に終わったのでしょうか。答えは簡単です。遊郭設置を推進した府議会・市議会の議員の中に、かなりの遊郭関連業者がまじっていたからです。それに府・市議会には、1人の女性議員もおりません。いや、いないどころか女性には立候補はおろか、投票権すらなかったのです。
戦い敗れた歌子は、私たちの代表を送りこまねばどうにもならないと考え、「婦人参政権獲得運動」に方針をきりかえます。
「なぜ女は政治からしめだされているのか」「どうして投票権すら奪われているのか」

林 歌子氏
と歌子たちは訴えますが、軍国主義に染められていく世間から、白い眼でみられるようになります。
それでも彼女はくじけません。「日本婦人平和協会」の発起人となり、ガントレット・恒(つね、旧姓山田。国際的な平和活動家)とロンドンの軍縮会議に出席、また「日本矯風会会頭」に就任、あるいは中国に渡り北京に孤児救済施設を開くなど、海外にも活動範囲を広げながら、女性の政治参加を認めるよう訴え続けます。けれども軍国日本は中国侵入政策を強行し、軍事衝突から戦争に拡大する流れのなかで、歌子たちの運動は徹底的に弾圧されてしまいました。
昭和20年(1945)本拠の「大阪婦人ホーム」は強制疎開の名目で破壊され、高齢も重なって気力の衰えた歌子は、茨木市のホーム分館に移り、静かに祈りの生活に入ります。
翌21年3月24日、81歳で他界。病床で占領軍が「公娼廃止に関する覚書き」を出したと聞いた歌子は、
「戦争に負けてよかったね」
と、ぽつりとつぶやいたといわれます。その8ヶ月後に「女性参政権」が成立し、初の女性国会議員が誕生するのです。
いまセックス産業は花ざかり。売買春はとっくに法律で禁止されたはずなのに、援助交際とかなんとかサイトとか、あやしげな商いがはやっています。あの世で歌子さんはどう思っておられるでしょう。もうひとつ、若い娘さんたちにお願いがあります。「センキョはジャマクサー、投票ヤーメタ」なんていわないでくださいね。(終わり)
敗戦後の大混乱の真っ暗な日本を、名曲『青い山脈』や『東京ブギウギ』で、元気づけた作曲家です。妹の歌手服部富子が、
「うちのお兄ちゃんは、日本のベートーベンよ」
と自慢したのも、あながち身びいきだけではありません。
良一は明治40年(1907)大阪市中央区の玉造に生まれました。父は近くの砲兵工廠(軍の武器を製造する工場)の工員さんで、貧しいながら律義な正直者、やさしい母にもかわいがられて育ちます。
東平野小学校在学中は成績抜群、いつも親友の安井郁(後の東大教授。原水禁市民運動のリーダー)と、首席を争うほどでした。この小学校の先輩に作家武田麟太郎、後輩に織田作之助(ともに本紙で紹介)がいます。

服部 良一氏
しかし新聞配達して家計を助ける良一は、郁のように中学校にはいけませんでした。担任の先生は気の毒がり、昼は工場で働き、夜は天王寺商業学校の夜間で学ぶよう世話します。それでもひたすら角帽(国立の大学生がかぶった帽子)生活を夢見ていた良一は、淋しくてたまらない。いつしかひまのあるときは、ハーモニカを吹いて心を慰めるようになりました。
夜間部を卒業するころ、道頓堀のうなぎ屋『いづも屋』に奉公していた姉が
「良ちゃんのハーモニカうまい。どう、いづも屋に少年音楽隊ができるねんて。あんたやったらきっとうかるで」
と誘いました。
明治42年三越百貨店は、かわいい制服を着た少年音楽隊を結成し、店内でナマ演奏して客たちを喜ばせます。三越にいったらタダで聴けるでと評判になり、阪急電車の社長小林一三もやってきて、
「こらおもろい。うちもやろ。うちは女の子でやったろ」
と真似たのが、今の宝塚歌劇の起こりです。いづも屋もチェーン店を広げるため、宣伝に力をいれる必要がありました。
大正12年(1923)9月、16歳の良一少年は、『いづも屋少年音楽隊第1期生』になります。高島屋も少年音楽隊を作っており、その中にトランペットの南里文雄や、ジャズの中沢寿士といった後にすごい音楽家に育つ少年が、まじっていました。
良一少年は猛練習を始めます。(続く)
大正12年(1923)うなぎ店「いづも屋」が宣伝のため結成した「いづも屋少年音楽隊」に入った16歳の良一少年は、死に物狂いになって練習します。その頃船場の料亭「灘万」にジャズライブがあり、アメリカ帰りのサックス奏者前野港造がいました。人間わざとは思えぬ演奏に驚嘆した良一は、その技法を盗もうと何度も通っています。
同14年JOBK(大阪中央放送局)はラジオ放送を開始、放送用に大阪フィルハーモニーオーケストラを結成し団員を募集、良一は見事合格して少年音楽隊から去ります。
このフィルハーモニーに常任指揮者として赴任したのが、ロシア人の E・メッテルでした。メッテルは大勢の団員の中から並はずれた良一の才能を見抜き、週1回神戸の自宅に稽古に来いと命じます。それからの4年間、メッテルの厳しい指導 は言語に絶するほどでした。それでも良一はくじけません。幸運を喜び1回も欠席せずに通います。さらに生活に恵まれぬ彼は、フィルの練習のない夜は積極的にダンスホールやカフェのバンドに参加、さまざまな曲を演奏します。これがフィルのクラシックと合わせ、良一のレパートリーがびっ りするほど広い理由になるのです。

服部 良一氏
メッテルは京都帝国大学音楽部オーケストラの指揮者も兼ねており、そこでバイオリンをひいていたある若者を自宅につれてきて、
「この男も君に負けぬほど才能がある。個人レッスンをしてやることにきめた」
と良一に紹介しました。この若者が後に大阪フィルの指揮者として長年にわたり大活躍する朝比奈隆です。そうです。世界最高齢の指揮者として海外にも広く知られたタカシ・アサヒナです。当時良一はフィルのフルートとサキソフォンを任されていましたが、メッテルや朝比奈隆を見て俺も指揮者になろうと決心します。
しかし彼は指揮者にはなれませんでした。昭和8年(1933)大望をいだいた26歳の良一はフィルを退団し、東京へ出て指揮者をめざしますが、名のあるオーケストラの指揮部門は東京音楽学校(現・東京芸大)出身者が占めており、天王寺商業夜間部の彼には入りこむ余地がなかったのです。
苦しい毎日を重ね、同11年生活のため「日本コロンビア」に入社しますが、ここですばらしい歌姫と出会います。
(続く)
指揮者にあこがれて東京に出た26歳の良一は、恵まれない学歴もあって不遇な生活をすごし、仕方なく昭和11年(1936)「日本コロンビア」に入社します。翌12年会社はこの女性歌手の新曲を作ってみないかと、淡谷のり子を紹介します。
彼女は本名淡谷規(のり)、明治40年(1907)青森の大きな呉服屋の娘に生まれました。女学校卒業頃両親は離婚、母親は規と妹をつれて上京、規は東洋音楽学校(現・東京音大)声楽科を首席で卒業し、「10年に1人しか出ないソプラノ歌手」と絶賛されます。
しかし生活のためクラシックにとどまることができずポリドールに入社、この年コロンビアに移ってきて心機一転、売り出せる曲を探しているところでした。

服部 良一氏
のり子の気位の高さは有名、お天気屋でいわゆる演歌が大嫌い。同年代ながら女王さまのように鼻先であしらうのり子に、良一はおっかなびっくり、文句あるなら会社やめたらええと作曲した『雨のブルース』の譜面を見て、のり子は感動しました。今まで日本の歌謡曲界になかったメロディだったのです。
続いてのり子が瞳をうるませて歌った『別れのブルース』が大ヒットします。
「窓をあければ 港が見える メリケン波止場の 灯が見える」
のメロディは、戦争に傾く軍国日本の隅々にまで、物悲しく流れていきました。
柳の下にどじょうは何匹もいます。『君忘れじのブルース』『東京ブルース』とヒット曲はあとを追い、「ブルースの女王淡谷のり子」の名が定着しました。
かつてロシアの指揮者E・メッテルが高く評価した良一の秘めた才能は、ここに花開き、『蘇州夜曲』や『湖畔の宿』といった歌謡史に残る名作も次々に誕生します。
しかし時代の流れは、戦時色が濃くなるばかりです。勇壮な軍歌全盛時代が来て、
「お前の歌は暗すぎる」「戦う意欲が薄れてゆく。敵性音楽だ」
と政府筋から無茶な横槍が入って、曲を作っても会社は発売禁止を命じられ、
「服部ブルースやない。発禁ブルースや」
と笑われたこともあります。軍歌を作れといわれても、中国やアジア大陸を舞台にしたあたり わりのないものしか、手を出しませんでした。昭和20年(1945)8月、敗戦の大混乱の中で良一は立ち上がります。(続く)
敗戦後、軍部の圧力から解放された良一は、まるでうっぷんが爆発したように次々にヒット作を発表します。『夜のプラットホーム』『青い山脈』『銀座カンカン娘』等の名曲が焼跡にあふれ、国民たちを大いに明るく元気づけていきます。しかもどの曲も模倣ではなく、次々に新しいリズムにチャレンジしたところに、彼の値打ちがあります。
とりわけ日本人の歌謡曲イメージを一変させたのが、笠置シヅ子を起用した『東京ブギウギ』です。シヅ子は本名亀井静子、大正3年(1914)香川県引田町に生まれました。祖父は漢学者という家系ですが、幼い頃から芸事が大好きで、小学校を終えると大阪に来てバレエや演劇を学び、昭和2年(1927)13歳で三笠静子の芸名で大阪松竹歌劇団(OSK)の舞台に上がり、やがてトップスターになります。

笠置 シヅ子
ところが戦時中吉本興業の吉本セイの自慢の一人息子、早稲田大学生吉本穎右(えいすけ)と恋におち、妊娠します。
物わかりのいいセイですが、2人の結婚だけは誰がどう仲裁しようと聞き入れず、シヅ子は生まれた女の子をエイ子と名づけ、抱きかかえて泣く泣く去っていきます。このあと病弱だった穎右は早世、ひどい精神的ダメージを受けたセイは2人をひき裂いた自分を責め続け、あんなに働き者だったくせに戦後は吉本興業を実弟に譲り、自宅にとじこもって世の中には出ず、そのまま他界する原因の一つになった事件です。
戦前良一はOSKの作曲を何度か引き受けており、主役の静子にも歌わせたことがありました。それで幼女をつれて難儀している静子を知ると、さっそくパンチのきいた歌唱力に目をつけ、誰もが歌ったことのないリズムを取り入れ、『東京ブギウギ』を作曲して与えます。
これは1小節を8音で構成したジャズのひとつで、戦後アメリカで爆発的に流行していました。昭和23年(1948)静子は笠置シヅ子と芸名を変え、東京日劇の舞台に登場、舞台狭しとばかり踊り回りながら、まるで動物がほえるような調子で歌いまくります。
それまでの日本の女性の歌謡曲は、しんみりしたすり泣く調子で失恋の痛手などを歌うものでしたから、これには誰もがびっくりします。しかしひどい食料不足で腹ペコになり、厭世的な気分におちこんでいた人たちに、たくましく生きるエネルギーを与えます。(続く)
昭和23年(1948)幼女エイ子を抱え、困っていた元大阪松竹歌劇団の笠置シヅ子を起用した服部良一の作曲『東京ブギウギ』は、大ヒットをとばします。続けざまにこのコンビで、『ヘイヘイブギ』『ジャングルブギ』『ホームランブギ』『買物ブギ』『大阪ブギ』と新曲を出し、敗戦のショックで落ちこんでいた世相を、いっぺんに明るくしたのです。

服部 良一氏
なにしろ「あなたがほほえむときはラッキーカムカム」「ホイジャングルで骨のとけるような恋をした」「ひとつカンと打ちゃホームランブギ」「チョイトおっさんこれなんぼ」「ホンニソヤソヤそやないか 大阪ブギ」…といった日常生活と全く異和感のある歌詞に、日本にかつてなかったブギのリズムが快くおりなして、生きる勇気を与えます。
しかし「日本では稀な底ぬけに明るいエンターテナー」といわれたシヅ子は、暴れ回って舞台をおりたあと、
「楽屋でエイちゃんに抱きついて泣いてた」
と良一は語っています。
現在良一は、古賀政男と並ぶ作曲家だと評価されていますが、質は全く異なります。政男メロディのルーツは、哀調を帯びた朝鮮のエレジーですが、良一メロディの原型はアメリカンジャズです。洋楽的感覚が生命でした。
晩年彼はかなり思いきった発言をしていますが、ふしぎに敵がいない。よほど心が優しく人柄がよかったのでしょう。レコード大賞を制定、日本作曲家協会会長としても活躍します。交響曲『ぐんま』のような本格的クラシックも多く作曲し、生涯の作曲総数3千5百をこえるといわれます。平成5年(1993)86歳没。国民栄誉賞を贈られています。
ところで良一に、昭和21年(1946)コロンビアから出した『大阪復興の歌』というのがあるのを、ご存知でしょうか。これは大阪市とJOBKの後援で制作したもので、当時の№1歌手霧島昇と松原操夫妻のデュエットです。歌詞の一部をあげておきます。
どなたか歌える方おられませんか?(終わり)
木文字かめは、前回紹介した織田作之助の名作『夫婦善哉』の舞台になった法善寺横丁の、ぜんざい屋の女主人です。
かめは明治6年(1872)島之内(現・中央区)の木文字重兵衛の娘に生まれました。
父は竹本琴太夫の芸名をもつ文楽の太夫ですが、堅実な性格で、生計を立てるために法善寺の境内に茶店を出し、 妻のことが切り盛りします。同16年境内の整理で法善寺横丁に移転してきますが、夫婦は相談してちょっと変った店にしてはやらそうと工夫します。
ある日、たまたま笠屋町を歩いていた重兵衛が、ひょいと古道具屋をのぞくと、外国人が飾ってある大きなおたやん(お多福人形のこと)を指さして、
「モットマカランカ。マケナサイ」
と値切っているのが目につきます。松竹梅の模様のついた十二単衣(ひとえ)を着ているおたやんが、なぜか福の神に見えました。重兵衛は店にとびこみ、おたやんに抱きついて、
「わいが買う。倍の値段で買う」
といってしまいます。

おたやん「お福さん」
おたやんは「お福さん」と名づけられ、店の屋号も「お福」と称し、招き猫のかわりに店の正面にデーンと置き、ぜんざい屋を始めることにしました。
ところが福は来ない。近所から出火して店は類焼したのです。重兵衛は七つ八つの女の子ぐらいあるお福さんを抱え、ことはかめの手をひいて、夢中になって逃げました。
翌年店を再建、重兵衛は本職の太夫の仕事が忙しくなり、店はこととかめの母娘二人が経営に当たります。女だけに工夫が細かい。いろいろ考えたあげく、1杯のぜんざいを2杯に分けて出すことにします。少しでも多く見えるように、分厚いがお皿のように浅い容器二つに分け、備前焼の湯呑、赤塗りの箸、これを朱塗りの盆にのせて出す。片方はあんをこした汁粉、もうひとつは小豆粒のぜんざいと決め、これを熱くしてふうふう吹きかけながら食べる趣向です。
なにしろ場所は道頓堀五座の近くですから、アベックや家族づれが多い。
「へえー、こら変っとる。なんでふたつや」
と客に聞かれると、かめはニッコリ笑ってこう答えました。
「おおきに。めおとでんね」
これがめおとぜんざいの起こりです。(続く)