画家菅楯彦は、大阪市の名誉市民第1号です。大阪をこよなく愛し、大阪の風俗・人情を独特の画筆で描いた彼の功績は、その人柄とともに永遠に語り伝えられることでしょう。日本三大美女といわれる愛妻八千代も含めて、すばらしい夫婦の生涯をたどってみたいと思います。

楯彦・八千代
楯彦は明治11年(1878)鳥取の倉吉藩士菅大治郎の長男に生まれました。幼名藤太郎。父大治郎は画才があり、四条派の画家塩川文麟に師事し、盛南の画名をもったほどのプロ級の腕前でした。
明治維新で藩は解体され、武士たちは職を失いますが、大治郎は絵画で身を立てようと妻子をつれ大阪に移り、南堀江(西区)に居住、商家の注文に気軽に応じて生活費を得ます。ところが藤太郎が12歳のとき、突然卒中で倒れ、寝たきりになりました。やむなく藤太郎が代わって提灯やうちわ・ふすま絵などを描きますが、なんといってもまだ子ども、注文が激減します。母の必死の内職なんか療養費の一部にもならぬ。たちまち「赤貧洗うが如し」といった悲惨な貧困生活になり、そのどん底で父は死亡しました。
藤太郎は父から描画技法を習ったことは一度もない。「絵は心で描くものだ。幼いころはまず学問に専念せよ。さすれば心が育ってくる」、これが父の持論でした。
元来藤太郎は無類の負けず嫌いで勉学好き。家計が苦しいため誰にもつかず独学を重ね、16歳のとき「舜帝(しゅんてい)盲父孝養図」を描き、日本美術家協会展に応募したところ、入選でも難しいのになんと協会賞を受賞、1円50銭でお買い上げとなります。
「こんな大金、見たことない」
藤太郎は目を丸くして、そっくり母に差しだしました。舜は中国古代の名帝王で、「父はひいきした弟の象に帝位を譲ろうと舜の毒殺を企てたため、天罰で視力を失う。しかし帝王になった舜は、こんな父親にも孝養のかぎりを尽くした」との伝承があります。もちろん父大治郎とは大違いですが、他界した父への想いをこめて少年藤太郎が一所懸命に描いた絵は、審査員たちに感動をもたらしたと思います。
この話を聞いて感心したのが、大阪博物場長の田村太兵衛(初代大阪市長)でした。博物場は当時大阪市唯一の博物・美術・図書・生物の綜合施設でした。太兵衛はいつでもうちにおいでと、ニコニコ顔で声をかけます。(続く)
明治27年(1894)16歳の少年菅藤太郎は、プロでも入選の難しい日本美術家協会展に応募し、作品「盲父孝養図」で協会賞を受賞します。
父の早世のため貧乏のどん底で苦学し、独力で受賞した藤太郎に感心したのが、大阪博物場長の田村太兵衛(前大阪市初代市長)でした。
「いつでもおいで、好きなだけ勉強し」
と笑顔で誘い、入場料もタダにしてくれます。博物場は大阪唯一の美術・図書・生物・博物の綜合資料館です。藤太郎は昼も夜も入りびたり、気にいった古今東西の名画の模写を始め、さらに国文学・和歌俳諧・有識故実(ゆうそくこじつ 伝統儀式や風俗を研究する学問)なども、手当たり次第に勉学します。博物場には大勢の文化・知識人が出入りしており、こりゃたのもしい少年じゃと誰からもかわいがられ、めきめき実力をつけていきました。

現在 嵐山にある「富田屋」
明治35年菅楯彦と名を改めた彼は、陸軍幼年学校や女子実業学校から図画教師として招かれ、宇田川文海(大阪の作家)や渡辺霞亭(大衆小説家)らの新聞連載小説のさし絵も頼まれ、ようやく生活は安定します。
あの楯彦にしか描けない大和絵・浮世絵・文人画などを折衷(せっちゅう)したような独特の絵画は、よほどの知識や教養がなければ無理です。時代考証のしっかりしたさし絵は評判になりました。
とはいえ、まだまだ無名の楯彦が全国的に有名になったのは絵ではない。富田屋(とんだや)八千代との出会いです。
彼女の本名は遠藤ミキ(美記)、明治21年東大阪本庄の農家西田安次郎の4女に生まれました。10歳のとき宗右衛門町(大阪市中央区)の茶屋「加賀屋」を営む遠藤家の養女にやられ、3年後に南地(同区難波)の富田屋の座敷に出る芸者となり、美貌と利発、それに人柄のよさでめきめき売りだしました。
そのころ楯彦は富田屋主人に頼まれて、芸者衆に日本画を教えます。インテリや名士も接待する富田屋です。教養も大切だと茶華道・日舞・和歌俳句なども習わせ、とくに絵画と習字には力をいれた店でした。八千代の絵筆はずばぬけており、楯彦も目をかけます。
やがて八千代は富田屋の看板芸者となります。明治40年の「名妓評判記」という刷り物に、東京赤坂の万竜、京都祇園の千賀勇、大阪南地の八千代は、日本三名妓なりと記されているほどの超アイドルに、のぼりつめます。(続く)
日本三名妓のひとり、富田屋の看板芸者八千代の人気がどんなに高かったか、おもしろいエピソードを紹介します。
有名なマンガ家岡本一平(画家岡本太郎の実父)は、なんども横顔をスケッチさせてほしいと頼みこみ、やっと願いがかなったときのことを、次のように書いています。
「二重にくびれ居る二重瞼(ふたえまぶた)は微紅を帯び、あたかも春花の柔らかく、また温かく、睫毛(まつげ)にそうて香りかかり、乱れかかり、えも言へぬ美形…」
このとき一平は東京からかけつけ、約束の時間から5時間も待たされ、やっと面会できたもののたったの10数分間でした。一平だって超売れっ子です。それが待たされた恨みなど、ひとことも言ってない。ポカンと口をあけて、みとれていたことがよく分かります。

現在 嵐山にある「富田屋」
しかし八千代はどんなにチヤホヤされても、お高くとまることはありませんでした。松下電器の創業者松下幸之助が、まだ、高津の電燈会社(現関西電力)に勤めていたころ、富田屋から停電の修理を頼まれ、天井裏にもぐりこみほこりだらけになっていると八千代が通りかかり、まあ、お気の毒と声をかけ、茶菓子と祝儀袋をさしだします。
「自分は顔がまっかになり、お礼の言葉も言えなかった」
のちに幸之助はこんな思い出を語っています。
八千代は権力や金銭には媚(こ)びませんでした。宴会ではどんなに偉い政治家や大社長がいても、かならず末席にいる人の前に坐り、そこから順に上座に酌(しゃく)をして回ったと伝えます。
きっぷのよさも抜群でした。あるお茶屋で泥酔した大尽(だいじん 大金持ち)が入浴し、派手に湯水をとばしていたところ、廊下を歩いた八千代にかかり、八千代は思わず顔をしかめます。あやまるどころか大尽は、
「やい芸者、着物がそんなに惜しいのか。もっとええべべこさえてやるぞ」
といったとたん、
「いいえ、ちっとも惜しゅうはございません」
と、いきなり着物のまま大尽の湯舟にとびこみ、ぬれねずみになったまま平気で立ち去りました。
富田屋の下働きの人たちにもやさしく、新参の妹芸者を実の妹のようにかわいがり、どんなに金を積まれても身請け話には首を横にふりました。(続く)
いったい誰の嫁さんになるつもりや、と町雀たちのうわさの種になっていた富田屋八千代が選んだ相手は、富田屋の芸者衆に絵を教えにきていた菅楯彦でした。どんな玉の輿(こし)にも乗れた八千代は、無名の貧乏画家に嫁いだのです。
大正6年(1917)二人は周囲の猛反対を押しきって結婚します。ときに楯彦39歳、八千代29歳、ともに初婚です。結婚式は新郎・新婦の縁者が2人ずつ、仲人1人、夫婦を入れてもたったの7人だけ。披露宴もなく、酒食どころか歌ひとつでない簡素な神前挙式でした。

楯彦・八千代
「こいつがわしにほれて、女房にしてと押しかけてきよった」
楯彦はいつも自慢してこう語っています。本名の美記にもどった八千代の夫への献身ぶりは、涙ぐましいほどでした。とりわけ女手ひとつで楯彦を育てた母親は、武家の出身、評判のやかまし屋の昔気質(かたぎ)。芸者暮らしで身についた美記の立居振舞いから言葉づかいまで、ガミガミ言って直そうとします。楯彦の友人で作家の谷崎潤一郎は、
「美記さんは姑さんの前では、いつも手をついてものを言っておった。慣れない炊事・洗濯で、ひび、あかぎれだらけになりながら、孝養を尽くされた。どんな金持ちや偉いさんの奥様にもなれた彼女の姿に、目をおおう者も多かった。そのせいか楯彦は、美記さんが早世したあと、死ぬまで妻女は持たなかった」
と、のちに書いています。
楯彦が有名な画家になったのは、もちろん技量や教養、それにすばらしい人格者だったからですが、きっかけはこの結婚です。あの富田屋八千代が手鍋さげて押しかけた男は、どんな奴や…という好奇心からです。
楯彦の絵が売れ、経済的にゆとりがでると美記は書道を学び、ついで近藤尺夫に入門し『万葉集』や『源氏物語』の講義を受けます。よほど利発な女性だったのでしょう。和歌・俳句も好み、楯彦に負けぬ詠草を残しています。
しかし美人薄命は世のならい。二人の結婚生活はたったの7年で終わりました。大正13年(1924)美記は急性腎炎のため、36歳で他界します。
生まれきて永き契(ちぎ)りと頼めども明日をも知らぬわが命かな みき
と書かれた紙片が、ふとんの下から出てきたとき、楯彦は号泣しました。(続く)
「八千代(美記)の墓は四天王寺(天王寺区)にある」と、諸誌にでています。しかしあそこの墓地は広い。以前何度も探し回って、やっと無縁墓群の中でみつけた彼女の墓を、掲載しておきます。 文筆家中井浩水の「明治の三名妓」に、次の文があります。
「八千代は目も鼻も大きく、声は低く、日本型の美女ではない。それがあれほどの評判になったのは、光村写真館が撮った絵ハガキのおかげだ。あれは国中に広がった。いや、そうではあるまい。あの気立てと聡明さだ。芸妓としてなすべきことはなし、なしてはならぬことは絶対にしない。だがあんなに気を使っていたら、長生きできるはずはないと思っておった。気の休まるときはなかったはずだ。くつろぎ楽しむゆとりがない。早世を知って、美女なんかに生まれるものではないと、しみじみ思った」

八千代の墓
文中にある光村写真館とあるのは、島之内(中央区)出身の写真家光村利藻(神戸の豪商光村弥兵衛の子)のことです。彼は乃木将軍とロシアの司令官ステッセルとの「水師営の会見」を撮影、また今に残る明治天皇の写真も彼の手になるもので、大阪の写真芸術家の先駆者です。その利藻がほれこんで頼みこみ、やっと八千代のブロマイドを撮っています。
この時代は絵ハガキブーム。菅夫人になった八千代も、全国の人たちと絵ハガキの交換を楽しんでいます。ある日、高橋しな子さんという人から、すばらしい西洋の風景画ハガキに麗筆で、あなたのお姿を分けてくださいと記した便りが届きました。2人は生涯文通を続けますが、八千代はしな子が首相や大蔵大臣を務めた、有名な政治家高橋是清の妻だということを知らなかったそうです。
話をもどします。大正13年(1924)わずか7年の結婚生活で愛妻美記に先立たれた楯彦は、涙をぬぐったあと、猛烈な勢いで浪華を題材とする絵画の制作にとりかかります。
なにしろ国学から有職故実(伝統的な儀式や風俗を研究する学問)まで、学者も及ばぬ教養のある異色の画家です。誰もが真似のできぬ独特の艶(つや)のある大和絵風の歴史・風俗画が生まれていきました。まるで美記の霊がのり移ったようなありさまです。とりわけ秩父宮(ちちぶのみや)に献上した「友を千里に訪ふ図」と、大阪城の壁画「神武天皇盾津上陸図」は、誰からも絶賛されます。(続く)
異色の画家菅楯彦が真価を発揮したのは、敗戦直後からでした。灰燼に帰した大都会の復興に、絵筆一本で挑んだのです。
アメリカ文明の旋風が吹き荒れるなか、「浪速御民」と名乗った彼は、舞楽・文楽・祭礼などの大阪の伝統文化や神事を研究して描画、下火になっていた天神祭・住吉祭・生国魂祭等の復活に奔走します。とりわけ天王寺舞楽には情熱を注ぎ、雅亮会(天王寺舞楽を復活させた民間団体)に入会し、自ら石舞台にも立ちました。
「何べんも東京へ来いといわれたが、よう行かん。天王寺舞楽を捨てて移る気持ちには、
どないしてもならへん」
と語ったほどです。

四天王寺境内に建つ「楯彦筆塚」
円熟の境地に達した彼の絵は古今無双、淡くみやびやかな色彩、洒脱な趣向、そしてあのユーモラスな動きや表情は、戦後の疲労困憊(こんぱい)した大阪の人たちに、夢と生きる希望を与えました。
新聞連載で好評だった吉川英治の「私本太平記」や、壇一雄の「男戦女国」なども、楯彦の挿絵が人気を集めたからです。
「大阪に住み、大阪を愛し、大阪に尽くされた最高の長老」
との理由で、昭和37年(1962)最初の大阪市名誉市民に推されます。ほかに大阪府文芸賞、大阪市文化賞、また日本画家としては、これも初めての芸術院恩賜賞をうけています。日仏共同画展にも日本画壇を代表して出品しました。
昭和38年(1963)9月、85歳で没。その前年、楯彦は昭和天皇・皇后の御前で、貧窮のどん底にいた幼少時代の苦労話をしますが、やさしい皇后さまは何度もハンケチで目頭を押さえられたと伝えます。
「恬淡(てんたん=あっさりしていること)無欲」と評された楯彦は、酔えば古式朗詠を美声で吟じ、庶民的でけっして威張らず、年老いてもスラリとした長身を崩しませんでした。
「四天王寺は空襲で大半が焼失、その再建は困難をきわめた。楯彦はまるで身内のように嘆いて悲しみ、
おびただしい絵を描いて売り歩き、復興資金に加えてくれと差し出した」
これは望月信成氏の言葉です。まさに浪速御民の面目躍如たるものがあります。
楯彦の墓は阿倍野墓地(阿倍野区阿倍野筋4丁目)にあります。また四天王寺境内に建つ「楯彦筆塚」も見事です。 (終わり)
千日前(中央区千日前1~2丁目)は、道頓堀と並んで、大阪市の繁華街の中心地です。奥田弁次郎とフミ夫妻は、この千日前を開発した最大の功労者です。それまであそこは人の寄りつかぬ墓地跡でした。
フミは天保8年(1837)丹波(京都府・兵庫県北部)の農家に生まれました。小柄ですが愛敬のある働き者で、村の青年たちのあこがれの的、言い寄る若者は多かったのですが、なんと18歳のとき「ほら吹き伊兵衛」と呼ばれていた同年齢の奥田伊兵衛と、相愛の仲になります。
弁次郎像.jpg)
フミ(左)弁次郎像
両親はあいつはあかんとひきはなそうとしますが、二人は聞く耳を持たぬ。駆落ちして故郷を捨て大阪へ逃げ、高津(中央区)あたりで小さな八百屋の店を開きました。フミはひとりで店をきりまわしますが、なるほど伊兵衛は怠け者、大言壮語して一攫(いっかく)千金を夢見て、いっこうに働きません。少しでも小銭がたまると内緒でもちだし、賭博場に出入りしてすってんてんになるありさま。とうとう店は人手に渡り、伊兵衛は夜店や見世物小屋を手伝う香具師(やし)仲間に加わります。
ただひとつだけ伊兵衛には、なみはずれた才能があります。能弁です。ペラペラしゃべりだすと、嘘かほんとか分からず、お前、ほんまに弁が立つなあと誰もが感心するうち、弁次郎というあだ名がつきます。本人も得意になって弁次郎と名を改め、いつの間にかいっぱしの兄貴分になっていました。
明治3年(1870)大阪府は千日前にあった墓地を阿倍野(阿倍野区阿倍野筋4丁目)に移して、千日前一帯の開発に着手します。
このあたりは元和元年(1615)頃から大坂城初代城主松平忠明が、阿波座や渡辺、三津寺にあった墓地を、新しい城下町を建設するために集めた所です。それまでの地名は「下難波」でしたが、寛永年間(1624~44)やはり移転してきた法善寺が、千日回向(千日の間法華経を誦して講説する法会のこと)を営んだのが評判になり、同寺に「千日寺」の通称がつき、墓地は寺の前だったので「千日前」の地名がついたわけです。
千日前墓地には刑場があり、処刑された囚人の首をさらす獄門台まで置かれました。雁金文七、極印千右衛門、遊女かしく、亀屋忠兵衛など、歌舞伎・浄瑠璃で有名になった人たちの首も、この台上に並べられた恐ろしい墓地でした。(続く)
明治3年(1870)大阪府は千日前を道頓堀とセットにして繁栄させようと、千日前墓地を阿倍野に移転させますが、なにしろ人骨の混じる灰山(火葬したあとの遺灰を積んだ所)があちこちに残っており、手のつけられないありさまでした。
「火の玉が飛んでたで」
「なんとも言えぬうめき声が聞こえた」
「わいはこの目で幽霊を見た。ほんまに見たんやぞ」
と町雀どもが、真顔でうわさしたころの話です。

千日前墓地六地蔵
明治7年4月のある日、弁次郎はふらっと千日前墓地跡にやってきました。実は小学生の息子の徳次郎に、
「こら、ごんたばかりせんとちっとは勉強せえ」
と父親らしく説教したところ、
「父ちゃんかて働いたらどや。母ちゃん、いつも泣いてるやないか」
と幼い徳次郎が目をむいたのです。腹を立ててポカンと頭をたたいてとびだしますが、なんともいえず淋しくなり、歩き廻ったあげく墓地にたどりついたのです。頭の中のどこかに「葬儀屋の山田屋重助な。あいつ、三勝・半七(浄瑠璃で有名な心中事件の主人公)の追善供養やいうて、あやしげな遺品を墓地で売ってもうけたそうや」との香具師(やし)仲間から小耳にはさんだうわさ話が、残っていたのかも知れません。
ふと見ると墓地の手前に、一軒だけオンボロの茶店がポツンと残っています。墓地で法要のあったころ、休憩した茶店の名残です。留守番のばあさんが弁次郎に話しかけました。
「行くあてがおまへんね。そんでおるんやが客なんか一人も来まへん。なんでやろ、
あっちの道頓堀や心斎橋は、あんなににぎやかなのに。ここのあき地、もったいないと思いまへんか」
「そら思うけど、こんな気味悪いとこ無理や。お化けが出ると言うやないか」
「けどな、あっこの灰山、1坪50銭やで」
「へえー。50銭で買えるんやったら、まあ安いな」
と弁次郎があいづちを打つと、ばあさんは笑いだします。
「あほやなあ。お上(かみ)が50銭つけて、タダでくれるんやで」
えっ! 銭もつけてくれるんか…弁次郎は思わずとびあがりました。(続く)
明治7年(1874)4月、お化けがでると恐れられた千日墓地跡(中央区千日前1~2丁目)の灰山(火葬した遺灰を積み上げた所)が、「1坪に50銭つけてタダでもらえる」と、たった一軒だけ残った茶店のばあさんから聞いた弁次郎は、とんで帰り妻のフミに、
「灰山はこわいけど50銭はほしいなあ。10坪もろたら5円もくれるで」
と報告します。フミは返事もせず家中をガサガサ探していましたが、いきなり2百円もの大金を投げだし、こう言いました。
「灰山はあかん。どけるのになんぼお金かかると思うてるのや。それよかこれでばあさんごと茶店を買いなはれ」

千日寺絵図(難波鑑)
2百円は夫に内緒で、爪に火をとも ようにしみったれして、こっそりためていたヘソクリの全額でした。
「ヒ、ヒヤー。お前、山内一豊の妻や」
弁次郎は叫びます。貧しかった下級武士の山内一豊は、主君織田信長が家来に馬くらべをさせると言いだしたとき、まっ青になります。馬など持てる身分ではない。ところがわけを知った妻は、かくしていた持参金黄金10枚をとりだし、とびきり上等の名馬を買わせ、一豊は大いに面目をほどこし、これがきっかけになって立身出世、やがて土佐20万石の大名になる。この話は戦前の教科書で内助の功、貞女のかがみとして絶賛されたものです。大河ドラマにもなりましたね。
目をまん丸くして喜ぶ夫にフミは、涙をいっぱいためて、
「あんた、今度こそ本気で働いてな」
と頼みました。なにしろ18歳のとき、親の反対を押しきって駆け落ちし、一緒になったフミの頼みです。初めて目のさめた怠け者弁次郎は、生まれ変わったような気分になり、まじめに働くと誓います。
動物好きのフミは、以前から弁次郎が香具師(やし)仲間からもらった猿をかわいがっており、赤い甚平(じんぺい)を着せて、ひまなとき芸を仕込んでいました。その猿もつれて改装した茶店にひっこしますが、
「千日前にけったいな猿がおる。甚平着たり脱いだりしよる。茶かてはこんでくるで」
と評判になり、客が増えてきます。
こらいける…ポンとひざをたたいた弁次郎は、茶店の横にむしろがけの小屋を建て、見世物興行を始めます。これが旧墓地千日前が大阪を代表する繁華街になる第一歩ですが、夫婦は夢にも思いませんでした。(続く)
明治7年(1874)千日前墓地跡で小さな茶店を始めた弁次郎・フミ夫婦は、店の隣に小屋を構え、見世物(みせもの)興行を始めます。
といっても資金がないので知れたもの。チュンチュン太夫(雀)の曲芸に大百足(むかで=実は伊勢エビでこしらえた作り物)、生き人形(ロウ細工のマネキン)、酒呑(しゅてん)童子(大江山の鬼)の操り人形ぐらいですが、そこは口から先に生まれた弁次郎です。おおげさに面白おかしくはやしたて、たまには軽業や女相撲、声色(声帯模写)、火を吐く人間ポンプなども登場させます。
まあ紙芝居に毛が生えた程度ですが、入場料はとりません。そのかわり演目が一つ終わると、フミがザルを持って投げ銭を求めて観客の中に入り、
「あの芸、おもしろか ったでしょ。お好きなだけでいいさかい、ゼニ投げておくんなはれ」
「あの人、じいちゃんばあちゃんに4人の子までかかえてまんね。食うのに困ってはる。助けてあげてな」
と声をかけます。

奥田弁次郎
集まったゼニは折半です。つまりよその小屋とちがって、客に受ければ受けただけ芸人さんの実入りは多くなるのです。これでは芸人さんもはりきらざるを得ません。
一般にギャラは芸歴や年齢、性別や人気度で差がつきますが、ここでは関係がない。なんでもいい、客に受けたほうが勝です。やる気をかきたてるフミの商法は当たり、小屋は繁盛していきました。
やがてプロの興行師たちも、千日前に注目します。次々に芝居小屋や寄席(よせ)が並び、射的(的の人形や菓子を射落とす遊び)にだるま落とし、風船釣りに金魚すくいなどの子供向きの遊戯施設も登場。当然うどんにそば、おでん・汁粉といった屋台が立ち、発展して酒や寿司を扱う飲食店も生まれます。
心斎橋・道頓堀とセットにして千日前を繁華街にしたい行政の思惑も加わり、弁次郎・フミ夫婦のまいた種は、芽をだし枝葉を伸ばし、花が咲き始めました。
「わいはじきに使うてしまうさかい、かあちゃん、お前がためといて」
興行が面白くなった弁次郎は、もう大ぼら吹きの賭博好きではありません。ゼニのことはいっさいフミに任せ、新しい企画を次々にたて、猛烈に働きだします。フミは質素倹約型ですが、殖産の才能は人一倍ありました。(続く)
千日前墓地跡に茶店と寄席(よせ)小屋を出した弁次郎・フミ夫婦は、人集めのため夜店を開く計画を立てます。
「な、あかりを持つさかい、あんた、千日前に夜店置かへんか」
フミは夫のかつての香具師(やし)仲間に、声をかけて廻りました。当時の大阪では夜店を出すのは船場のような一等地に限られます。しかしあかり(灯油代)を負担してもらえるのなら、話は別です。
「弁のおかみさんの頼みや。聞いたろやないか」
男気のある夜店を仕切る親分が、重い腰をあげてくれます。こうして刑場もあったお化けが出ると言われた千日前墓地跡にも、人々が集まるようになってきます。今では不夜城のような千日前も、120年ほど前はこうでした。
フミは住居もかねた茶店の框(かまち 玄関のあがりぐち)に、たらいのように大きいおひつを置き、茶碗と漬物皿を並べます。夫も自分も使用人も芸能人も、いつでも手のあいたときに来て勝手に好きなだけ食べればよい仕組みです。たまにはめざしやみそ汁、卵焼きのつくときもあります。
「へえー、ご寮はん。今日はごきげんやな」
と誰もが喜んで、腹いっぱいかきこみました。食器はそのまま水を張った樽にほうりこみ、すぐ仕事場にとんでいけるのが、この工夫でした。

明治中期 千日前絵図
こうしてかなりのゼニをためたフミに、ある日弁次郎が声をかけます。
「なあ、もっと大きいことやれへんか」
なるほど元大ぼら吹きだけあって口は達者、立て板に水とばかりしゃべりまくる内容は、まことに気宇壮大。まるで夢のような話ですが、いつもは寝言いわんときと背中をどやすフミも、じっくり耳を傾けます。夫の目の色がちがっていたからです。
明治30年(1897)弁次郎とフミは、汗と涙の結晶を持って、なんとヨーロッパからアメリカに渡ります。英語のできぬ夫婦がどこでどう交渉したかは分かりませんが、ゴーチェ団やチャネリー曲馬団などの奇術やサーカス一座を招いて、千日前で興行することに成功します。
これらの一座は、うらさびれた場末で興行する名もない芸人たちの集まりでした。しかし、情報網が今とは比較にならぬ時代です。世間は超一流の芸能集団だと思い込みます。(続く)
明治30年(1897)弁次郎・フミ夫婦は渡欧し、チャネリー曲馬団を招いて千日前で興行する企画を、実行します。この曲馬団は本国では無名の一座でしたが、当時の日本では誰もそんなことは知りません。
「ヨーロッパから超一流のサーカスがやってくる。日本初公開やぞ!」
と弁次郎が得意の大ぶろしきを広げてしゃべりまくりますから、みんなその気になる。第一入場料が格安です。口車にのせられて、ばあさんまで死に土産に見とことやってきて、連日大入り満員となります。
また曲馬団にしても日本の実情にうとい。夫婦の言葉を真(ま)に受けて、
「ジャパンの大プロモーターベン・フミ興行会社の招聘(しょうへい)だ」
と信じ込んでしまいます。
弁次郎像.jpg)
フミ(左)弁次郎像
フミはそんな彼らを、
「あんたらの芸は世界に通用する。目の肥えた私の言うことやさかい、まちがいおまへん。
さ、きばりなはれ」
とおだてあげる。ドサ廻りの苦労を重ねただけに、こんなお世辞は初めてです。一座は大感激、汗水たらして熱演します。
「男も女も年寄りも関係あらへん。芸歴なんかどうでもええ。いちばん客をわかした芸人さんに、
ギャラをはずみまっせ」
とのフミの方針も異国の人たちのハートをつかみ、興行は大当たりで幕となります。
フミは人情味の厚い女性でした。尽くしてくれた芸人さんの面倒をとことんみます。酒や道楽に金を捨てる芸人には、
「あんた、金はためるもんや。ためたらかならず子を生む。生むようになってから使いなはれ」
と、母親代わりになって諭します。
こんな話もあります。氷雨の降る真冬の夜ふけ、フミの家の軒先にずぶぬれになった若い男女が雨宿りをしているのに気づきました。
「どないした。ま、入りなはれ」
と招き入れ、火鉢にあたらせ熱い茶をだしますと、だまってとんがっていた二人はわっと泣きだし、和歌山の田舎から駆落ちし、あてもなく大阪へ流れ着いたと口を開きます。
フミも親の猛反対を押しきって18歳のとき、弁次郎と駆落ちしたのが人生の始まりです。
「しばらくうちにいなはれ。なんとかしてあげるさかい」
と言いながら、あたたかい客用ふとんを押入れから出し、敷いてあげました。 (続く)
時は流れ世は改まり、千日前には「アシベ倶楽部」「帝国クラブ」「第一~第三電気館」「キネマ倶楽部」等が立ち並び、道頓堀とともに大阪を代表する興行・繁華街に発展します。
弁次郎とフミが茶店を開いたころは、「1坪50銭やるからもろてくれ」とまで言われた土地の価格は、坪当たり3百~5百円にはねあがりました。天才俄師(にわかし)鶴屋団十郎は千日前を気に入り、「改良座」という小屋を設け、弟子の団九郎と俄(即興のパントタイム)を演じますが、これが大いに受けて、やがて上方喜劇の渕源となる曾我廼家(そがのや)芝居が誕生します。

明治中期 千日前絵図
川上音二郎もそうです。書生芝居と称して明治政府を諷刺するお笑い劇を上演しますが、芝居下手の音二郎、誰も笑いません。ヤケになった音二郎が勝手に節をつけた奇妙な歌をどなったのが、あの一世を風靡(ふうび)したオッペケペーです。千日前は大阪のお笑い芸の故郷でもあります。
「父ちゃん。ちっとは働け。母ちゃん毎日泣いてるやんか」
と食ってかかり、父弁次郎の目をさまさせたあのころ小学生だった長男の徳次郎は、大変な秀才でした。あんた外国語やれ、これからは英語やと母フミに勧められ、大阪英学校(京都大学の前身)に入学しますが、ここでも幣原(しではら)喜重郎と首席を争ったほどです。敗戦直後総理大臣になり、日本を救ったあの天才的外交官喜重郎とですよ。
しかし無類の親孝行者の徳次郎は、外交官にはなりませんでした。外国行ったら母ちゃんかわいそうやと行政畑の役人になり、税務や警察関係でも活躍しています。
明治43年(1910)夫の弁次郎が73歳で病没すると、妻のフミも興行の表舞台から姿を消してしまいます。そしてそのフミも、昭和4年(1929)92歳の当時としては珍しい長寿の生涯を閉じました。ふしぎなことに母の葬儀万端をとりしきった徳次郎は、葬儀の翌日、突然心臓マヒで急逝します。享年68。
「あんなに親思いの息子さんや。母ちゃんひとりで淋しいやろ。わし、ついていったあげる」
となったにちがいないと世間は噂しました。
最近ご子孫の奥田幸次郎氏の自宅から、柳行李いっぱい入った資料が発見され、大阪歴史博物館に寄贈、調査研究が進んでいます。(終わり)
大阪が日本を代表する商都として発展したきっかけは、「淀屋橋」を架けた「淀屋」の人たちの才覚(商いの機転)にあります。
慶長年間の中期(1608年頃)山城国(京都)の商人岡本与三郎常安は、大坂に来て北浜十三人町(現・中央区北浜4丁目)で材木商を始めました。臨海に位置する大坂は舟運が便利で材木が集めやすいためです。また暴れ川と呼ばれた淀川は、梅雨や台風のときにはかならず洪水となり、壊れた家屋や転覆した舟が大川を流れてくる。それらを拾い集めても商いになり、「淀屋」と名づけた店の主人におさまります。「常安橋」や「常安町」(現・中之島4、5丁目)などの名称は、彼の名前からつけられたものです。

淀屋 常安
大坂冬の陣・夏の陣のとき与三郎は徳川方に味方し、物資を調達したり、徳川家康が天王寺の茶臼山に本陣を築いたおりにも協力しますから家康は大喜び、大坂落城後恩賞として大川(堂島川・土佐堀川も含む)利用の営業権のすべてを与えました。彼は利潤の大半を大川堤防の修理に投じ、地域社会から信頼と尊敬の念を集めます。
淀屋をさらに発展させたのが、長男の个庵(こあん・本名三郎右衛門言当)です。个庵は天正4年(1576)の生まれ。経営の才能は父以上で、幕府の御用商人に選ばれ、糸割符(いとわっぷ=生糸輸入の独占権)を得て蔵元(くらもと=各藩の物産を出納する元締)になり、十三人町の店では米を、靭(うつぼ=現・西区靭本町)を開拓して支店を置き、塩魚類を商って大もうけをしました。これが有名な「堂島米市場」や「雑喉場(ざこば)魚市」の起こりです。
今、淀屋橋の南詰西に「淀屋屋敷跡碑」が建っていますね。淀屋の全盛時代は銀庫に、雑貨蔵48の、合計60棟が並んでいるものすごさでした。所蔵小判13万枚、銀8万5千貫、5百石・千石持船総数150といいますから、想像を絶する富商です。井原西鶴は『日本永代蔵』という小説に、「日本一の米市なり。一刻の間に五万貫の商あるさまで、米は蔵々に山となす。たがひに面見知りたる故、千万石の売買せしに、相たがふことなきなり」と記すほどのにぎわいです。
中之島一帯に蔵屋敷が並び、大坂が天下の台所とされるのはこれからです。个庵は京橋南詰あたりも開拓して、直接生産者たちに野菜を運ばせる市場を設け、市民たちを喜ばせています。これが「天満青物市場」です。(続く)
「堂島米市場」「雑喉場魚市場」「天満青物市場」を次々に開いて、大坂の人たちの生活向上に尽くした豪商「淀屋」の二代主人淀屋个庵(こあん・本名岡本三郎右衛門言当)の成功は、おくれていた流通機構を都市型機能に改善した点にありました。
地方の物産を大坂に集めて販売するまでの経路、すなわち運輸・貯蔵(倉庫)・売却のシステムを独占し、さらに支払いの遅延する諸藩には、貸金の名目で物資の相当分を押さえる商法を確立したのです。
幕府は淀屋が多額の御用金を献納するのに目がくらみ、諸藩の財政よりも手厚く保護しましたから、淀屋はますます濡れ手に粟となって利潤を独占します。

淀屋个庵の墓
けれども个庵は金もうけだけの商人ではありませんでした。『新撰人名大辞典』に「个庵は徳川初期の連歌師で茶人」と出ているほど風雅を好み、とくに茶道は源光寺祐心の高弟で堪能(たんのう)、彼の茶会には諸大名の家老たちも出席しますが驚くほど簡素、茶道の原点に戻ろうとする心意気がみられます。また絵画にも長じ、好んで人物・花鳥を描き、松花堂昭範・石川丈山などの風流人や、僧沢庵とも親しくつきあっています。
寛永11年(1634)、将軍徳川家光は大坂を訪れたとき、大坂城に有力な大坂商人たちを集め、名字帯刀を許して恩を売ろうとしますが、个庵はなんの関心も示さず、生涯淀屋个庵で通した気骨の人です。晩年は惣年寄も務め、私費を投じて地域の発展に尽力しました。淀屋橋を架けて便宜をはかったのも、その一つです。
个庵は寛永20年(1643)67歳で病没します。彼には男子がいなかったので、甥(おい)の箇斎(こさい)を養子に迎え、淀屋三代当主を継がせます。四代重当、五代広当と続くものの五代広当が19歳のとき、幕府の命令で淀屋はお取り潰しとなり、豪商淀屋の栄華は夢と消えました。物語や芝居で有名な「淀屋辰五郎」は、この五代広当のことだと言われますが、本当はそうではなく、三代から五代までの行跡を作り話もまじえて脚色し、辰五郎なる架空の人物に合成した虚像です。
个庵の墓は大仙寺(中央区谷町8丁目)にある宝篋(ほうきょう)印塔で、「清昧軒直室个庵居士」と刻まれている…とされています。しかしこれは四代淀屋重当の墓で、二代个庵のものではありません。同寺墓地には淀屋一族の墓が多数残っています。(続く)
商都大阪の礎(いしずえ)になった豪商淀屋が、なぜ幕府からお取り潰しのひどい刑罰をうけたのでしょうか。
一般には五代当主淀屋辰五郎の「驕奢増慢(きょうしゃぞうまん=おごりたかぶりぜいたくな暮らしをしたこと)の罪」だとされています。しかし辰五郎なる人物は実在しません。近松門左衛門の傑作「淀鯉出世滝徳(たきのぼり)」をはじめ、芝居、講談、物語等が三代箇斎・四代重当・五代広当の行跡をひとまとめにして、おもしろおかしく作りあげた架空の人名です。

淀屋の屋敷跡
江戸時代の評判記『元正聞記』に、「(淀屋の屋敷は)大書院・小書院に黄金張り、金襖(ふすま)に極細色の草絵、庭に泉水、夏座敷にビードロ障子立て金魚を放つ。帝王・大名及ばぬ豪勢、四国九州の大名で借金せぬ者一人とて無し。家老も淀屋主人に手つきて挨拶(あいさつ)」 「(四代重当は)算盤(そろばん)秤目(はかりめ)も知らず。雨天に長き衣装着て泥中ひきづり市中を歩き、座敷泥だらけ、まさに聖人なり」などと書かれています。
とにかく三代・四代には商才どころか淀屋の経営自体に関心がなく、資産の管理・運用は無論、収支決算にいたるまですべて番頭・手代まかせ。風流と遊蕩をとりちがえ、大金を湯水のように使ってぜいたく三昧(ざんまい)に暮らしたようです。おまけに四代重当は早死したので、五代広当(辰五郎)が当主になったのは10歳のときでした。先代の放漫経営と、年額1万6千両と記される交際費が重なり、諸大名への貸金約20億両の大半が焦げつき、倒産寸前だったといわれます。
こうなると甘い汁にたかる蟻どもは、かぎりなく集まってきて内蔵まで喰いちぎる。のたうちまわる巨象淀屋を立て直すには、広当はあまりにも幼なすぎました。やがて広当はとりまき連中に遊所通いを教えられ、花柳界に入りびたり、新町の花魁(おいらん)吾妻太夫(あずまだゆう)にのぼせあがり、金千両で身請けしようとします。
金額は淀屋なら知れたものですが、遊女を正妻にするのはならぬと親類筋が猛反対、金蔵(かねぐら)を封鎖したため広当は親しい手代に泣きつき、手代は取引き先の薬種商小西源右衛門の名を勝手に使い、両替商天王寺五兵衛から2千両を借用し、吾妻を落籍してやりました。これが大事件に発展します。(続く)
豪商「淀屋」の五代主人に淀屋広当(一般には淀屋辰五郎)がわずか10歳でなったとき、淀屋は長年の放漫経営と代々主人の遊蕩(ゆうとう)やぜいたくすぎる暮らしぶり、それに諸大名への貸金約20億両がこげつき、まさに倒産寸前でした。

淀屋の碑
ところがもっと甘い汁を吸おうと番頭・手代どもは、まだ子どもの広当に遊所通いを教えたのです。広当は新町の遊女吾妻(あづま)に夢中になり、千両で身受けするから金策せよと手代に命じます。手代はすぐに返すつもりで知人の薬種商小西源右衛門の名を無断で使い、両替商天王寺五兵衛から2千両ほど借金し用立てますが運悪く、たまたまある会合で源右衛門と顔をつき合わせた五兵衛は、お前さん金持ちやのに、なんでわしに借金するんやとなにげなく尋ねたことから発覚、手代は謀判(ぼうはん=印判の偽造。当時は殺人以上の重罪)で獄門(ごくもん=首を落とされ、さらされる刑罰)、なにも知らなかった広当は所払い、淀屋は全財産を幕府に没収されてお取り潰しになります。宝永2年(1705)のできごとで、広当はまだ19歳の若者でした。まさに「驕れる者久しからず、春の夜の夢のごとし」のありさまで、栄華をきわめた豪商淀屋は、ハンコひとつで消滅したのです。
別の説もあります。当時の社会事件を記した『皇都午睡』という古書に、 「辰五郎(広当)の遊所通いを心配した母が、親しい老医師に説諭してほしいと頼んだ。老医師忠告で辰五郎も目がさめたので、喜んだ母は入手した高価な茶壷を老医師に贈る。老医師は茶の心得がなく商人に売りわたしたところ奉行が聞きつけ、これはさる宮家が盗まれた秘蔵の名器だ、盗品売買とは不届き千万なりといいがかりをつけ、淀屋はお取り潰しになった。これが真相だ」との内容が出ています。
ほかにもお取り潰しになった理由についての説は、いくつかありますが、おそらく莫大な借金を返済できなくなった諸大名たちが結束して、とるにたらぬ罪をでっちあげ、幕府に働きかけて淀屋を潰し、借金の棒引きを図ったたくらみが、本当の原因だったと思われます。もちろん物品の流通機構が整備され、諸藩の蔵米・蔵物の斡旋(あっせん)を独占した淀屋の商法の近代化がおくれ、経営組織が旧態依然たるありさまだったことが、致命傷になったと考えます。 (続く)
宝永2年(1705)幕府から「淀屋」の資産をすべて没収され、追放された五代主人広当(辰五郎)は、妻のあづまとひとり娘の五百(いお)をつれて八幡(現・京都府八幡市)に移り、下村个庵(こあん)と名を変え、昔淀屋に恩義のあった人からわずかな田畑をもらい、まるで空気の抜けた紙風船のように暮らします。それでもよほどくやしかったのか、一度江戸へ下って淀屋から巨額の賄賂(わいろ)を受けていた幕府高官に会い、資産の一部返却を願い出てけとばされました。

淀屋辰五郎の墓
妻のあづまはかつて吾妻と呼ばれた新町の有名な花魁(おいらん)でしたが、なかなかのしっかり者で、同7年には幼い五百と下男半七とともに大坂にもどり、証文の山をかかえて黒田藩や細川藩ら有名な大名たちの蔵屋敷の前に坐りこんで、とても暮らせませぬ、わずかでも返済してくださいませと泣きついています。
淀屋の経営は破綻(はたん)しかけていたとはいえ、お取り潰しの記録に、
「小判12万両、銀8万5千貫、千石船150、米蔵80、屋敷28、骨董(こっとう)宝石等無数、貸金証文山積…」
とあるぐらいです。大坂の人たちは髪ふり乱しボロ着をまとった「淀屋の御寮(ごりょう)はん」の無惨な姿に同情し、誰もが袖を濡らしましたが、蔵屋敷の役人どもは鼻汁さえひっかけませんでした。淀屋のあった中之島界隈(かいわい)には、多くの蔵屋敷が並んでおり、淀屋から借金しない藩はひとつもありません。各藩の家老や留守居役でさえ、淀屋を訪れたときは主人は無論、番頭よりも下座に坐り、手をついてあいさつをしたと言われます。それが知らぬ顔の半兵衛をきめこんだどころか、幼女五百にまでひしゃくで水をぶっかけました。
享保2年(1717)広当は失意のうちに、31歳で病死します。現在、八幡市八幡柴座の民家の前に、「淀屋辰五郎旧邸」碑が建っています。
また、神応寺(同市八幡荘)の墓地に、
「(正面)潜龍軒咄哉个庵居士 (背面)享保二丁酉十二月二十一日」
と刻まれた墓碑もあります。石清水八幡宮に参拝されたおりにでも、お探しください。
その後、妻あづまも心労が重なったのかウツ状態になり、とじこもったままで死亡(没年不明)しました。そして娘五百にも不幸が襲いかかります。(続く)
幕府に全資産を没収され追放処分を受けた豪商「淀屋」の五代主人広当は、山城国八幡(京都府八幡市)に移りますが、享保2年(1717)31歳で死亡、ほどなく妻のあづまも神経を病み、ウツ状態であとを追います。
ひとり残った娘の五百(いお)を気の毒がった地元の人たちは、奉行所の与力四方田重之丞(よもだしげのすけ)の息子孫七と結婚させます。ところがお堅いはずの役人の子のくせにワル、正業にはつかず酒と賭博にふけり、おまけに色事に手が早い。泣いてすがる五百に殴る蹴るの乱暴を働き、わずかな財産を使いはたすとさっさと雲隠れしてしまったのです。

明治18年の淀屋橋
生きる望みを失った五百は、近くの松林で首を吊ろうとしますが、たまたま通りかかった浪人の大野左門に助けられます。同情した左門はがらあきになった五百の家で寺子屋を開き、近所の子どもたちに読み書きを教えてかろうじて生計を支え、五百も炊事・洗濯など左門の身の回りの世話を焼くうちに親しくなり、二人は貧しいが幸せに暮らしはじめました。
いっぽう孫七は無頼仲間と悪事を働き続けますがこの話を知り、ねたましくなって仲間を誘い仕返しにきます。ある夜、珍しく左門が酒を飲んで熟睡したのを見定めて押し込み、左門を斬殺、正座して合掌しながらさしのべる五百の首も打ち落として立去ります。この時代は女敵討ち(めがたきうち)といって、夫のある女性が他の男と通じた場合は、二人並べて殺してもおとがめなしが常識でした。妻のある夫が不義をしても「男の甲斐性(かいしょう)だ」と不問にされますから、本当にひどい時代ですね。
ともあれ大坂が商都として発展する礎(いしずえ)を築いた豪商淀屋の末路は、こんな哀れな物語で幕が引かれています。
最後に「淀屋橋」にふれておきます。確実な資料はありませんが初代淀屋橋は、淀屋の二代主人淀屋个庵(こあん)が架けた木橋だとされます。何度も架け替えられたと思いますが、江戸時代後半の淀屋橋は橋長63・6m、幅3・9m、明治初年(同18年洪水で流失)のものは橋長73・4m、幅6mしかありませんでした。
現在の淀屋橋は昭和10年(1935)の竣工で、多数の応募の中から一等当選した大谷龍雄の「南欧中世紀風橋」が、設計基本になっています。賞金は金千円也でした。(終わり)
「クリスタ長堀」のオープン以来、心斎橋筋の文化史が見直されています。 心斎橋を架けた人については、たいていの本に、 「江戸時代の初期に、幕府に頼まれた伏見の町人伊丹屋平右衛門、池田屋次郎兵衛、美濃屋(岡田)新三らは、道頓堀川の開削に当たるが、とくに功労の大きかった新三(号は心斎)は、開発地の一部を拝領し屋敷を設け、家の前の長堀川に小さな橋を私費で架けた。世間はこれを心斎橋と呼び、大坂繁栄の象徴となる」と記されています。しかしこれは、郷土史家の牧村史陽氏(故人)が、昭和32年(1957)岡田心斎の子孫羽田氏の所在をつきとめ、同家秘蔵の「浪華長堀心斎橋記」「心斎系譜」(ともに元禄16年〔1703〕記述)を発見し、『史陽選集』に発表してからで、あとの方たちはこれをなぞって解説しているのにすぎません。

浪華長堀心斎橋記
それまでは
(1)島之内の医師大塚心斎(実在せず)が私費で架けた。
(2)心斎は人名ではない。新羅(しらぎ)町がなまったものだ、
などの説が横行していたので、牧村氏の功績は大きいと思います。
「心斎系譜」によると、心斎の祖父は氏家志摩守といい、織田信長に従って元亀2年(1571)伊勢長島の一揆(いっき)を鎮圧に行って戦死。子供の四郎兵衛は武士社会を嫌い、伏見に移って商人となります。新三(心斎)はこの四郎兵衛の息子で、天正3年(1575)の生まれです。
新三は地域開発に独特の才能がありました。幕府はそこに目をつけ、元和2年(1616)大坂落城で荒廃していた市中の復興を命じます。新三は仲間の伊丹屋平右衛門、池田屋次郎兵衛、三栖清兵衛らと、長堀川の開削にとり組みます。6年後工事は完了、
「長堀川上下二十七間 横幅七十五間 川幅二十五間を掘立テ 両側ニ町屋ヲ作ル 以来コノ地ニ住シ橋架ケテ名ヅク」(原文は漢文)
と記されています。
大坂冬・夏の陣に心斎は徳川方に味方し、兵糧や武器の調達・搬送に尽力しました。そのため家産の大半を失い、生活に困っていたのを二代将軍徳川秀忠が知り、徳川方を援助したのに町人だからとなんの恩賞も与えないのはけしからぬと、長堀川を往来す 船の料金と、沿岸の開発権をすべて心斎に与えました。彼はこれを地域の発展に使います。(続く)