元和2年(1616)徳川幕府に頼まれ、大坂冬・夏の陣で焼け野原になった市中の復興にとりかかった岡田心斎は、まず長堀川を開削し、荒廃した瓦礫(がれき)を舟で運ばせ、きれいに整理します。
次に受け取った資金で沿岸に商店街を起こし、「美濃屋」の看板をあげて地域の活性化を図るビジネスにとりくみました。美濃屋の商法は地方の藩から委託を受けた諸国の物産を大坂に集め、販売することです。世の中が平穏になると、人々はより豊かな生活を求めます。自給自足のシステムを、積極的な交易経済に改める。この変化を心斎は先取りしました。やがて諸藩は美濃屋の商法を真似て、直接大坂に店を構えて売りさばきますが、これが大坂独特の蔵屋敷の起こりです。

浪華長堀心斎橋記
心斎は富を独占しませんでした。地域発展を第一とし、道路・下水道等の公共土木工事に私費を投入。火災や病気で家産を失った人たちの世話をしますから、誰からも慕われます。商都大阪のシンボル心斎橋筋商店街は、心斎が元祖です。
寛永16年(1639)心斎は64歳で病没しました。法名は光誉心斎。葬儀は一心寺(天王寺区逢阪2丁目)で行われたと古記録にあるので、墓もあろうかと探しに行きましたが、見つかりませんでした。もっとも同寺の墓地は広いので、見落していたら教えてください。
心斎の娘喜免(きめ)が、京の商人佐々木久右衛門をむこ養子に迎え、美濃屋を継ぎました。この夫婦の娘都留(つる)は、大坂商人田村甚右衛門に嫁ぎ、その子供の純之(すみすき)が美濃屋三代主人四郎兵衛となり、美濃屋をますます発展させています。
前号で紹介した牧村史陽氏発見の「心斎系譜」「浪華長堀心斎橋記」は、この四郎兵衛が元禄16年(1703)に手書きした文章で、心斎の死後64年に当たります。実物は美しい筆跡の漢文で、誇張した賞賛の言葉はなく、淡々と事実のみ叙述していますが、曽祖父に対する尊敬の気持ちが行間にあふれる名文で、自分のことを自若堂心斎と署名しています。
残念ですが絵図がないので、心斎が架けた心斎橋が、どんな橋だったかは分かりません。橋長18間、幅2間半、杉と松を使った木橋だと伝えられます。
心斎の死後は町橋(利用する地域の人たちが維持し、補修費用を負担・管理する橋)になり、江戸末期までの2百数十年間に、10回ほど改修されています。料金と、沿岸の開発権をすべて心斎に与えました。彼はこれを地域の発展に使います。(続く)
明治6年(1873)、大阪府は木橋だった心斎橋を、1万9千円もの大金を投じて、ドイツから輸入した弓形の鉄製トラス(接点がすべて回転自在の結合をもつ骨組み構造)橋に改めます。当時珍しい鉄橋でしたから錦絵にもなり、心斎橋の名は全国に広がりました。
この橋は現在鶴見緑地(鶴見区緑地公園)に移り、「緑地西橋」と呼ばれて保存されていますから、おついでのおり高覧されるようお勧めします。
明治41年(1908)地元の商店街の主人たちは、この鉄橋心斎橋の幅が狭く積荷の搬送に不便だったので、新しく 架けかえることを決議します。先代に負けない話のタネになる名橋にしなければ… と知恵をしぼったあげく、超 デラックスな西洋風デザインをほどこした石橋に決めるのですが、この前代未聞のアイデアに関心する人は多くても、おいそれとひき受ける業者がおりません。

鉄橋「心斎橋」
あれこれ物色して、やっと偏屈だが義侠心の厚い親方と言われた南区高岸町(現浪速区)の親方小西荘次郎に白羽の矢を立て、
「あんたしかいない。町のためや。ひと肌ぬいでくれへんか。ゼニは集めるさかい」
と世話人たちは懇願します。
あきまへんと手を振ってことわる荘次郎も、何時間もくどかれるうちにつぶっていた眼をかっと開き、仁王のような形相になって、
「わいも男や。そない言うんなら、やったろやないか」
と叫んでしまいます。
何日も何日も現場に座り込んで工夫をこらしていた男荘次郎は、やっと「長さ120尺、幅は4間、片側に鉄製のガス燈4基ずつ置き、中央の橋脚から西側の橋詰にアーチを架け、全部花崗(かこう)岩にして彫刻を施す」という壮大なプランを作成します。
工事元の大阪府は用心して大手建設業者たちにも声をかけ、工期を4期に分け各期ごとに入札させる方法をとりますが、もうけなど初めから眼中にない荘次郎の廉価な見積もりと抜群のアイデアに太刀打ちできず、彼に全工事を落札され、かげぐちをたたくのがせいいっぱいでした。
荘次郎はよき理解者で、金主でもあった松島(西区)の富商高松屋主人を訪ね、
「な、後世に残る仕事をしたいんや。一世一代の勝負に出る。カネを貸しておくんなはれ。
恩にきます。このとおり」
と土下座しました。(続く)
心斎橋商店街の世話役たちに頼まれて、心斎橋架けかえ工事に着手した偏屈な建築業親方小西荘次郎は、名人気質丸出しで寝食忘れて難工事に挑み、凝りに凝ります。四国の今治沖の大島で良質の花崗(かこう)岩を見つけると、言い値で大量に買いこみ、勾欄(こうらん)に円形を彫り中をくり抜き、めだたない部分にも細密なデザインを施し、橋脚の水中にかくれる部分にまで飾りを入れる始末。気に入らないとすぐたたき壊す。たちまち予算を使いはたしました。
1年ほど経った明治42年(1909)4月、何度も借金にくる荘次郎に音をあげた庇護者で金主の高松屋主人まで、
「あんた、芸術家のつもりか。橋を作ってるんやぞ。いいかげんにせんか」
と忠告しますが、荘次郎は聞く耳を持たぬ。ついにもうつきあいきれまへん、絶交や…と高松屋は、ピシャリと戸を閉めました。

荘次郎の「心斎橋」
パトロンに逃げられた荘次郎は、商店街を廻って援助を頼みますが、せっかく見事に完成した部分も、こらあかんとハンマーでぶち壊す姿にあきれ、
「日本一の名橋にしてや。ゼニはなんぼでも集めるさかい」
とまで言った世話人たちも、知らんふりをしてしまいます。
あともうひと息や…血相変えた荘次郎は歯を食いしばり、自分の店も土地も抵当に入れ工事を続けますが、ついに仕上げの敷石作業の段階でギブアップしました。
「もうあかん。わいの負けや」
目頭をぬぐった荘次郎は、作業衣姿のまま大阪府庁を訪れ、とどこおっていた材料・工事費の支払いと、残った整備工事を他業者に委託するよう頼み、
「仕上げだけは、かならずわいとこの職人を使うてな」
と、つけ加えます。ときに明治42年10月4日のことでした。一文なしになった荘次郎のその後の消息については、資料がありません。
同年11月23日、純白の眼鏡橋「心斎橋」は姿を現します。総工費7万2千2百余円。欄干にガス燈4本がともり、夕暮れになるとまるで荘次郎の涙のようににじんで見え、実に気品のある橋でした。
この心斎橋も昭和37年(1962)長堀川の埋め立て工事でとり除かれます。今、あの豪華な地下街クリスタ長堀を歩く人たちは、小西荘次郎の名をご存知でしょうか。(終わり)
私は平成17年6月、弁天女性会の依頼で、港区民センターで「人見絹枝」について講演(本誌同年7月号参照)、多くの方々が熱心に聴講され嬉しかった思い出があります。その後、聴けなかったのでぜひこの連載に入れてください、との要望がありました。絹枝は私の尊敬する人物のひとりですから、喜んでしばらくお話することにします。

女学生の頃の人見絹枝
最近の日本女性の運動能力の高さにはびっくりします。男たちが顔色を失うほど、国際大会でも大活躍されています。そのなかでもオリンピックの花形女子マラソンで、見事金メダルに輝いた高橋尚子さん、野口みずきさんの笑顔は、実に感動的でしたね。あの健気な、楚々(そそ)とした走りぶりは、今でもまぶたに焼きついています。
人見絹枝もそんな女性です。昭和3年(1928)第9回オリンピックに21歳で出場し、8百mで銀メダルを獲得、男女合わせて五輪で初めてポールに日の丸をあげました。それまで五輪には女性の出場が認められず、この大会が世界最初の男女共同参加になるのですが、絹枝は日本ではたったひとりの女子選手として出場、銀メダルに輝きます。当時日本では、女子のスポーツ選手など「珍獣のように眺められ(彼女の言葉)」ていました。そんな女性に対する偏見の満ちた社会にあって信念を貫き、数々の記録をたてながら、たった24年間の短い人生を疾風のように駆けぬけて消えた絹枝の生きざまには、なんともいえない悲しい気持ちになってきます。
絹枝は明治40年(1907)岡山県の福浜村に生まれました。父は人見猪作、母は岩枝、その次女です。母は自分の名前が嫌いで、娘には女の子らしい優しい名がよいと考え、絹枝にしたと伝えます。父の猪作は農業ですが村の有力者で、社会事業や福祉方面のボランティア活動の先頭に立ち、なかなか信望がありました。
ところが母の願いとはうらはらに、絹枝は負けず嫌いで活発なため、「人見のバッサイ(方言でお転婆のこと)」と呼ばれます。男の子とけんかしても泣くのは男の子。体も大きく運動能力に恵まれ、しかも抜群に勉強ができて小学校6年間、いつも級長でした。当時はほとんど小学校だけですが、絹枝の両親は教育に理解があり、この成績に感心した先生の勧めもあって、名門の岡山高等女学校へ進学させます。この女学校は勉強だけではなく、スポーツでも有名校でした。(続く)
大正9年(1920)絹枝が進学した岡山高等女学校は、勉強だけではなくスポーツも盛んで、とくにテニスは中国地方でもトップレベルにありました。
「お花とお茶をやりなさい」
と命じる母岩枝を泣き落としてラケットを買ってもらった絹枝は、いろいろな大会に次々に優勝し、「オカジョのヒトミ」の名はひびきわたります。なみはずれた長身と足の速さとジャンプ力、彼女がダブルスの前衛にいれば後衛はいらぬと言われるほどでした。

恩師 二階堂トクヨ
大正12年4年生のとき、陸上競技部の顧問の先生が、
「部員がたらん。臨時部員になって、大会に出てくれないか」
と頼みます。気軽にひきうけた絹枝は走幅跳びに出場、いきなり4m67を跳んで日本新記録を作ります。
校長の和気先生はスポーツが大好きでした。顧問からこの話を知らされた校長は、担任と連れだって
「東京の二階堂女塾に進学させなさい」
と両親の説得に訪れます。この塾は、二階堂トクヨが代々木に開いたばかりの女子体育塾です。トクヨは東京女子高等師範学校を卒業後、文部省留学生として英国のキングスフィールド体育専門学校に入学。運動生理学を研究し、帰国後は日本女性の体力向上をめざして、初めて体育塾を開いた先駆者です。女子スポーツに全く関心のなかった時代でしたから、全国の女学校に運動能力の高い女生徒の推薦を依頼しており、それが和気校長の目にとまっていたのです。
「うちの絹枝は女子師範学校にやります」
両親はあわてて断りますが、肝心の絹枝が大乗気、またもや親を泣き落として上京します。
「絹ちゃんにはびっくりしました。お昼になっておソバ屋さんに連れて行って、好きなだけ、お食べと言ったら、いきなり、もりそば7枚もたいらげて、ああおいしと言いました。こらモノがちがうと思いました」
後にトクヨはこう語っています。そう言えば高橋尚子さんも大食漢だそうですね。人間、しっかり食べないと大物にはなれませんよ。
翌13年、絹枝は三段跳びで10m33の世界新記録を出します。今なら大騒ぎですが、なんや、新記録いうてもたった1cmやないかと、世間は話題にもしませんでした。それまではアメリカのスタインが10m32。陸上競技では1cmや0.1 秒がどんなに価値があるか、誰も知らぬ時代でした。(続く)
大正15年(1926)二階堂女塾(現・日本女子体育大学)を卒業した絹枝は、大阪毎日新聞社に運動部記者として入社します。毎日は日本では初めて女子スポーツ欄を設けた新聞社です。
「人見くん、いいアイデアはないかね」
運動部長に聞かれた絹枝は、少し考えていましたが、これ、お役に立ちませんかと分厚いノートを出します。パラパラめくって部長は仰天しました。絹枝が今まで取り組んできた練習方法・結果や、記録から栄養の摂取まで、細かく記されていたのです。

人見絹枝
「こら新聞連載じゃもったいない。本にしよう」
となって出版したのが、絹枝の最初の著作『最新女子陸上競技方法』です。この中で彼女は、
「日本の社会は女子の運動機能をむしりとっています。だから日本女性の身体の貧弱なこと。ちょっと押すとへこんでしまいそうな、なよなよとした女を嫁にしたい男たちは、すぐにこの国から出ていってください」
「世間のうわさほどうるさいものはありません。しかし、いちいち気にしていては、大きな仕事はできない。大洋を泳ぐ鯨は、どんなものにぶつかっても、方向を変えぬそうです」
といった内容を書いています。
この年9月、スウェーデンのエーテボリで開かれた第2回万国女子オリンピック大会(当時オリンピッ は男子のみで、4年前に女子専用の大会が生まれる)に、絹枝はたったひとりで参加します。朝鮮からハルピンへ、シベリア鉄道でモスクワを経てヨーロッパに入る旅程です。外国語のできない彼女に通訳もマネジャーもいない。切符の買い方、食事の注文、宿の契約、何一つわかりません。さすがの絹枝も気苦労と孤独感で体調を崩しますが、それでも走幅跳び5m50の世界新記録で優勝、立幅跳びも優勝、円盤投2位、百ヤード走3位、総合得点15で、日本は世界第5位にランクされます。この大会は参加国出場選手数150、第1位のイギリスは25人で50点、第4位チェコは12人で19点です。日本は1人で15点ですから、大会委員会はびっくりして、絹枝に最優秀選手賞を贈りました。
「日本の女はけばけばしいキモノにゲタをはき、発育不良の小さな体でチョロチョロするものと思っていた。ところがヒトミは顔も塗らずカンザシもつけず、大股で歩いていた」
外国人記者はこんな記事を書いています。(続く)
大正15年(1926)9月、スウェーデンの「第2回万国女子オリンピック大会」に、たった一人で参加した毎日新聞記者の絹枝は、得点15点をあげ、日本を世界第5位にします。
毎日新聞が活躍を大きく報道したため、帰国後の彼女はヤマトナデシコだ、帝国日本の力を世界に示した女傑だと世間はもちあげ、講演にひっぱりだこ、3ヶ月に200回もこなしたと言われます。さらに絹枝は競技よりも、「シベリア横断記」と題した連載記事に力をいれます。これは女性がひとりで外国旅行をするためのガイドブックみたいな内容で、キップや宿のとりかたをはじめ、風俗習慣の違いやこまごました旅の心得をつづり、女性の皆さん、海外へ出ましょう、もののみかたが変わりますよと呼びかけています。

力走する人見絹枝
昭和3年(1928)7月、21歳の絹枝はアムステルダムの第9回オリンピックに、これまたたった一人で出場します。女性が男性と共同参加できる初めてのオリンピックです。しかし得意の種目走り幅跳がない。しかたなく100mと、練習もしたことのない800mにエントリーしますが、やはり100mは花形、世界のエースたちが出場し、彼女は準決勝で予選落ちとなりました。新聞社勤務や講演・原稿で、練習時間がたりなかったこともありますが、スウェーデンのときとちがって、今度は背中に日の丸がはりついている。800mに勝たねば生きて帰れない…と本気で思いつめます。
8月2日、競技場へ向かう途中で、いつもは、無口な織田幹雄(三段跳びの名手)が蒼ざめた絹枝の横顔を見て、
「なあ、誰も日の丸をあげなんだら、お手々つないでそこの川にとびこもうか」
と冗談を言いました。緊張をやわらげようとしたつもりですが、下手な冗談ですね。かえって皆は口をへの字に結びます。ますますプレッシャーのかかった絹枝の昼食は、たったのメロンひときれでした。
彼女の立てた作戦はこうです。
「まずスタミナを無視して全力でとびだし、トップに立つ。相手はあわててペースを崩し、誰かが私を抜くだろう。私はその人の背中にかじりつくつもりで走り、ラストで追い越す」
ところがこの戦法は、なんの役にもたちませんでした。スタートダッシュが予想もしない速さだったのです。ドイツのラートケとスウェーデンのゲンツェルがつむじ風のようにとびだし、絹枝は5位に落ちました。(続く)
昭和3年(1928)7月、アムステルダムの第9回オリンピックにたった一人で参加した絹枝は、100mで予選失格。雪辱を期した800mでも1周したところで5位に落ちます。「負ければ生きて日本に帰らない」と誓った絹枝です。
もう作戦もへちまもない。ただ前の人を突きとばすつもりでメチャクチャ走った彼女は、ラストの直線で優勝候補のゲンツェル(スウェーデン)を抜き、2位に浮上、トップのラートケ(ドイツ)の足にタックルして、ひき倒してやろうと激走します。ラートケの背中がぐんぐん大きくなる。ああ、もうちょっと…と思ったとたん、2人は火の玉となってゴールに転がっていました。
1位 ラートケ 2分16秒8 2位 人見絹枝 2分17秒4

ラートケとの死闘
ともに世界新記録ですが、 2人とも意識を失い、医務室にかつぎこまれます。凄惨なレースに大会役員たちは顔色を失い、以後女子800は禁止、解禁になったのは第17回大会からでした。銀メダルでしたが、オリンピックのポールに日の丸があがったのは、男子を含めてもこれが最初です。
男子も発憤、30分後に織田幹雄が三段跳びで日本初の金メダル。6日後に鶴田義行が200m平泳ぎで金メダル。優勝直後に、
「人見さんのおかげだ。あの感動で勝手に手足が動いた。バンザイ、バンザーイ」
と絶叫した義行の言葉は、絹枝の力走がどれほどすばらしかったかを物語っています。
「自分のためにも、国家のためにも、責任を果たして参りました」
と帰国してこう語った絹枝を待ちうけていたのは、マスコミ特有の好奇心です。当時の日本女性の平均身長は148cm、絹枝は169cmの長身です。それに長年のトレーニングでむだな脂肪は削り落とされ、筋肉のかたまり、まるで彫刻のようでした。
「あなた、本当に女ですか」
品性下劣な一部の記者に、こう聞かれたこともあります。また彼女は毎日新聞入社後、二階堂塾で同級だった蔦原(つたはら)マサと1年後輩の藤村テフの3人で、共同生活をしています。マサは淀之水女学校の体操教師でしたので、炊事・洗濯等の世話はテフが焼きますが、このテフとレズの関係にあるとのデマが広がります。さすがの絹枝もこれには傷つきました。有名な「私は珍獣のように眺められている」は、このときの言葉です。(続く)
昭和4年(1929)200mに24秒7、三種競技に217点と、ともに世界新記録を出した絹枝は、翌5年9月、チェコのプラハで行われた第3回万国女子大会に、村岡美枝・本城ハツ・渡辺すみ子・中西みち・浜崎千代の5名をつれ、監督兼コーチ兼選手として参加します。5名は日本女子体育専門学校(旧二階堂塾)の後輩で、記録は世界レベルには達していませんが、日本女子スポーツ界向上のため、無理してつれていったのです。
「狭い国内ばかり見ないでください。世界は広い。海外に出なければ、物事の本当の姿は見えてきません」
これが絹枝の信念でした。
この大会で日本の総合得点は13、世界第4位の成績を収めますが、リレーの1点を除くと全部絹枝ひとりで得点したものです。新聞に痩せこけた絹枝が、丸々太った5人の選手を人力車に乗せ、ひっぱっている諷刺イラストが出ています。

プラハのイラスト
大会が終わると絹枝たちはヨーロッパを廻り、各国の陸上競技大会に参加します。渡欧費用の大半は借金で、返済のため出場手当てで稼いで支払わねばなりませんでした。もちろんどの国も絹枝が出場しなければ、承知しない。7種目も出た大会もあります。風邪で熱が高くても生理がきても、注射と薬で押さえて参加します。ベルギーで52対48で初勝利を得たときも、彼女は39度の熱があったと伝えます。
11月に帰国した絹枝は、カツオ節削り器でとことん削りとられたカツオ節の残骸のようでした。けれども休息は許されない。借金返済のため企業・自治体・女学校等の依頼で、講演をくり返します。薬、注射器、吸入装置持参でした。
毎日新聞にこんな記事があります。
「この日絹枝嬢は三田体育館で講演。午後は某小学校創立記念祝賀会に出席。ユニフォーム姿になり、模範演技を披露した。夕方は中央郵便局の研修講師を務め、スポーツは根性に非ず、科学的トレーニングが必要と力説、夜の慰労会は欠席し大阪放送局(JOBK)出演のため、夜行列車にとび乗った…」
ここまで過密なスケジュールをこなした理由は、なんだったのでしょう。もちろん借金の返済もあったでしょうが、日本女子体育の向上、男に負けぬ女の生きかたを、身をもって実証したかったからだと思います。しかし、それが死へのラストスパートになりました。(続く)
昭和6年(1931)4月、絹枝は肋膜炎の診断で阪大病院に入院します。初め彼女はタカをくくっていました。ベルギーで2度と走るまいと誓った800mを懇望されたとき、今とよく似た症状がありましたが、注射を打って出場、かえって良くなった経験があったからです。
しかし今度はそうはいかぬ。5月の末にいったん小康をとりも しますが、乾酪(かんらく)変性肺炎(肺の組織がチーズのように凝固する病気)を併発、7月29日から呼吸困難となり、8月2日午後0時25分永眠しました。24歳の若さです。ふしぎなことにこの日は、オリンピック800mでラートケと死闘を演じた同じ日でした。無理解と偏見に満ちた女子スポーツ界を、満身創痍(そうい)になりながら走り抜けたあまりにも痛ましい最期です。

人見絹枝
棺(ひつぎ)には生前愛玩していた犬張子(いぬはりこ)と、奈良人形や御所人形など若い娘さん好みの品々が詰められ、薄化粧した表情はかわいらしく、誰もが涙をこぼします。
「もし一生スポーツをすることを許し、先生のおメガネにかなう方がおられたら、ぜひ紹介してください」
これは、毎日新聞運動部長でスポーツ医学の権威、木下東作博士にもらした絹枝の言葉です。気丈夫な彼女も東作の前では甘えるように、よく愚痴をこぼしました。あるとき、
「先生、また女ですかとからかわれました」
とベソをかいたとき、東作は、
「じゃあ絹枝くん、結婚しなさいよ。キミと争ったラートケはね、あのとき2人のお子さんのママだったよ」
と話します。「もし一生スポーツを…」はそのとき絹枝が答えた返事です。
「私も子供を産んでから、もう一度オリンピックに出たい。ママ、しっかり…と応援してもらいたい」
ある雑誌のインタビューで彼女はこうも語っていますが、その夢は実現しませんでした。
生まれ故郷の岡山市の「岡山県営競技場」に、絹枝の銅像があります。昭和37年(1962)の国体開催記念に造立されたもので、両手を高くあげてまさにゴールのテープを切ろうとする勇姿を型どっています。
またチェコのプラハにある「オルシャン国立墓地」のなかにも、絹枝の早すぎる死を悲しんで、記念碑が設けられているそうです。(終わり)
浅井薫(かおる)て誰?と、どなたも首をかしげるでしょう。宝塚歌劇が誕生したときのスター、男役第1号の高峰妙子の本名です。
明治45年(1912)私鉄箕面有馬電軌(現・阪急電車箕面・宝塚線)を開通させた社長小林一三は、営業成績をあげるため、終点の宝塚に温泉と動物園、それにプールをつけた「宝塚パラダイス」を設けますが、乗客は今一つ伸びず、赤字でした。

小林一三
なんとかいいアイデアはないかと頭をひねった一三は、ある日評判を聞いて北浜の三越呉服店を訪ねます。三越では客寄せのためかわいい少年たちを集め、制服を着せ、「三越少年音楽隊」と名づけ、ナマ演奏をさせていました。
「うまいで。クラシックから童謡までやりよる。タダで聴ける」
とうわさになり、買物客が倍加します。
若いころ一三は、いっぱしの文学青年で、探偵小説で入選したこともあります。芸能にも関心があり、何回も三越に通ううち、
「俺もやったろ。こっちは女の子でいこ」
と、ポンとひざをたたきます。これが宝塚少女歌劇の起こりです。
役員会議で一三は猛反対されます。赤字が増えるだけやない、芝居をやると男女の風紀が乱れると言うのです。たしかに歌舞伎が男ばかりなのは、徳川幕府が風紀が乱れるとして、女をしめだしたからです。
ところが一三は、
「なに言うとる。女の子だけじゃ。男の役は女にやらせる」
と役員たちを押さえつけ、紙に大きく「清く正しく美しく」と書いて、壁にはりました。このモットーは今も生きていますね。
大正2年(1913)一三は、歌と芝居に才能のある少女たちの、募集を始めます。予想以上に多くの応募者が集まりますが、そのなかに浅井薫がまじっていました。
薫は明治33年(1900)大阪の東区(現中央区)に生まれました。父は大阪府警玉造署に勤務した警官浅井寛竜で、その次女です。2男3女の子供がおり、母は6番目の子を産むとき大変な難産で、母子ともに死亡します。父寛竜は5人の子を男手ひとつで育てますが、幸い長女がしっかり者で母親役を務め、父をよく助けます。次女の薫は天性明朗でお茶目。すぐふざけていつも家族たちを笑わせ、父もとりわけかわいがっていました。その薫が宝塚を受けたいと言いだしたのです。(続く)
玉造署の警官浅井寛竜の次女浅井薫は、小林一三が日本で初めて少女だけの芝居を興行しようと開いた「宝塚少女歌劇養成会」を受けさせてと、父にねだります。
「学費いらんそうよ。電車もタダで乗せてくれる。踊りと歌を勉強するところで、父ちゃんの言う不良の行くとことちがう。ね、お願い。受けていいでしょ」
とだだをこねます。いつもはとても素直な子ですのに、今度ばかりはしかりつけても聞きません。

浅井薫(高峰妙子)
父寛竜はおかたい警察官の中でも、石部金吉(融通のきかない物堅い男のこと)とあだ名がついたほどのコチコチですが、親バカには変わりがない。仕方なく同僚に相談すると、
「薫ちゃん、歌うまい。踊りも真似が上手や。ま、受けさせてみ」
「そやけどテスト難しいそうや。落ちたら本人もあきらめるで」
「もう13歳やろ。ボチボチ親の言うことを聞かなくなる年ごろや。女の子の反抗期はこわいで」
などと口々に言われ、渋々承知します。
試験の日、ついて行ってくれた長女が帰ってきて、
「お父ちゃん、あかん。きれいで金持ちの子がいっぱい来てた。かわいそうやけど無理」
と報告しますから、父はやれやれと胸をなでおろします。ところがなんと合格してしまったのです。姉や弟たちに抱きついてはしゃぎ回る薫を眺めながら、父寛竜は腰がぬけてへたりこみました。
1ヶ月経ったころ、
「お父ちゃん、月給もろた」
と薫は、袋ごと父に差出します。あけてびっくり、7円50銭も入っています。この時代、大学の卒業生(今とちがって若者の2%ぐらい)の初任給と、ほぼ同額です。今度は父が怒りました。小学校を卒業したばかりの、13歳の小娘です。
「こんなうまい話があるもんか。おおかたはだか踊りでもやらせる魂胆(こんたん)じゃろ」
こう考えた寛竜は、そこは警察官です。非番の日に変装してこっそり養成会を訪れ、またもや目を回しました。明るいけいこ場には楽しそうな、しかも礼儀作法の正しい少女たちが、歌ったり踊ったりしていたのです。それでも合点がいきません。何度も行ってついにばれ、薫に大泣きされたと伝えます。(続く)
13歳の少女浅井薫が見事合格した「宝塚少女歌劇養成会」を開いた箕面有馬電軌(阪急電車)社長小林一三は、この事業を成功させるため、あらゆる情熱を注ぎました。
まず指導者に、東京音楽学校(現・東京芸術大学)出身で、オペラの作曲に天才的な才能を持っていた安藤弘と、妻で歌手の智恵子を招きます。智恵子も同校卒業生で、あの三浦環(たまき・ヨーロッパで蝶々夫人を演じ、国際的な評価を得る)と首席を争った声楽家です。宝塚歌劇の芸術的香りと高い品性にあふれたオペラは、この二人の指導が出発点です。

ドンブラコの台本
翌年の大正3年(1914)4月1日から5月30日まで、日本初の少女歌劇公演が行われます。場所は現在の宝塚大劇場のロビーあたりにあった室内プール場を改装したところで、「パラダイス劇場」と名づけられます。脱衣場が舞台になっており、間口7m。客席はプールに板を張ってござを敷いた程度。第1回公演と銘打ったものの、実はこの期間に開かれた「婚礼博覧会」のアトラクションでした。
演目は「ドンブラコ」と「浮かれダルマ」、それに集合ダンス「胡蝶」の3本立てです。「ドンブラコ」はどなたもご存知の昔話桃太郎を西洋風のオペラに変えたもので、主役の桃太郎を薫が演じることになります。
「お父ちゃん、ウチ、高峰妙子という芸名で、桃太郎やるねん」
娘にこう言われた父親の玉造署警察官浅井寛竜は、目を白黒させます。
実は毎日熱心にけいこを見にきていた一三が、
「桃太郎はあの子がいい」
と指名したのです。演出の安藤弘があわてて、あの子は歌はうまいが芝居は下手やと言うと、
「芝居なんかどうでもええ。無邪気でやさしく、おまけに礼儀正しい。まさにわしのモットー、清く正しく美しくの見本じゃ」
と、天の声を出したからです。
たしかに薫は「見本」でした。第一、毎日梅田から宝塚まで無料のパスで電車に乗れるのが、楽しくてたまらない。歌と踊りは生まれつき大好きです。弘と智恵子の指導はきびしく、泣きだす子もたくさんいましたが、父寛竜のしつけはもっとこわい。叱られるのはなれっこです。それに天性の澄んだ清らかな声も、大変チャーミングでした。
「ほ、ほんまに桃太郎やな。鬼退治の…」
と父寛竜は念を押します。(続く)
大正3年(1914)4月1日から、プールに板を張った特設舞台「宝塚パラダイス」で、日本初の少女歌劇が興行されます。演目は「ドンブラコ」と「浮かれダルマ」、それに集合ダンス「胡蝶」の三本立てです。
「お父ちゃん。ウチ、高峰妙子の芸名で、ドンブラコの桃太郎やるねん。初日、見に来てね。ね」
と、まだ14歳の娘薫にせがまれた父親の玉造署の警察官浅井寛竜は、目を白黒させ、
「ほんまに鬼退治の桃太郎やな。まさか濡れ場(男女の愛欲シーン)なんかないやろな。あったら風俗紊乱(びんらん)の罪で、お前を逮捕せなあかん」
と、モゴモゴ言います。

桃太郎(高峰妙子)
「娘を芸人にしたことが上司に知れると、クビになるぞ」
と親類筋からもおどされる時代でした。
「あほ言わんといて。みんなお化粧するさかい、桃太郎がウチやいうことも、誰にもわからへん」
と娘に肩をたたかれて、父はおずおずと宝塚へ向かいました。
舞台装置は食堂のボーイさんたちが作り、衣装とメーキャップは宝塚温泉の芸者衆がひきうけます。出演する「宝塚少女歌劇養成会」の一期生は、総勢16名。なにしろ初めての舞台ですから、ウロチョロするばかり。芸者衆がつかまえて着せ替え 人形のように手取り足取り着せるのですが、メーキャップの濃いこと、歌舞伎役者のような厚化粧です。
観客の大半は、温泉に入浴していたオッチャンたちでした。
「オイ、歌劇てなんや」
「知るかい。桃太郎の昔話やさかい、派手な立廻りのある鬼ごっこやろ」
「アホ言え。女の子ばかりやないか。鬼さんこちらと、手とって踊る芝居や」
板張りに敷いたござに座ったオッチャンたちは、頭に手ぬぐいをのせ、いっぱい機嫌で勝手なことを言いますが、幕が開くやいなや、
「むかし むかし そのむかし じいさまとばあさまが おったとさ…」
と、まるで小学校の学芸会のように黄色い声をはりあげて、舞台せましと歌い踊る少女たちを見て、ヒャァと声をあげました。
おまけに せりふにまで奇妙なメロディがついているのです。
「なんじゃ、これ」
とびっくりするオッチャンたちに、物知り顔のご隠居さんが教えます。
「これはな、西洋のナニワ節じゃ」 (続く)
大正3年(1914)4月1日から「宝塚パラダイス」で開催された日本初の少女歌劇「ドンブラコ」は、物知り顔のご隠居が、
「これは西洋のナニワ節じゃ」
と解説しただけあって、誰もがあいた口がふさがりませんでした。
この「ドンブラコ」で主役の桃太郎を務めたのが、14歳の少女浅井薫(芸名高峰妙子)です。彼女は箸が転げただけでもおかしがる笑い上戸。客席のオッチャンたちの野次にプウーッと吹きだし、何度も芝居が中断するありさまでしたが、宝塚歌劇男役の第一号です。

浅井薫(高峰妙子)
また「ドンブラコ」で鬼どもにさ われていたお姫さま役が、娘役第一号の雲井浪子です。彼女はのちに早稲田大学教授で有名な劇作家坪内逍遥の息子坪内士行の妻になります。今でも時々テレビ番組に顔を見せる女優坪内ミキ子の、お母さんです。
芝居が終わったあとの集合ダンス「胡蝶」が、宝塚歌劇の名物、フィナーレのラインダンスの始まりで、「あでやかな衣装で舞い踊り、たわむれる蝶のようであった」と記されていますが、総勢16名ですから知れたものですね。
しかし少女歌劇はスムーズには広がりませんでした。演出家の安藤弘と社長小林一三が対立したからです。弘は少女だけのオペラは世界にも例がない、男子を入れろと主張。清く正しく美しくの一三とけんかになり、第3回公演の直前、弘は自分の作曲した楽譜を持ったまま雲隠れします。
それでも若いころ文学青年だった一三は屈せず、自作「紅葉狩」とさしかえて興行。大正7年(1918)までに19本の脚本を書き公演を続け、弘も感心して復帰したほどです。
とにかく一三の少女歌劇にかけた情熱は、すさまじいものでした。邦舞界の巨匠楳茂都(うめもと)陸平、画家岸田劉生(りゅうせい)の弟の岸田辰弥、ジャーナリストの久松一声、それに先記した坪内士行らに、脚本や演出・振り付けを頼み、能・狂言までとり入れて、本格的な、かつ日本独特の女性オペラに進化させていきます。
昭和2年(1927)本場パリで修業した岸田辰弥は、帰国後公演した「モンパリ」で、初めて大階段を用いたラインダンスを披露、大評判になりました。
薫は生涯宝塚歌劇ひとすじでした。彼女の工夫した男役の演技が、今もヅカの基本です。声楽講師としても多くのスターを育てます。(終わり)
私は「みなとQ」の俳句・短歌欄を、いつも楽しみにしています。ことに俳句は世界でも例のない短詩で、単に感性だけではなく、作者が人生をどう生きてきたかが17文字に凝縮され、それが読者の心にしみわたるすばらしい文芸です。
三好潤子は病魔にとりつかれ、とても30代までは生きられないと医師に診断されながら、誰もが驚嘆する秀句を詠んだ俳人です。
彼女は大正15年(1926)港区に生まれました。本名は三好みどり。母が正妻でなかったため父の顔もあまり覚えておらず、母娘ふたり寄り添ってひっそりと暮らし、小さい旅館を経営して生活します。

三好潤子
幼いころは明るいかわいらしい少女で、誰からも好かれていたのですが、生涯とりついた結核に感染し苦しみます。それも腎結核や中耳結核という難病で、戦時色が濃くなる当時の医学では、全快の見込みはないとつき放されました。それでも健気にふるまう娘を見て、母は涙をぬぐう毎日を過ごします。
昭和18年(1943)大阪女学院を卒業した潤子は、体を動かさないでもできる技術を身につけようと、ローケツ染めの図案を学びます。師匠は有名な芹沢銈介です。民衆美術に関心をもち、独特の型絵染めで民芸運動に貢献した方です。
その銈介が
「キミは大変な才能がある。きっと染色家として世に出られるぞ」
と、たいこ判を押しました。
そんな潤子の人生が大きく変わったのは、同22年、5人の強盗が旅館に押し入ったときからです。敗戦後の大混乱で物資どころか食料も乏しく、餓えをしのぐためには盗むよりほかはない悲しい時代で、大阪の治安は乱れきっていました。腹ペコの5人組は、震えている母親と病床の娘を見て気を許し、旅館なら食う物ぐらいはあるやろ、はよ作れと命じます。母親はなけなしの米やミソをかき集め、大切なお客のため隠しておいた酒まで出してもてなします。男たちが大喜びで飲んだり食べたりしている間に、病人で動けないと思わせていた潤子はこっそり抜けだし、交番へかけこみました。
この機転で強盗どもは逮捕され、母親と潤子は築港警察署から表彰されますが、このとき賞状を渡した司法主任が、俳人山口誓子の弟子、榎本冬一郎だったのです。
冬一郎は明治40年(1907)和歌山県田辺の生まれ。父は不明。母は幼い彼をおんぶして、奈良の男に身を寄せるという境遇に育ちます。(続く)
潤子に俳句の手ほどきをした築港警察署の司法主任で俳人榎本冬一郎も、幼いころ不幸な境遇にありました。
母は父と別れ、冬一郎をおんぶして奈良の男と再婚しますが、この義父と冬一郎は折り合いが悪い。白い眼でにらむ冬一郎は義父に殴られ蹴られ、小学校の高学年になると家出をくり返します。
昭和11年(1934)大阪の製油会社の工員になった冬一郎は、猛勉強して巡査採用試験に合格、交番勤務のかたわら独学で俳句を作り、たまたま俳句雑誌に投稿した「派出所日記」を山口誓子が異色の俳句だと激賞。主宰する俳誌「天狼」の同人に加えて指導、めきめき頭角(とうかく)を現しました。
冬一郎は境遇が似ている三好母娘を慰め励まし、天狼グループの同人たちを連れてきて、母娘の経営する小さな旅館で、何度も句会を開きます。母娘も冬一郎の人柄を慕い、とくに父の顔も知らぬ潤子は、冬一郎に父親のような気持ちを抱き、甘えるうちに俳句の手ほどきを受けはじめました。

昭和27年(1952)大手前会館(中央区)で天狼五周年大会が開かれます。冬一郎に頼まれて受付けを手伝っていた潤子に、誓子が
「キミが冬一郎君が自慢していた潤子君か」
と声をかけました。
誓子は高浜虚子の弟子で東京帝国大学出身の俳人ですが、「ホトトギス」の写生尊重の句風を批判し、新興俳句運動に入った時期もあり、積極的に都会の無機的な題材を選び、虚無に近い内面表白の句をめざしていました。西東三鬼、秋元不死男ら前衛俳句の旗手たちも、天狼の同人です。
戦時中誓子は胸部疾患で、長い間闘病生活を続けたことがあります。生涯悪性の結核にとりつかれた潤子の苦しみを誰よりも理解し、率直に自分を表現する句を詠めと指導します。そのせいか、潤子の句には、「狂」「魔」「毒」「腐」といった一般の女性が嫌うことばが、目立つようになります。
「我を射し我の毒にて蜂死せり」
「悪女かも知ればいちごの紅潰す」
「五臓六腑腐れゐて吹くしゃぼん玉」
医師にとても30歳までは生きられまい、と言われた潤子は、かろうじて30代に入りますが、悪性の脊椎(せきつい)カリエスにかかり、結核性腹膜炎まで併発、まるで焼けた鉄板の上を裸で転げ回るような激痛に襲われる毎日となりました。(続く)
30代に入って難病結核性カリエスと腹膜炎に襲われ、病床で喘(あえ)ぐ俳人三好潤子は、こんな句を詠んでいます。
「毛虫焼くお七の刑もさながらに」
「稲妻の刃よ疼くこの胸を切れ」
「のどに当て氷柱の剣で死を賜へ」
これらをマゾヒズムに近い自虐の句だと批評する人もいますが、
私はそうではない、どうすることもできぬ苦痛を、ナイーヴ(素朴)に詠んだものだと思います。

三好潤子
そんな彼女も、たまには薬が効いたのか、おだやかな日もあったのでしょう。
「許されて入浴我は水中花」
痩せおとろえた手足を思いきり伸ばしながら、目をつぶってゆったりと湯につかるひとときの憩いが、とてもよくでています。
40を過ぎると生きる時間があまり無いと考えたのか、潤子は「生」「病」「命」「死」をテーマとします。
「地獄まで落ちし蟻まだ生きてゐる」
「限りある命を写す川蛍」
「死に場所をここへ決めたる曼珠沙華」
「涅槃(ねはん)通夜我も病臥の北枕」
潤子を知る人たちは、彼女の人柄や性格について、さまざまな感想をもらしています。陽気でわがまま、病気のせいか自己中心的で気まま。いや泣き虫弱虫だ、泣かれると慰めようがない。明るく少女のようにはしゃぐ、病気で苦しいのに心配かけまいと気を使いすぎる…等々です。まるで別人のようですが、そのどれもが本当でしょう。そうでなければこれほどの句は詠めるはずはありません。俳人富沢赤黄男(とみざわかきお)に、
「灯をともし潤子のやうな小さいランプ」
との句がありますが、本当にそんな女性だったと思われます。
下肢動脈栓塞症をおこし、もうだめだと言われた昭和58年(1983)10月、山口誓子らの中国訪問の旅に参加したいとだだをこね、誰がなんといっても聞かず、ついていきました。わずか10日ほどでしたが、中国ではびっくりするほど元気だったのに、帰国したときはものも言えず、コップもとり落とすほど力を失います。和歌山県立医大に入院、奇跡的に危篤状態をのりこえますが同60年2月、59歳で永眠しました。
「菊嫌ひ死なばその菊供へらる」
潤子の句にこんなのがあり、棺は白百合で埋められます。同64年、彼女の句はまとめられ、『曼珠沙華』と題して刊行されました。 (終わり)
猿画では日本一といわれた森狙仙(そせん)は、円山応挙の援助で大坂に「森派」と呼ばれる絵師集団を結成し活躍しますが、狙仙の実兄森周峰もそのひとりです。
周峰は幼いころから絵の修業ひとすじできたため、全く文字が読めません。あるとき小さな絹地1枚に画題を書いた紙片を添えた注文がきます。漢字2文字ですが読めずに困っているところに、寺子屋から8つになる娘が帰宅します。

周峰の人物画
「なんて書いてある」
と尋ねると娘は、
「父ちゃん、こんな字読めへんの。せんとりよ」
と答えます。周峰は
「この客はなに言うとる。いくらわしでもこんな小さい布に千羽も鳥が描けるもんか。まあ十分の一でしんぼうしてもらお」
と口をとんがらしながら、五日がかりで種類の異なる小鳥を97羽描いたところでいっぱいになりました。
「すまん。これ以上描かれへん」
と頭を下げられた依頼の客は、絶句しました。その絵のすばらしいこと、精密なこと。注文は「千鳥(ちどり)」だったのです。
周峰の作品は写実に徹した精密画で、髪の毛一本もゆるがせにしない正確さが自慢でした。弟の狙仙はそこが気に食わぬ。
「な、兄貴。きれいな絵やが動きがない」
と、けちをつけます。狙仙は太い線と色彩の濃淡で、動物の仕草や一瞬の動きを表現するのに、たけていました。周峰は弟の才能を高く評価していたので、
「そやなあ。お前の絵を半分混ぜたら、わしのもようなるやろ」
と答えます。
お前の絵を半分混ぜたら…は本気でした。この兄弟はおたがいに自分の息子を交換しています。周峰の実子徹山が狙仙の養子に、狙仙の実子雄山が周峰の養子になったのです。
周峰は狙仙より2年も長生きし、文政6年(1823)83歳という珍しい長寿を保って他界しました。墓も狙仙と同じく西福寺(北区兎我野町)にあり、「森周峰墓」とのみ刻まれています。
周峰の実子で狙仙の養子になった森徹山は、安永4年(1775)生まれ。実父と養父に学んだのち、円山応挙の実子、円山応瑞の妻の妹と結婚し、応挙と応瑞の指導も受け、天保3年(1832)から9年間、京都御所の御用絵師を勤めるほど、有名になりました。本当に周峰と狙仙を合わせたような画風で、禁裏(きんり=皇居)のふすま絵やびょうぶ絵等も描いています。天保12年(1841)没。(続く)
森徹山の娘お柳のむこ養子文平は、森一鳳(いっぽう)と名乗り、大坂画壇「森派」の後継者になります。
徹山は最初は養子の森寛斎に継がせるつもりでしたが、彼は長州藩士と組んで倒幕運動を起こしたので、周りから寛斎では幕府につぶされる、おだやかな一鳳のほうがいいと言われ、やむなく娘むこを選びました。
一鳳は寛政10年(1798)生まれ、幼いころから絵の才能があり徹山に入門、寛斎と甲乙つけがたいといわれた絵師です。人がらは謙虚で何事でも寛斎を先に立て、寺院や富豪から注文がくるとすべて寛斎に譲りました。
他の門人たちがそこまで兄弟子に尽くす必要はない、あなたが森派の指導者じゃないかと言い聞かせても、いや、力はとても及びませんと笑って横を向きました。

一鳳の藻刈図
森派は動物・花鳥・人物画が特色ですが、一鳳は山水も上手です。あるときさる大坂の商家の注文で、海辺で舟人が藻を刈っている図柄の絵を描きます。できばえもすばらしく、主人が床の間に掛けて毎日眺めていたところ、ふしぎなことに次々に商取引きが成功し、莫大な利潤を得ました。
たちまち評判になってこの図柄は「藻を刈る一鳳(もうかる一方)図」と呼ばれ、あちこちの商家から注文が殺到、鴻池や三井といった富豪も飾って自慢しあったといわれます。今でも古い商家には残っていますから、お持ちの読者もおられることでしょう。明治4年(1871)73歳没。徹山・一鳳の墓は、やはり西福寺(北区兎我野町)にあります。
森寛斎は文化11年(1814)萩(山口県)の毛利藩士石田伝内の子に生まれ、武士を嫌って大坂に来て苦労するうち、同情した徹山に認められ養子になります。
昔の知りあいに誘われて勤皇の志士のひとりとなり、国事に奔走しますが、幕府が倒れ明治政府が誕生すると、仲間は政府高官になって出世します。一本気の寛斎はその変身ぶりを嫌い森派に復帰したものの、気性が激しく世渡り下手、才能はあるのになかなか認められませんでした。
明治15年(1882)金毘羅(こんぴら)神社(香川県)の社宝円山応挙の襖絵(ふすまえ)の修復を見事にやりとげ、古希すぎた老画家の誕生だと大評判になります。人なみはずれた大柄に、髪もひげも伸び放題という異様な姿で、世間を超越して悠然と暮らしています。明治27年(1894)80歳没。(終わり)